プロローグ 『隣人と蜘蛛』
感想を頂けたら嬉しいです。
季節は春。
心地よい風と緑の芽吹く力強い匂い。
窓のガラス越しに差し込む日差しは温かく、猫は原付のシートで寝転がる。
ここは、木造2階建ての壁がうっすいアパートの一室。
一人の学生がうつらうつらと昼寝をしている。
彼の名はアダチ。近所の大学に通う学生だ。
見た目はパッとせず。社交的ではない。
天気が良い休日に、昼寝をするくらい友達が少ない。
アダチ青年がこのアパートに住み始めたのは2年前。
実家から遠い大学へ通う為、一人暮らしを始めた。
いや、彼の場合わざわざ遠い大学を選んだのだ。
憧れの一人暮らし、夜更かしし放題、スナック菓子食べ放題。
ベッドの下に隠していた秘蔵の品々は、隠すこともなくなった。
だが良い事ばかりではなかった。
このアパート、壁が薄いのだ。空手家の正拳突きならば見事な穴が開くだろう。
昼寝をしていた彼の眠りを妨げたのは、隣室の住人の声だった。
「あはははははは」
「それはないってー」
「だからー、そうじゃないでしょー」
隣人の声は同年代くらいの女性の声だ。
いつもながら良く通る声だ。
***
アダチ青年の部屋は2階の角部屋で、唯一の隣室は1年前まで空いていた。
大学のあとバイト先へ直行し、帰ってきたら隣人は引越しを終えていた。
1ヶ月くらいは静かだったのだが、除々に声が響くようになった。
そして3ヶ月ほど経った頃、隣人の友人が初めて遊びにきた。
「狭いけど、どーぞー」
「お邪魔しまーす、へー綺麗にしてるんだね」
「まーねー、あ、何か飲む?」
「うん、頂こうかなー」
「そこの椅子に座ってて」
「はーい」
――ブブウウウゥゥウウゥゥ
「ひいい、何これええー」
「あははははははは」
「えーこんなの仕込んでたのー」
「あはははははははは」
「ちょっとー笑いすぎだよー」
「あはははは、くるしー」
「ちょっと涙流さないでよー」
「あははは、腹筋がーもげるー」
アダチ青年は驚いた。
ブーブークッション1つであんなにも楽しそうな事に。
そして、会話がすべて筒抜けなことに。
決して聞き耳を立てていたわけではないのにだ。
そしてアダチ青年は考えた。
ここ数ヶ月を遡り、聞かれてはならない音、声など出していなかっただろうか。
だが、すぐ考えるのやめた。
聞かれていたとしても、関わりがある人間ではないからだ。
***
今日もどうやら友人が訪ねてきているみたいだ。
大きく伸びをしたあと、まだ少し重いマブタを擦りながら、ネトゲでもするかと考えた。
アダチ青年がオンラインシューティングゲーム『ウォーウルブズ』を始めたのは3ヶ月程前。
パソコンを新しくしたので、性能を試すつもりで始めたら見事にハマった。
ウォーウルブスは無数に襲いくるゾンビを仲間たち6人で撃ちまくるシューティングゲームだ。
何十、何百と怒涛のように押し寄せるゾンビを撃ち倒す。
この快感は他では味わえない、アダチ青年の心のオアシスであった。
ウォーウルブスではクランがある。
ゲームによってはギルドと呼ばれたりするシステムで、ゲーム内のグループみたいなものだ。
アダチ青年はクランには所属していない。
何故なら孤高を愛しているからだ。
否、言い訳だ。
本当は怖いのだ。
クランの仲間と馴染めるだろうか、いじめられたり嫌なやつがいたりしないだろうか。
そんなことばかり考えているから、ずっとクランには所属できていないのだ。
アダチ青年はずっと野良パーティーでゲームを楽しんでいる。
毎回変わるメンバー、ほとんどが初めましてで、そのあと会うこともあまりない。
野良パーティーのメンバーが6人揃うまでの間、その場限りのおしゃべりが楽しみだったりする。
ゲーム内のチャットはこんな感じだ。
ACHI:よろしくお願いします
BUNG:よろ~
ALEX:あーこれ終わったら飯にしよ
BUNG:もうこんな時間か、残り物のカレーがあったな
ACHI;カレーいいですね
BUNG:2日目のカレーは神だ
ALEX:揃ったんでいきまーす
この程度の会話でも、アダチ青年は喜びを感じていた。
ちなみにアダチ青年のゲーム内での名前はACHIだ。
そしてある日、不思議な事が起こった。
その日は夕方からログインして、デイリークエストからやろうと野良メンバーの募集を始めた。
デイリークエストとは、毎日更新されるクエストでクリアするとゲーム内のアイテムやお金を稼げるモノだ。
デイリークエストはやる人が多いので野良メンバーも集まりやすい。
1つ目のクエストは募集したらすぐ集まったのでサクサク終わった。
続いて2つ目のクエストの募集をかける。
低レベルの人がいたら念のため、分からなければ聞いてくださいと始まる前に言うことにしている。
教えてくださいと言う人はあまりいない。
だがその日はいた。
クエストの進め方や注意点を簡単に説明する。
誰かに付いて行って動きを真似してれば大丈夫と説明を締めくくると、スタートした。
2つ目のクエストが終わる頃にチャットで呼びかける。
ACHI:次、デイリークエストのゾンビ殲滅戦の野良募集するのでよかったら来てください
すると次に3つ目のデイリークエストの募集もすぐに満員になった。
さっきの低レベルの人もまた来てくれた。
プレイヤー名は『JUN』、名前を覚えてしまった。
ACHI:JUNさん、またよろしくお願いします
JUN:足でまといかもですがよろしくです
ACHI:いえいえ、そんなことないですよ
少し顔見知りみたいな感じがして喜ぶアダチ青年。
普段はゲームの音が漏れないようにヘッドホンをつけてプレイしている。
始める前に冷蔵庫から大山脈の天然水(2リットル)を取り出して、そのままラッパ飲みをする。
パソコンの置いてある机まで持ってきて、いつでも飲めるように置いておく。
再び画面に目を向けると最後の1枠が埋まったところだった。
「そいじゃいきますかね」
リアルで呟き、開始ボタンを押してから椅子に座る。
ヘッドホンをつけようと頭の辺りまで持ち上げる。
さっき置いた2リットルペットボトルにコードが引っかかって、天然水が大山脈へ帰ろうとダイブする。
そこには大山脈はない、イグサ香る畳があるだけだと必死に止めにはいる。
体勢を崩して天然水は救出したが、ヘッドホンのジャックがスッポ抜けた。
慌ててボリュームを絞る。
再度イヤホンジャックを差し込もうとしたがゲームが始まってしまうので音を下げた状態でやることにした。
サクサクとゲームを進めて行くと、データ読み込みで一瞬画面が暗転する。
すると画面には、まだヘッドホンをしている自分が映った。
少し恥ずかしそうにヘッドホンを外すアダチ青年。
ここから、画面の中から声が聞こえるようになった。
最初は何か聞こえるなーくらいだったのが、だんだんハッキリと聞こえてくる。
「あーしまった」
「ちがうちがう」
「待ってー」
「助けてー」
聞いていると、あるキャラの状況とリンクしているのだ。
JUNさんだ。
JUNさんがしゃべっている。
幻聴だろうか、いよいよここまできてしまったか。
アダチ青年は困惑しながらステージを進んでいく。
JUNがゾンビに囲まれている。
「ひいいー助けてー」
JUNが爆発に巻き込まれて倒れている。
「ぎゃー何々?!」
倒れているJUNを助けに行く。
「わーありがとー」
ついに何かしらの能力に目覚めてしまったかとアダチ青年の目は輝いている。
しかし、JUN以外のキャラからの声は何も聞こえてこなかった。
ステージ終盤、JUNは敵にやられて
「やだやだやだー」
と言いなが儚い命を散らした。
デイリークエストは他の5人でクリアして終わった。
途中でやられてしまったJUNの愚痴が聞こえてくる。
「もーむず過ぎ! 意味わからない!」
いや、これはJUNさんの声だろうか、聞き覚えがある声だ。
どこかで聞いた事がある、と言うか、よくこの部屋で聞こえる声にそっくりだ。
その瞬間、アダチ青年の脳天に雷が降り注いだ。
彼の仮説が正しければ、JUNは隣人のヤツに違いないのだ。
***
あれから数日たった。
自分の推測を確かめたかったが、方法が思いつかないままだった。
頭を抱えていたアダチ青年に転機が訪れたのは、その日の夜だった。
コンビニでのバイトを終えて、帰路に着く。
片手にはバイト先で買ってきた弁当を持ち、2階への階段を登っていた。
すると隣人の部屋から叫び声が聞こえてきたのだ。
アダチ青年は自分でも驚くことに真っ直ぐ隣人の部屋へ向かっていた。
「隣の部屋の者ですが、大丈夫ですかー!」
ドアを叩きながら叫んでいたのだ。
中から助けてーと声がする、ドアノブを回すと扉は開いた。
「入りますよー大丈夫ですかー!」
ドアを開け部屋を覗き込むと半ベソをかきながら、スーパーのビニール袋を持った女性がいた。
「クモ……、うぅぅ、大きいクモが……」
部屋の奥を指差している。
どうやら強盗や変質者が進入した訳ではなかったみたいで安心する。
靴を脱いで部屋の奥へと入る。
そこには手のひら大のアシダカグモがいた。
立派な軍曹だな、とのん気に考えていたら部屋の住人の泣きべそが聞こえてきた。
「大丈夫、害虫ではないので外に逃がしますね」
そこらにあったチラシを手に取り器用に蜘蛛をくっ付かせ窓を開けて外へと逃がしてやる。
窓を閉めて振り返ると、そこにはようやく泣き止んだ住人がいた。
「あの、ありがとうございます」
少し笑った女性を見て、アダチ青年は我に返った。
いつもの社交的ではない自分が現れ、急に心拍数が上がって変な汗が背中をつたう。
うつむき、玄関へ直行し、慌てて靴をはこうとするがうまくいかない。
「あのお礼に、どうしよう、ご飯でも」
背中から聞こえてくる。
「弁当、あるから」
言ったあとで持ってた弁当はどこに行ったのだろうと思った。
とにかくここから出なければと、急いでドアを開けた。
野良猫が2匹逃げて行くのが見えた。
足元には無残に散らばったアダチ青年の弁当が残されていた。
「あ……」
悲しい声が漏れてしまった。
「昨日の残り物なんですが、カレーがあるんです」
「2日目のカレーは神ですもんね」
反射で答えてしまった。
そしてご飯をご馳走になる事になったのだった。