火と赤い実
赤い実を口に放り込む。すこし舌で転がした後、一気に噛む。少しの苦味が口に広がり消えていく。思っていた味と違い口の中に残ったそれを吐き出し、水を飲み干す。腐ってたのか?しかし、そんなことはどうでもよかった。時計の針が2時を指していたが不思議と眠くはない。明日も朝から仕事なのに。ため息をつきながらベランダに出る。何も考えず、いつものように煙草を咥え、火をつけ、煙を吐く。ただそれだけ。いつものと何の変りもない。ただそれだけのことがいつも以上に重く感じる。疲れているのか。いや、体は元気だ。自分のことなのに何を求めているのかわからなかった。睡眠、休息、娯楽、快楽。どれも満足という訳ではないが今、求めているものとは違う。何の考えもなくただ、煙を真っ暗な空に吐き、虚ろにどこかを眺めている。落ちていく灰が微かに積もる。気づきもしないそんな些細なことすら今は目が拾う。積み重ねたところで少し風が吹けば灰は舞う。そこに何も残さずに。
ただ、毎日をなんとなく生きていた。起きて、機械的に作業を行い、帰り、寝る。決められたことを、ただそれだけをしていた。それさえしていれば誰にも文句を言われることなく穏やかに過ごせる。そう思っていた。いや、思い続けている。穏やかに過ごしている今がいい。楽だ。与えられたことに関して与えられた分だけ返しておけば何も言われない。バカみたいに努力を重ねてそれ以上を返したところで貰える金は変わらない。代わりに他人から信頼を得るだろう。ただ、それを得たところで、一度大きなミスでもすれば積み上げた信頼は一瞬で崩れる。ならその努力は無駄だ。明日の自分が何をするかなんてわからない。明日大きなミスをするかもしれない。そんな危ない自分に投資する気はさらさらない。努力しない代わりにミスもしない。穏やかに過ごせるならそれでいい。誰も何も言わない。
気づけば煙草が短くなりつつある。小さな火が無骨な指に迫る。徐々にその細い道を進んで。努力を拒み続けてきた指に迫る。眺めていた。その道が燃え尽きていくのを。努力が嫌いな自分に迫るのを。その火が少し輝いて見えたから、強く見えたから、眺めていた。指に触れた瞬間、思わず手を跳ね上げる。男に迫っていた火は瞬く間に地に落ち、消えた。
人生に期待していた時期、自分という人間に投資し続けていた時期、男はそれを思い出せないでいた。いや、「思いだそうとしなかった」と言った方が正しいだろう。そして消そうとしていた。今の自分が理想の自分を直視できないくらい、理想の自分は輝いていた。あと一歩の所で達成できたはずだった。妥協したのは、諦めたのは紛れもない自分だった。恵まれた人生の中で、平凡な、誰にでもできるような作業をかき分けるように探し、それを苦汁に見せるため、ただ雑に大きくし、いい訳という脆く都合のいい盾に変えて自分を守っているつもりで生きてきた。間違いない。あの小さくても強く、熱く、輝いていた火のような眼をしていた自分が「いつかは」いた。いつの間にかいなくなっていた。いや、自分から追い出したんだ。楽だから。苦汁でできた盾は同情や、妥協を生み、「自己肯定」を与えてくれた。だから都合がよかった。周りの声を水とした「しょうがない」という種は芽を出し、やがて諦めという太い幹を持つ木が自分の心に根を生やした。もう一度輝きたい。自分に正直になり、弱さを捨てて、もう一度火になりたい。だが、この木を焼き払うには火種が小さすぎた。
幼い自分が今の自分を見たらなんて言うだろうか。そもそもこの虚ろな目をした男を自分と認めるだろうか。思えば口先だけで過ごしてきた子供のころの自分。でもそこには確かに目標があった。未来があった。火があった。進んできた道は甘いだけではなかった。少し酸味が効いたり、時には苦味なんかもあった。でもそれらがいいアクセントになり、駆けるようにその道を進んでいた。いつか、明るいモノがあると信じていた。純粋に。愚直に。いつの間にか迷っていたんだ。疑うことも知った。むしろ疑ってかかる様になっていた。純粋とはかけ離れた心の持ちようだ。甘みも酸味もなくなった。残ったのはただの苦味だけ。しかし、そうしたのは自分なのだ。いつからだろうか。妥協を積み重ねた結末。予測しやすい結末。理想とはかけ離れた結末。引き寄せたのは自分。
2本目の煙草に手を付ける気は起きなかった。今はどうでもよかった。ただ、今は自分の中の火が本当に消えたのかを、安っぽくなった自分にずっと訊いていた。奮い立たせる意志を持とうとするたびに心に根をはった諦めという木がどこかで嘲う。自己への諦観が自分を殺していく度に、己の身代わりになった「自信」が死ぬ。何年続けただろうか。身代わりはもういない。自分は落ちるとこまで落ちた。這い上がる力もなく、そこに居場所を作ってしまった。最後は自暴自棄になって「自分の喉元に刃を向けてもいいんじゃないか」いつかはこう思うのだろうか。幸い、まだ生きている。加えてそんな感情も今はない。生かされている。理想の自分に。まだ間に合うとどこかで思っているのだろう。そんなちっぽけな希望とは裏腹に今の自分と理想の自分には深い溝がある。わかっている。締め切りは守らないといけないんだ。設けたつもりもなかったが忘れていたのだろう。もう数年単位で過ぎているのだから。もう、間に合わないのか。自問への答えはない。
ベランダにいる短い時間で自問自答と自暴自棄を繰り返して自分の過ちを見つけては傷口を抉った。しかし、それでも生きていたい。今でも変わりたい。そう思う自分がいる。ふと顔を上げる。殺風景なベランダを眺めながら、気づいた。自分の中にさっきと違う感情が生まれている。はっきりとわかった。自分の中の火は完全に消えてはなかった。理想の自分が守っていた火が燃える。
気づくと空は明るんでいた。鳥の鳴き声が聞こえる。一睡もしていないのに清々しい朝だ。変わると決めた。男は立ち上がり、その目にしっかりと光を刻んだ。大きく伸びをする。まだでかけるには早すぎる。しかし、動き出したい気持ちを抑えきれなかった。新鮮な気持ちで出社できるなら早すぎてもいいだろう。時間もあるしいつもと違う道をつかおう。会社の近くのカフェで朝ご飯もいいな。シャワーを浴びスーツに身を纏い、ネクタイを締める。いつもと何の変りもない。ただそれだけのことがいつも以上に、いやこんな気持ちは初めてかもしれない。「楽しい」心からそう思う。
火は燃えている。熱く。強く。輝いている。出る間際に赤い実を口に放り込む。それを一気に噛んだ。甘酸っぱさが口中に広がる。空はさらに明るくなっていた。
男の火は燃えている。
ご拝読ありがとうございます!
この作品は自分が仕事で同じような気持ちになった時に吐き出す気分で一気にある程度書き進めた作品です。だから少し自分に当てはめたような表現もあります。自分に言い聞かすような気持ちで書いてましたしww
誰しもあるんじゃないでしょうか?理想の自分とかけ離れていく自分自身。そして諦めや妥協が生んだ納得しがたい結果。
そのままずるずるいってしまったりしますよね。
私もそんな時がありましたがなんとか踏ん張ってますww
タイトルは思いつきですね。タイトルから思いついたのでその2つがかかわるような感じで書いたのですがいかがでしょうか?
最後に、この男は今の気持ちを保てるのか?「木」が燃え尽きるほどの火が生まれるのか?それはわかりませんが、個人的に書いてて自分も頑張らないといけないなと思いましたww
また気が向いたときに新しい作品を投稿します
それでは