02
バスの車内は、豪華だった。
計算された調度の配置のおかげで、狭いという雰囲気が全くない。天井からクリスタルのシャンデリアが落ち着いた灯りを投げかける空間には、本革のソファや大理石のローテーブルがゆったりと配置され、高級ホテルのロビーにも似た、寛げる空間を演出している。
壁面にとりつけられたテレビの下にはブルーレイの再生機もあって、各種映画を見ることができるらしい。また別の一角にはささやかながらもバー設備まであって、壁面に作られた棚には、見るからに高級そうな洋酒のボトルが並べられてあった。
「会場の到着まで、車内にあります設備や備品はどうぞお好きなようにご利用ください」
ウサギの言葉に、まず光が色めきたった。
「マジで?この酒も全部飲んでいいワケ?」
「そうぞご随意に」
「ラッキー!」
カウンターの中に入り込んだ光は、まだ朝と呼べる時間帯だと云うのに、まったく躊躇せずに酒瓶を開けて、クリスタルのカットグラスになみなみと注ぎ、咽喉を鳴らして飲みほした。
「うンめ!何これ、すっげーうめーんだけど!」
深緑色のボトルに張られた金とえんじ色のラベルをまじまじ見つめる光の脇で、全身をブランド物で固めた五〇年配の女――ウサギからは伊東光代と呼ばれていた――が、備え付けの冷蔵庫を開けて中をあさり始めた。
「こっちはあんま良いもの入ってないわね」
ちっと舌打ちした彼女は、ベーコンと野菜のキッシュを取り出した。予め八分割されていたタルトのうちの一片を手でつかむと、そのままがつがつ食べ始める。「味もなんか、ぼやけた感じ?……ちょっと、ケチャップかソース無いの?」
「調味料の類は、こちらの棚にございます」
光代に聞かれたウサギが恭しい手つきで、作りつけの棚の扉を開いて見せる。光代は動かず、横柄に手をそちらへ差し出した。
「ケチャップ頂戴」
「かしこまりました」
「……何これ。見たことないブランド製品なんだけど。食べれるの?」
受け取ったケチャップの容器をしげしげと見つめて顔をしかめた光代は、ついで蓋を開け、その中身をたっぷりとキッシュに塗り付けた。
「……やっぱ、あんまり美味しくないケチャップね。安物なんじゃないの?」
ぶつぶつ文句を云いながらキッシュを食べきった光代は、二切れ目を手にとると、またケチャップを大量に盛って、かぶりついた。
「皆さまもいかがですか?」
ウサギが周囲にそう訊ねると、旺盛な食欲を見せる光代に刺激されたのか、2、3人が遠慮がちに手を挙げた。
「じゃあ、……いただきます」
「わたしも」
対木多江と毛里枝亜が呟くように云う。参加者のなかでは若い部類に入る女性二人は、どちらからともなく身を寄せ合うようにソファの一角に座って、ウサギから手渡されたキッシュの皿を、もそもそと、居心地悪そうにつつき始めた。
「ノンアルコールの飲み物も用意できます。コーヒーや紅茶はいかがですか?お望みでしたら、フレッシュジュースも作れます」
ウサギの勧めに、また何人かが応じた。
憲次は、揺れる車内を慎重に歩いて、窓際の席で黙然と窓の外を眺めている小百合の隣に腰を下ろした。
小百合は、憲次が座った瞬間こそちろりと目をくれたものの、すぐにまた窓の外に視線を戻し、無感動な様子で流れる気色を眺め続ける。
オーバーを脱いでバックパックごと、近くの空いている席に置いたりして時間をかせぎながらしばらく待ったものの、小百合がいっこうに、自分を含めた車内に対して興味を見せないため、憲次は話しかけるタイミングをすっかり逃してしまった。
「えっと、……」
所在ない気持ちで、車内を見渡す。
憲次が小百合に話しかけるタイミングを計っている間に、他の客たちはそれぞれ、飲み物や食べ物をウサギから手渡されて口をつけていた。参加者のうちで飲食していないのは、憲次と小百合の二人だけになっていた。それを気にしたのか、
「佐々岡様と力永様は、何かあがられませんか?」
二人の前へ来たウサギが尋ねた。
憲次は首を振った。
「俺はいいよ。ちょっと車に弱いんで、乗ってるときはあまり飲食しないようにしているんだ」
「私もいらない」
窓の外から目を動かさないまま、小百合が云った。
「さようでございますか」
ウサギは残念そうに呟いた。
「ねえ、あたしにも飲み物頂戴。アイスティがいいわ」
光代が横柄に野太い声を張り上げた。
「はい、ただ今用意いたします」
ウサギが光代に云われた飲み物を作りにバーカウンターの向こうへ行ってしまってから、憲次は遠慮がちに小百合に話しかけた。
「えっと、……力永、さん?」
呼ばれた小百合は、無言のまま振り返ると、眼差しで何か用かと訊ねてきた。
「おれ、佐々岡。佐々岡憲次って云います。**大学の法学部で2年生してます」
憲次が通っているのは、偏差値が高いことで人に知られたところなので、合コンなどで名前を出すと、それまでこちらにまるで興味を持っていなかった様子の女たちが眼の色を変えることがたびたびあった。それを狙っていなかった、と云えばウソになるが、
「……そう」
まるで興味が無いというように流されたのは、まったく予想外だった。「それで?」
訊ねられた憲次は、戸惑いがちに言葉を継いだ。
「えっと、……力永さんは、学生さん?」
「そう」
小百合は短く頷いただけで、いくら待ってもその次はなかった。
「どこの大学?」
「★★大」
憲次よりさらに偏差値の高い大学名を出されて、一瞬ひるむ。
「そ、そうなんだ。頭いいんだね。何年生?何学部?」
「電気電子工学科。3年」
「3年ってことは、俺の一コ上だ。お姉さんだね」
軽口をたたくが、氷の眼差しの前に不発。憲次は気を取り直して、話題を修正した。「電気電子工学科って、どんなことをするの?パソコンのプログラミングとか、そういう関係の勉強してるの?」
「私は違う」
「それじゃあ、何が専門?」
「電磁気学」
「それって、どんなことをするの?」
「物理学の一分野」
「へえ。物理って、俺ダメなんだよね。根っからの文系だから。高校の時はそれで苦労したんだ」
「そう」
だからなに、と訊ねる目線に、気力がくじけそうになる。
「力永さんって、すごいね」
「すごくない」
「いや、物理が解るってすごいと思う」
「解らなくても、現代日本で生きて行くに不自由はないはず」
「そ、そうかもしれないけれど、でも解っていれば、それで助かることもあるだろうし……」
「例えば?」
「たとえばええと、……」
慌てて考えたものの、一つも思いつけなかった憲次は、しょぼんとうな垂れた。「解んないや。だって俺、物理の成績壊滅的だったし」
「そう」
小百合は眉一つ動かさない。
いたたまれない気持ちになった憲次は、視線をそらし、……視界に入ってきた光景に、目をしばたたいた。
「みんな寝てるね」
いつの間にか、自分たちを除いた参加者たち全員が、うとうととまどろんでいた。
それぞれが急速に、かつ強烈な眠気に襲われたらしい。食べかけの皿を膝にこぼしたり、飲みかけのグラスやカップを足元に落としていた。中には光代のように、飲みかけのアイスティをこぼして服の前がびしゃびしゃになっているというのに、それでも全然目を覚まさない者もおり、その様子はいかにも不自然だった。
「なんか、おかしくない?」
憲次が訊ねると、小百合も異常に気付いたらしい。いぶかしげな眼を彼に返してよこした。
「急病かなにかかな?」
ふと思いついたことを口に乗せた憲次に、小百合はかぶりを振った。
「違う。今朝顔を合わせたばかりの集団で、私たち以外の全員が同じ症状を見せて昏倒するのは不自然すぎる」
「確かに」
頷いた憲次は、すっと自分の視野に影が差した。顔を仰向けてそちらを見ると、いつの間に憲次たちの前に来ていたのか、ウサギがそこに立っていた。
「ウサギ、……さん」
ウサギの名前を聞きそびれていたことに、今更ながらに気がついた憲次は、躊躇いがちにそう呼びかけた。
「はい。何でしょう」
ガラスの作り物の目同様、無機質かつ無感情な声色で、ウサギは応じる。淡々としたその受け答えに、憲次の動揺は否応なく加速した。
「何でしょう、じゃなくて!みんな変ですよ。あんなふうに意識失うみたいに寝ちゃって。病院に運んだほうがよくないですか?」
が、ウサギは動じるどころか、やれやれ、といかにも吐かれた風に嘆息した。
「佐々岡様と力永様も、こちらの勧めるものを口にして下さったら、こんな手間は要らなかったのですけれどもねぇ」
「それはいったいどういう――」
どういうことかと問い詰める憲次の顔の前に、ガラスの香水瓶がつきだされた。
アンティークショップや洋風の雑貨を扱う店で見かける、色ガラス製の本体に空気を送る細長い管と空気ボールのついた、スプレ式のアトマイザーだった。
避ける間もなく、シュッとひと拭き、ガラス瓶の中身を拭きかけられた。あまいような酸っぱいような臭いのする冷たい霧を肌に感じたと思ったら、全身から力が抜けた。
「な、に……」
意識が、地の底に吸い込まれるようにどこか深いところへ落ちて行く感覚で、急速に薄れて行く。
ソファの背に力なく寄りかかった憲次の視界の脇で、自分同様薬品を噴霧された小百合の身体が脱力するのが見えた。
「この薬品は、効果が早くて強いのですが、その分身体にかかる負担も強いんですよね。次にお目ざめになられたら、二日酔いに似た感覚が残っているかと思われますが、それ以外に深刻な副作用は今のところ報告されていませんので、どうぞご安心なさってください」
「ふざ、ける……な」
かすむ視界でウサギを睨みつけながらどうにかその一言を絞り出したのを最後。
憲次の意識は途切れた。
車内が急に静かになったバスは、混雑する駅前から街中を抜けて、郊外へと向かう幹線道路へ入る。
のどかな田園風景を抜け、冬枯れした山に入り、更に走り続ける。
主催者が支度した、特別な施設を目指して。