03
*山口麻緒佳
クリスマスなんて、もう何年祝っていないだろう。
夕食の皿を並べながら、リビングのテレビから流れてくるクリスマスソングを耳にした麻緒佳は、鬱々として思いを馳せた。
結婚して八年。夫の家族と同居して五年。覚えている限りクリスマスを祝った記憶が無い。結婚するまでは、気のおけない友人たちと集まってパーティをしたり、夫の孝史と付き合い始めてからは恋人らしく二人で食事に出かけたりと、それなりに楽しんでいたのだが。
そんな年に一度のささやかな楽しみすら、この家で味わったことが無い。
「毎度のことながら、バランスの悪い献立ねぇ」
いつの間に食堂へ来ていたのだろう。姑の夏子が意地の悪い目でテーブルをチェックしていた。
「かぼちゃの煮物に肉じゃがって、どちらもお醤油味の煮ものじゃない。味のバランスがなってないわ。しかもこの海老フライ、出来合いのものじゃない?手抜きねぇ。付け合わせが刻んだキャベツだけってのもいただけないわ。彩りが悪いじゃない。せめてトマトをつけるくらいの気遣いをするのが、台所を預かるもののつとめじゃない?それにお惣菜って、自分で作るより高くつくのよね。自分が手抜きして楽するために孝史ちゃんのお金を無駄遣いするだなんて、本当に無能な嫁ねぇ」
「今日はパートで残業を頼まれて、帰りが遅くなったんです」
麻緒佳が無表情で云うと、夏子は勝ち誇った表情で得々と云い放った。
「言い訳しないで頂戴。私は、どんなに忙しいときだって、食卓に出来合いの総菜を並べたことはなかったわよ。それが主婦の勤めだって、自負してましたからね」
嘘つけ、と遙は胸の中で吐き捨てる。
(そもそもてめーは、就職はおろか、パートすらしたことねーだろ。今も昔も専業主婦してて、やれフラワーアレジメントだ、やれマナー講習会だ、やれテーブルセッティング講習会だ、なんて毎日好き勝手に遊びまわってて、夕食はいつもカップラーメン、玉子一つ落としたインスタントラーメンはごちそうだったって、孝史さんから聞いてるよ)
もともと夏子は料理が好きな性格ではないらしい。同居が決まった時に嬉々として麻緒佳に台所を譲ったのは、そのためだろう。
料理嫌いなら料理嫌いらしく、他人に作ってもらった物をありがたく黙って食べていればいいものを、彼女は麻緒佳の料理に対して、必ず何か小言を云ってくる。
「まったく、最近の若い子って、自分が楽することしか考えていないのよねぇ」
麻緒佳の席に並べてある皿からかぼちゃの煮物を指でつまんで口元に持って行きながら、夏子は意地の悪い口調で云う。
「でもまあ仕方ないわ。ある物は食べないと。食べ物を粗末にしたらもったいないものね」
「まあまあ、母さん。麻緒佳さんにもいろいろあるんだし、あまり責めないであげようよ」
麻緒佳のすぐ背後に立った舅の孝一が、麻緒佳の肩を抱くように手を置いて夏子をなだめる。一見嫁である麻緒佳を庇ってくれているようだが、必要以上に密着させてくる身体や、ともすれば麻緒佳の胸をまさぐろうと、エプロンの肩ひもを辿って降りてくる手の動きからすれば、それが親切心によるものではないことくらい、すぐに判る。
(口が臭いんだよ、このエロハゲジジイ!近寄ってくるな!)
とはいえ麻緒佳は口に出して文句は言わないし、表情も動かさない。嫌がっても相手を喜ばせるだけだと、この五年の間に学んだのだ。
孝一は、若い女が自分の行いに反応するのを見たいだけなのである。甲高い声で止めてください、嫌です、なんて叫ぼうものなら相手の思うつぼ。喜んで調子に乗り、何を気にしているんだ家族じゃないか、などとへらへら笑いながら更に露骨に触ってくるのが目に見えている。妻であるはずの夏子は、もはやそんな孝一には愛想が尽きているのか、そうした彼の行為をたしなめることすらしない。騒いでも無駄と云うものだ。だからこの時の麻緒佳は孝一を無視したまま、さり気なく肩に乗る腕をふりほどいた。
「孝史さんにお食事だって、伝えてきます。どうぞお先にあがっていてください」
孝一と夏子はそれには返事せず、テーブルに着くと勝手に食べ始める。麻緒佳は顔をしかめてそんな彼らから目をそらした。それというのも二人とも、食事の作法が吐き気を催すほどひどいのだ。背中を曲げてご飯茶碗を抱え込み、握りこむような妙な持ち方をした箸で口に掻きこむ。遠くにある皿の料理は腕を伸ばして箸を刺し、口元へ持って来る。きちんと口を締めて噛まないので、食べている間中、くっちゃくっちゃと厭な咀嚼音が響き渡る。入りきらなかった飯粒やおかずのかけらが口の端からぽろぽろこぼれ落ちて、服の胸やテーブル、床を汚す。傍から見るその姿は、幼稚園児よりひどい。麻緒佳たちにはまだ子供はいないけれど、もしできたら絶対に食事を一緒にさせたくないと思っている。こんな汚い食べ方をする大人と一緒に食事だなんて、幼児教育に悪い。
麻緒佳は嫌悪感あらわに食堂を出た。
築三〇年の木造家屋は、そこかしこにガタがきて、どこもかしこもうす暗く、湿っぽい。ここで暮らし始めて5年がたつが、未だ麻緒佳はこの陰気な家屋になじめないでいた。
文句を云える立場ではないのだということは、重々承知しているのだが。
踏みしめるごとにぎしぎしと厭な音を点てる木製の急な階段を上って自分たちの部屋の前に立つ。
「孝史さん?」
経年劣化して茶色いシミが表面に浮いた襖越しに声をかける。
しばらく待ったが、返事はない。
代わりにピコピコと耳に障る電子音が唐紙越しに聞こえてくる。
麻緒佳はため息をついた。
「孝史さん。入るわよ」
高校卒業まで孝史が使っていたという八畳の和室で、孝史は、パソコン画面を凝視して、両手で握りこんだコントローラのボタンを連打していた。
夕闇に沈んだ室内で、電灯を点けることはおろか、カーテンを締めることすらせず、ただただ夢中でパソコン画面のキャラクタを操作する孝史を見た麻緒佳は、ため息をついて電灯を点けた。
「孝史さん」
返事はない。指以外微動だにしない彼の代わりに、画面の向こうでは彼の分身であるキャラクタが飛んだり跳ねたり敵のモンスターを攻撃したり、たいそう活発に動きまわっている。
「孝史さん!」
肩を掴んで強めに揺さぶる。が、その手は乱暴に振り払われた。
「邪魔すんな!今いいとこなんだから!」
強く叩かれてジンジン痛む手の甲をさすりながら、麻緒佳は、最近とみに薄くなってきた孝史の頭頂部を睨みつけた。
「ねえ、いい加減仕事探してよ。前の仕事辞めてから、もう半年よ。いい加減にちゃんと腰据えて、きちんと働いてよ」
孝史は応えない。いつも通り、自分に都合の悪い言葉は聞こえないふりをするのだ。
「ねえ。いい加減お義父さんお義母さんの世話になり続けるのはやめなくちゃいけないって、あなただって解っているでしょう?お義父さんも先月定年迎えて、でも年金が入るのはまだ5年も先なんだし、だからお義父さんたちだって、これからはもっと切りつめて生活して行かなくちゃいけないの。私たちが厄介になり続けるわけにはいかないの」
孝史の返事はない。
ねえ、解っているでしょう?――と何度か繰り返して訊ねると、やっと、ああ判っているよ、といら立った声が返ってきた。
「じゃあ、そんなゲームなんかしてないで、ちゃんと勤め先を探して、きちんと働いてよ」
「判ってるよ」
「本当に判ってるの?本当の本当に、解って云っているの?」
「判ってるって云ってるだろう!」
苛立ったように声を荒げた孝史は、その怒声にびくっとした麻緒佳を憎々しげに睨みつけた。
「くそっ。お前のせいでミスッたじゃないか!せっかくいいとこまでいってたのに、ミッション失敗だ!お前のせいだぞ!」
乱暴にゲーム画面を終了させて、孝史は足音荒く部屋を出て行く。麻緒佳は自分の足元を見つめながら、全身を絞るようにため息をついた。
「知らないわよ、そんなの……」
本当に、なんでこんな、ゲームごときのことで怒鳴られなければいけないのだろう。
理不尽さとみじめさで、涙が出てきた。
「この五年間、まともに働いてない癖に……」
不況のあおりをうけて、孝史がリストラされたのが五年前。しばらくは退職金と失業手当、それにわずかながらにあった貯金を食いつぶしてしのいでいたものの、孝史が望むような条件の職場はなかなか見つからず、加えて派遣社員だった麻緒佳の収入も安定しておらず――結婚生活を優先させて、短期短時間のパート並みの仕事に契約をシフトさせてしまっていたのがあだとなった――、生活はたちまち行き詰まってしまった。
「それなら、戻ってきなさい。地元なら、私も多少の顔はきくから、仕事も世話できる。生活が安定するまでは同居すればいい。もちろん家賃や光熱費はいらないよ」
賃貸マンションの家賃も払えなくなった麻緒佳たちの窮状を知った孝一たちがそう云ってくれたとき、麻緒佳は確かに感謝した。何て善い人たちなんだろうかと、感激したものだった。
出来ることなら、当時の自分を怒鳴りつけてやりたい。
それまで互いに遠く離れて暮らしており、顔を合わせるのは一年のうちでも盆と正月の、あわせて五日前後ということもあって、麻緒佳は、自分の舅姑がどんな人間なのかということを、理解していなかった。判っていたなら同居など、たとえどれほど困っていたとしても、絶対に承知しなかっただろう。
加えて両親の元に身を寄せた孝史は、麻緒佳の夫という役割を忘れ、全てにおいて両親に寄りかかって生きる怠惰な息子に戻ってしまった。
せっかく孝一が探してきた仕事も気に食わないと云って、面接を受けに行くことすらしようとせず、日がな一日パソコンゲームに没頭する。
孝一たちは、そんな孝史をいさめることをせず、夏子に至ってはこっそり小遣いまで渡している始末だ。
同居を開始するにあたって、家賃と水道光熱費を免除してもらう代わりに、一家の食費を出させてもらいたいと麻緒佳は提案し、受け入れてもらっていた。孝史は、「そんなことしなくても良いのになぁ」とのんきに云ったけれど、成人した一個の人間として、ただ世話になるのは心苦しかった。それくらいさせてもらうのが常識だと思ったのだ。が、孝史にはそんな、成人としてのプライドは全くないらしい。少しでもあったら、いい年をして親のすねをかじるばかりか、小遣いまでもらって暮らすなんてできないはずだ。
先ほど、惣菜を買って来たことに対して夏子は「孝史のお金を無駄遣いして!」と憤って見せたけれど、正確に云えばあれは麻緒佳がパートで稼いだ金で買った物だ。孝史はこの五年間、一銭も家計に入れていないし、家事労働でそれを購うことすらしない。
ただただ、パソコンゲームで時間を浪費するだけだ。
(いい加減に、こんな生活から抜け出さないと……)
子供だって持てやしない。
麻緒佳だって人並みに自分の子供は欲しいが、こんな環境、こんな経済状態でそれは夢物語だ。
はぁ――と全身を振り絞ってため息を吐き出す。
お金が欲しかった。
心底、お金が欲しかった。
この家から出て、居を構え、子どもを産んで育てて行くだけのお金が必要だった。
が、さしたる資格も技能も持っていない、既婚の三十路女にそうそう稼ぐ手段があるわけもなく。
結局のところ、自分はここで朽ちて行くほかないのだろうか。
子供も持てず。
人並みな生活も送れず。
ただただ、パートで気力と体力をすり減らし、姑の嫌味を堪えて舅のセクハラに耐えて。
あと十年もしたら、二人の介護まで自分の負担になるのだろう。
その時のことを思うと、麻緒佳はさらに暗鬱となる。
「子供」である孝史は、絶対にあてにならない。結局自分がやるほかないのか。
そんな諦めの境地に浸った麻緒佳の手が、ふと、エプロンのポケットに入っていた葉書に触れた。
夕刊をとりに行った際、自分宛てに届いていた物だ。読む暇が無かったので、反射的に個々に入れたまま、今まで忘れていた。
「一体だれが……」
大抵の用事は携帯やメールですんでしまう昨今、誰が自分に葉書なんてよこしたのだろう。
官製はがきにパソコンプリンタで印刷された文章は、
『ゲームの期間は最大で一週間ほど。これは、あなたの能力によっては短縮も可能です』
そう、麻緒佳を勧誘していた。