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忘れることのないたった一つのこと

作者: ling-mei

 幼い頃の思い出と言えば、大抵は『初恋』というものにたどり着く。僕と僕の友達の間だけでのことかもしれないけれど、僕らはいつも集まれば『初恋』の話で盛り上がっていた。

 桜はすっかり散り終わり、葉桜が目立ち始めた四月の終わりごろ、忙しい合間をぬって、僕らは居酒屋へと繰り出した。僕ら三人は高校生のころからの付き合いで、今でも会えば馬鹿な雑談で大はしゃぎしている。そして今日も、そんな馬鹿な雑談で大はしゃぎする予定だった。

 居酒屋のほんのりとオレンジ色に染まった空気が好きだ。妙にどの人間も威勢がいい。仕事で凹んだときでさえ、酒を飲むと楽しくなってくるから不思議なものだ。

「そういえばさ」

 生ビールのジョッキを口に運びながら、がっちりしていて体格のいいモリーが僕に言った。

「キョンちゃんの初恋話まだ聞いてないよな」

 ほら来た。どうしてかこいつらは初恋話が大好きだ。僕もそういう類の話が嫌いなわけではない。でも、今まで何かにつけてそのことには触れないようにしてきていた。

「俺ら暴露したんだからさ、おまえも言えよ」

 伊野くんも僕にそう言って迫ってくる。三人の中で一番のイケメンは、酒のペースも一番早い。すでに彼はビールのジョッキを二杯からっぽにしていた。僕は黙って愛想のいい笑顔を振りまきながら、大好きな砂肝をほおばっていた。

 どうしても口を割ろうとしない僕だったけれど、酒の力というのは恐ろしい。チューハイの三杯目に突入したとき、僕は気持ちがよくなって、思わずその『初恋』の経験をこぼしていた。一度口から溢れ出したら止まらなかった。



* * *



 小学校二年生の頃のことだ。当時の学校でのイベントと言えば、第一に、『席替え』だった。運動会や学芸会ももちろん大切な行事だったに違いないけれど、面倒臭がり屋だった僕にとっては、席替えは月に一度のお楽しみのようなものだった。今思えば本当にガキっぽく感じられる。

 その日はちょうど月の初めで、席替えの日だった。よく晴れた七月のことだった。通学路に並ぶ、濃い緑色に色づいたケヤキが、やけに印象的だった。僕はわくわくしながら家を飛び出し、思わずスキップまでしていた。とにかくその日は浮かれていた。ちょうど今の席は、周りに仲のいい奴がいなかったから、給食のときも授業中もつまらなくて仕方なかったのだ。

暑くて汗が垂れるのも気にせず、ランドセルにつけた交通安全の御守りを揺らしながら、走って学校へ向かった。通学路にある神社の鳥居の前を過ぎるとき、一匹の蝉が、僕の足音に驚いて、ジジジ…という音をたてて飛び上がり、太陽の光の中に消えていった。僕はそれを横目で見ながら、なお足を動かし続けた。

朝一番で学校に着いた。運動場にも、誰もいない。にわとり小屋から、にわとりの能天気な声が聞こえてくるだけだった。急いで下駄箱に行って靴を履き替え、廊下を駆け抜け、階段を駆け上った。机の並んだからっぽの教室につくと、教卓の上に真っ白な紙が置いてあり、クラスの人数分だけ、黒いボールペンで棒線が引っ張ってあった。黒板には黄色いチョークで大きくこう書かれていた。

『きょうしつに来た人から、せきがえのくじ引きになまえをかきましょう』

僕はランドセルも置かずに、すぐに傍に置いてあったボールペンを握ると、強く自分の名前を書いた。左から十番目の線。僕はいつもここに名前を書くことに決めていた。特に理由はなかったけれど、何だかここが一番の場所だと思っていた。子供の頃は、そうやって自分の中で勝手にルールを決めて、いろいろやっていた気がする。そのルールというのも、『食べるものは好きなものを最後に』とか、『テストのときはこの鉛筆を使う』とか、特に根拠のないものばかりだった。たぶんそれは僕だけだったのかもしれないけれど。

僕が名前を書き終えると、クラスの女子が数人やって来て、キャイキャイ言いながら名前を書き出した。そういえば、席替えは、どの女子と隣になるかもけっこうな重要項目だった。マドンナ的な存在の子と隣になれば、そりゃ楽しいし、興味のない子と隣になれば、その一ヶ月間は会話もすることなく終わる可能性だってある。

女子が名前を書き終わったころ、他の奴らもやって来て、やっぱり嬉しそうに騒ぎながら名前を書いていた。ジャンケンをして、誰が先に書くかでもめたりしていた。子供のころは、やたらとそういう順番だけにはこだわっているものだ。

みんながワイワイ席替えのことで盛り上がっているとき、最後に、一人の女の子が教室に入ってきた。少しウェーブのかかった淡いブロンドの髪。目はきれいなブルーをしていた。

その子は静かに自分の席にランドセルを置くと、黒板の文字を見た。そして、ゆっくりと自分のランドセルから筆箱を取り出し、鉛筆を手に持つと、長いブロンドの髪をなびかせながら教卓へと歩いていった。僕は興味半分に、その子が名前を書くところを覗きに行った。

『ナタリー』

しっかりとした字体だった。当時、クラスで一、二を争うほど字の下手くそだった僕にとって、どうして外人の女の子が自分よりも日本語を上手に書くのか、まったく理解できなかった。

「おまえ、何でガイジンのくせして日本人より字がうまいんだよ」

 僕はそのとき、差別だとか、そういう類の言葉は何一つ知らなかった。思ったことをそのまま口走っていた。僕の、『ガイジンのくせに』という言葉を聞いたとき、その女の子は一瞬泣き出しそうな顔をした。けれど、グッと唇をかみ締めて、自分の席に戻っていってしまった。

 僕は何だか腹が立って、思わずその子の後姿に「バーカ」と叫んでいた。本当に何てことをしたのだろう。明らかにそのときの僕は最低な野郎だった。

 僕は窓際のメダカの水槽のところに行った。僕は生き物係だったから、毎朝学校に来たらメダカに餌をやらなければならなかった。餌が入ってくると同時に、メダカは我先にと餌をつつきにやってきた。僕はそれを眺めるのがたまらなく好きだった。水槽の中の藻が揺れている。光を浴びて、踊っているように見えた。

 水槽のガラスに映って、ブロンドのあの女の子の姿が目に入った。教室の、一番後ろの一番隅っこの席で、うつむいて座っていた。

 そのとき、僕は何だか、先生に怒られたときのような後味の悪い感覚に襲われた。ぼーっとして、メダカの水槽の藻が揺れるのを眺めていた。ポンプからはたくさんの泡がぼこぼこ吹き出していて、ところどころメダカの姿をかき消してはいたけれど、あのブロンドの髪の女の子が映るのだけは消してくれなかった。



* * *



「砂肝追加で」

 僕はそこまで話すと、大好物の砂肝をまた注文した。

「で?」

 伊野くんは牛スジを噛み締めながら、僕の話の続きを請求した。

「そのブロンドの子に恋してたってわけですか?」

 モリーも面白がって詰め寄ってきた。生ビールの香りがぷんぷんしていて、酔いもほどよく回っているような様子だった。いつにも増して上機嫌な感じだった。

「名前なんて言ったっけ、その子」

 伊野くんは手元にあったおしぼりをいじりながら問いかける。

「ナタリー」

「ナタリーかぁ…そんな名前の女優いたよな」

「さあ?」

 僕はよく分からず、肩をすくめてそう言った。

 砂肝が僕の目の前に置かれた。一口それをかじると、僕はまた話の続きを始めた。



** *



 その女の子…ナタリーは、二年生になったときに、どこかの街から転校してきた。初めは、ブロンドの長い髪と、きれいなブルーの瞳が珍しかったらしく、男の子も女の子も興味津々で話しかけていた。でも、それもほんの一週間ほどだった。子供は興味を引き付けられるのはものすごく早いけれど、飽きてしまうのも驚くほど早い。四月の終わりごろには、ナタリーは一人ぼっちだった。給食のときも誰とも口をきかない。帰り道も一人きり。それなのに、僕も含めてクラス全員、ナタリーのことなど目もくれなかった。こんな無責任な生徒を見て、担任の先生はどう感じていたのだろうか。

 ナタリーは日本語が未熟だった。ときおり、僕らの言うことが理解できないようなときもあった。そのせいで、どうしても僕らとナタリーの間には、見えない壁ができてしまっていた。

 教室に先生が入ってきた。

「みんな名前は書きましたか?」

 まだ若い女の先生だった。僕はひそかにその先生に憧れていた。僕には姉貴も妹もいなかったから、あんな姉貴がいたらいいなと思ったりしていた。

「先生早く席替えしてよ」

 クラス全員が先生をせかした。先生はいつもの大きな笑顔で、黒板に白のチョークで、クラスの席の一覧を描いた。そして、黄色いチョークを持つと、順番に番号をふり、生徒の名前を書き込んでいった。

 僕は、自分の『きょういち』という名前が書かれたのを見つけると、すぐに席の周りの奴の名前もチェックした。

 前の席は、当時仲良しだったヒロちゃんだった。後ろはおとなしい性格のヨウくん。通路を挟んで左隣は活発なエリコ。まぁまぁのメンバーだった。机をくっつけて座る、右隣の子の名前は書かれていなかった。でも、この調子なら嫌な奴とは隣にならないだろうと、僕はすぐに仲良しのヒロちゃんのところに駆けていった。

「前と後ろで一緒だな」

「うん。今の席すっげぇつまんなかったもん」

 僕は嬉しくてにこにこしていた。けれど、そのとき、ふと黒板を見ると、僕の『きょういち』の名前のすぐ右隣に、『ナタリー』という名前が書かれていた。

「げっ」

 思わず声が出てしまった。

「キョンちゃんあのガイジンの隣じゃん」

 ヒロちゃんが面白がって言ってきた。僕はあのナタリーが苦手だった。ろくに話したこともなかったし、どうもあのブロンドの髪には慣れそうもなかった。

「席を移動させてくださいね」

 先生が教室中に響き渡る声で言った。僕は、顔をしかめながらも、言われたとおりに席を移動した。ナタリーは、相変わらずうつむきながら、僕の隣の席に座った。少しだけ、甘いシャンプーの香りがした。色白の細い腕が、妙になまめかしく感じられた。

「じゃあ授業を始めましょう」

 先生は同じ調子で算数の教科書を開いた。僕もしぶしぶ算数の教科書を机に出した。まだ真新しい教科書。算数は嫌いではなかったけれど、ナタリーの隣で、居心地の悪さを感じていた。

「キョンちゃん元気ないね」

 通路を挟んで左隣のエリコが僕に話しかけてきた。

「早く席替えしてぇよ」

「今やったばっかりじゃん」

 エリコは笑いながら算数の教科書を開いた。僕はちらりと横目でナタリーの方を見た。ナタリーのブルーの瞳と目が合った。僕は思わず目をそらし、自分の短く刈った頭をかいた。ナタリーはまたもやうつむいて、算数の教科書の端っこをぎゅっと握っていた。

 席は窓の外がすぐに見える位置だったから、僕はずっと窓の外を眺めていた。入道雲がむっくりと頭を持ち上げていた。乾いた風が、汗ばんだ首筋を走っていった。その風が、僕の鼻のところに、ナタリーの髪の匂いを運んできた。甘い、フルーツのような香りだった。一瞬だけ、僕はその香りに酔いしれていた。



** *



 居酒屋の壁にかけてある古びた時計をみると、もう夜の10時前を指していた。僕ら三人は、明日が休みなのをいいことに、今日は朝まで飲もうと言っていた。だからまだのんびりと腰を落ち着けていた。

「よくあるパターンだよな」

 伊野が、酒の勢いでわずかに頬をほてらせながら言う。

「隣の席の女の子に惚れるってやつ」

「ああ、俺もあったなあ、そういうの。 結局いつの間にかどうでも良くなってたけど」

 モリーは焼き鳥を一口で串から引き抜いた。僕は一口、日本酒を飲んだ。ぽっぽっとした温かいものが、喉に流れ込み、身体はほかほかしてくる。

「伊野は飲みすぎだって」

 モリーが焼き鳥の串をくわえながら言った。

「こういうときのために、しっかり金を備蓄しといたんだよ」

 伊野くんはそう言うと、得意げな顔をして、ジョッキに入っていた残りのビールを一気に飲み干した。そして一息つくと、僕に言った。

「それにしても、おまえよく小学生の頃の話なんか詳しく覚えてるんだな」

「あれだけは妙にしっかり覚えてるんだ」

 僕は笑いながら答えた。そう、何故か、小学生のころの思い出を聞かれると、運動会や卒業式よりも先に、あのときのブロンドの少女のことが思い出される。あのことだけは、脳裏にいつまでもこびりついて離れなかったのだ。

「ナタリーって子、かわいかったのか?」

「はは、どうだろうね」

 僕は曖昧な返事で済ませた。実際、あの子の顔は、今でもくっきりと覚えている。目を閉じればすぐに思い出すことができる。ふわっと波打つブロンドの長い髪。ブルーのきれいな瞳。色白の肌に、薔薇色の頬。ちょうど、フランスから来た人形のような感じだった。学校によく着てくるワンピースが、余計に彼女を人形のように見せていた。こんなにはっきり覚えていたけれど、何故だか言い出す気にはなれなかった。

「続きはどうなんだよ?ナタリーって子に告白したのか?」

「まだそこまで行く段階じゃないよ」

「おまえにも段階ってものがあったのか」

 モリーは大笑いしながら言った。すっかり酔っ払っている。

 僕はあぐらをかいていた脚を組みなおすと、続きの話を待ちわびている二人に、また淡々と語って聞かせてやった。



* * *



 席替えをして、3日ほどたった日の授業後のことだった。僕はその日、朝から父さんと口げんかをしてきた。その理由というのは、まぁくだらないことだけれど…僕が学校に行きたくないと駄々をこねたことが原因だった。

 その日は僕の嫌いな水泳の授業がある日だった。僕は水泳で海パン姿になるのが嫌いだった。保育園に入る前、二の腕を怪我して、その傷を手術で縫った跡があった。その傷跡をみんなに見られたくなかったのだ。一年生のとき、水泳の授業が始まって、クラスの奴らはやたらと僕の二の腕を見たがった。毎回、それどうしたの、と聞かれる立場を考えてほしい。いつも同じ答えを同じように返し、中には嫌がるのを知っていて触りたがるような奴もいた。僕はそれ以来、人前で腕を出すことが億劫になっていた。二の腕といっても、ずっと腕の付け根に近いところだから、普通に半そでのシャツを着るぶんには問題がないけれど、海パン姿では傷跡は丸見えだ。だから水泳の授業を嫌がった。

 しかし、さすがに二年生にもなると、そういうことに手を出してくる奴はいなくなった。去年、僕が散々嫌がっていたのをみんな覚えていたのだろうか、水泳の授業は何事もなく終わった。

 けれど、授業が終わったあと、僕は家に帰りたくなかった。父さんと顔を合わせたくなかったのだ。素直に家に帰って、そして謝れば済む話だが、当時の僕はやたらと意地っ張りだった。こうなったらとことん遅く帰って、心配させてやろうと考えていた。

 みんながすっかりいなくなった教室で、僕はずっと一人、メダカの水槽を眺めていた。ポコポコと涼しげな音をたてるポンプをじっと見つめていると、ふと、あのブロンド髪のナタリーのことを思い出した。

 席替えで隣になってから、僕とナタリーは一度も口をきいていない。他の奴らもナタリーと口をきいてなどいないけれど、さすがに隣同士で口をきかないのはけっこう気まずいものがあった。幼心に、それだけは何となく心得ていた。

 また、先生に怒られたあとのような嫌な感じがした。僕はその嫌な感じを振り払おうと、わざと勢いよくランドセルを肩に担いで、走って教室を飛び出した。

 校庭に出て、僕はウサギ小屋の方へ駆け出した。僕は小さいころから生き物が好きだった。メダカも大好きだし、ウサギも大好きだった。よく、家からニンジンやキャベツの切れ端をこっそり持ち出しては、ウサギに食べさせてやっていたものだ。

 ウサギ小屋のフェンスのところへ行くと、僕は一気に身体が固くなった。向こうの植え込みの陰から、ブロンドの髪がなびくのが見えた。

 僕の足音に気付いたのか、そのブロンドの髪は、すっと植え込みから姿を現した。

「ナタリー」

 思わずつぶやいてしまった。ナタリーは、決まりの悪そうな顔をして、地面に置いてあった赤いランドセルを手に取ると、いそいそと帰ろうとした。どうしてか、僕はそこで叫んでしまった。

「待って」

 言ってから、僕は自分がよく分からなくなっていた。そして少しだけ後悔した。どうしてわざわざ帰ろうとする奴を引き止めるのだろう。しかも相手は自分の苦手な奴だ。

 ナタリーは不意を突かれたような顔で、こっちをじっと見つめた。きれいなブルーの瞳が、僕の黒い瞳とカチリと合った。僕は必死に言葉を探した。

「何でまだ帰らないの?」

 たどたどしい口調だった。これがおそらく、ナタリーとの初めての会話だった。

「いえが、いやだ、から」

 片言の日本語で、ナタリーはつぶやいた。

「僕も帰りたくないんだ」

「あなた、も?」

「うん」

 ナタリーは、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。ざぁっと風が吹き寄せて、ウサギ小屋の上に枝を広げているクスノキの葉っぱを、ざわざわと激しく揺さぶった。それと同時に、ナタリーの髪の匂いも、僕の鼻をかすかにくすぐった。あのときかいだのと同じ、フルーツのような優しい甘い香り。

「あなた、わたし、を、きらい」

 ナタリーは、ゆっくりと言った。片言の言葉の中に、何か熱いものを込めて。

 僕は、頭を鈍器で殴られたような衝撃にかられた。僕が今まで彼女に対してとっていた行動の一つ一つ…目をそらしたり、『ガイジン』扱いしたり…。すべてが彼女を傷つけていたと、今更になって気付いたのだ。僕は思わずナタリーの手を握っていた。

「ごめん」

 それだけ言うと、僕は深く頭を下げた。ナタリーは無言でじっとしていた。僕は静かに顔を上げた。そして、じっと、さっきナタリーが僕を見つめたように、ブルーの瞳を見つめた。

 ブルーの瞳は、初め、戸惑いの色を見せていた。しかし、しばらくすると、その色は消えていた。ナタリーの色白の頬は、いつの間にか薔薇色に染まっていた。

 僕はそのとき、初めてナタリーの笑顔を見た。

 それはとても穏やかで、僕の目にはまるで天使のように映った。



* * *



「ロマンスだね」

 モリーが嬉しそうにつぶやいた。伊野くんも心なしか頬を赤らめている。酒が入っているせいだろうか。

「キョンちゃんってなかなか大胆だったんだね」

「いや…大胆というか何というか」

 僕は返答に困った。しかし、あの行動は、本当に衝動的にとったものだったのだ。

「手まで握っちゃうなんてさ、…やるじゃん」

 イケメンの伊野くんは、今まで僕のことを奥手すぎる奴だと言いまくっていたが、このときばかりは尊敬ともいえる眼差しを僕に注いでくれていた。

「もう一本追加しちゃおう」

 モリーは興奮して、調理場に向かって叫んだ。調理場から威勢の良い声が飛んだ。伊野くんはトイレにと立ち上がった。僕も一緒についていった。

 トイレに入ると、居酒屋の騒ぎ声が、どこか遠くの世界のことのように思えた。伊野くんは僕に言った。

「そのナタリーって子、今も会ってるのか?」

「会ってないよ」

「国に帰ったとか?」

「さぁ」

「何だよ、それ」

「モリーのところに戻ってから、またゆっくり話してやるよ」

 トイレの電灯の端っこで、光を求めて、小さな虫がパチパチと音をたてていた。しばらくの沈黙の間、僕はその音だけをじっと聞いていた。



* * *



 僕とナタリーは、その日を境にだんだんと話をするようになった。日本語が未熟なナタリーのために、僕はわざとゆっくりと話をしてやっていた。さすがに若いうちっていうのは覚えが早いらしく、一週間もすると、ナタリーは僕と同じように日本語を流暢に話せるようになっていた。今まで人と話さなかったから、その分話すことにも慣れていなかったのだろう。

「ナタリーってハーフなの?」

「パパは日本人で、ママはアメリカの人なの」

「コクサイケッコンってやつ?」

「コク…?」

「えーと…コクサイケッコンっていうのは…」

 こうして彼女と話していると、自分が日本語について知らない部分が多いことに気付かされるから不思議だった。結局、『コクサイケッコン』の意味は教えてあげられないままだったけれど、ナタリーはただ笑っていてくれた。思わず僕も笑顔を見せてしまった。ナタリーは、知れば知るほど、不思議で、でも素敵な子だった。

 給食の時間、ナタリーは味噌汁を見つめたまま固まっていた。

「味噌汁嫌いなの?」

「うん」

 ナタリーは日本食にもあまり慣れないようだった。ひどいときには、給食はご飯しか食べられるものがないときもあった。

「おいしいよ」

「ほんとう?」

 僕の言葉に、意を決したようにナタリーは味噌汁のお椀を口に運んだ。静かに汁をすすると、こっちを見てにこりとした。

「おいしい」

「でしょ?」

 僕まで嬉しくなった。どうしてか分からないけれど、ナタリーの笑顔で、僕も嬉しくなった。相変わらずそのあとも、好き嫌いの激しい子だったけれど、僕が「おいしいよ」と言う度に、少しずつ食べられなかったものも食べられるようになった。ナタリーは魚も嫌いだったし、きのこ類、海草類となるとまったくお手上げだった。それでも、僕は何度も彼女に言った。「おいしいよ」と。彼女は食べることができると、必ず嬉しそうな笑顔をした。そして僕もその度につられて笑っていた。

 僕とナタリーが次第に打ち解けていっていることが、クラスの奴らにも伝わったらしい。ある日、僕が学校に着くと、校門のところで男子数人が僕を取り囲んだ。

「キョンちゃん、よくあんなのと話ができるな」

「あのガイジン、ちゃんと日本語できるの?」

「くねくねした髪しちゃってさ、気持ち悪いじゃん。やめた方がいいよ」

 僕は、思わずそのうちの一人を殴っていた。生まれて初めて人を殴った。握った拳がじーんと痛んだ。そのあとはどうしたのか、よく覚えていない。ただがむしゃらに叫びながら、その男子数人に怪我を負わせたことは事実だった。

 放課後、僕は職員室の担任の机のところにたたずんでいた。

「恭一くん、どうしてあんなことをしたの?」

 何も言わなかった。ナタリーを馬鹿にしたから、なんて、どうしてか言い出せなかった。口をへの字に曲げて、黙りこくっている僕を見て、先生は深くため息をついた。そして、ふいに言った。

「恭一くんて、最近ナタリーちゃんと仲がいいみたいね」

 僕はナタリーの名前を聞いて、思わず顔を上げた。

「ナタリーちゃん最近、学校が楽しそうだもの。きっと恭一くんのおかげね」

 先生は嬉しそうに笑いながら、僕の頭を撫でた。それから、今日はもう帰っていいよと言ってくれた。これからは人を傷つけないように、とも言った。僕は無言でうなずいて、職員室をあとにした。

 ランドセルを取りに教室へ入ると、誰もいない教室の隅っこで、ナタリーがうずくまっていた。窓ガラスが夕日の赤に染まってきらきら光っていた。

「何やってるの?」

 僕は教室の入り口のところから声をかけた。ナタリーは僕に気付くと、勢いよく立ち上がった。

「おこられたの?」

「ううん」

僕は首を横に降る。

「そう」

 ナタリーはほっとしたような顔をして、メダカの水槽の方へ歩いていった。僕も水槽を隣で覗き込んだ。

「キョンちゃんは、メダカのせわがじょうずだね」

 ゆらゆら揺れる水槽の中の藻を見ながら、ナタリーは僕に言った。

「わたしも、おさかなをかってたんだよ」

「魚?どんなの?」

「あかくて、しっぽがひらひらしてるの」

「金魚じゃない?」

「きんぎょ? きんぎょっていうの?」

「たぶん」

 ナタリーはしばらく『きんぎょ』という言葉を何度もつぶやいた。

「きんぎょ、ころしたの」

「殺したって?」

 僕は思わず眉をしかめた。ナタリーみたいないい子が、金魚を殺したりするなんて、想像もつかなかった。

「おみずをそうじしようとしたら、あなにながれていっちゃった」

「穴って、排水溝のこと?」

「はいすいこう?」

 ナタリーはまた、『はいすいこう』という言葉をつぶやいた。こうして言葉の数を増やしていっているのだろうか。

「あなにはいって、もどってこれなくなったの」

 悲しそうにそう言ってから、ナタリーは僕の目を見た。ブルーのきれいな瞳が、まるで宝石のように見えた。

 ナタリーは、少しの間唇をグッと閉じると、床に目を落として言った。

「どうしてたたいたの?」

「叩いた?」

「おとこのこたち」

 あぁ、そうか。ナタリーは、僕があいつらを殴った理由を聞きたいのか。そんな理由、たった一つしかないに決まっている。僕は、先生には言わなかった理由を、ナタリーには素直に言った。

「ナタリーをバカにしたから」

「わたしをばかにしたから?」

「自分の友達をバカにされたら、誰だって怒るでしょ」

 僕はそれだけ言うと、自分の席の上に置いてあったランドセルを背負い、走って教室を飛び出した。あんなことを本人に言ったことが、何故だかすごく恥ずかしく感じられたのだ。

 息を切らしながら校門を出ると、後ろから、誰かが走ってくる音が聞こえた。振り向くと、ナタリーが必死に僕を追いかけているところだった。僕は立ち止まった。

「おまえの家、こっちじゃないじゃん」

 僕がぶっきらぼうにそう言うと、ナタリーは目を大きく見開いて僕を凝視した。僕は、そのとき、胸の中の何かが、カタリと動いたような気がした。

「キョンちゃんといっしょにかえる」

 ナタリーはそう言うと、僕の手を握って歩き出した。いきなりのことで、ドキッとしたが、振りほどく気にはなれなかった。黙ってナタリーと手をつないで歩いた。

 太陽が沈みかかって、茜色の空が、藍色に染まろうとしていた。僕とナタリーは、大きな川の上にかかっている鉄橋を歩いていた。鉄橋に行儀よく並んでいる電灯が、黄色い光を、灰色のコンクリートの上にぽとぽとと落としていた。

「おまえの家と逆だよ。早く帰らないと母さんが怒るよ」

「うん」

 ナタリーはうなずくと、僕の手を握ったまま立ち止まった。

「キョンちゃん」

 彼女の柔らかいブロンドの髪が、鉄橋を渡る風になびいた。フルーツのような甘い香りが鼻をくすぐる。色白の肌が、電灯の黄色い光に、かすかにぼやけて見えた。

 また、ひんやりとした風が通り抜けた。

 ナタリーは、握っていた手を離すと、そっと、僕の頬にキスをした。

「ばいばい」

 彼女はそう言うと、振り向きもせずに、自分の家の方角へと走っていった。僕は呆然として、鉄橋の上に立っていた。夜と夕暮れの隙間に、ナタリーが消えていったあとも、僕はずっとナタリーの走っていった方を見つめていた。



* * *



「おまえのファーストキスは小学二年生だったのか!」

 モリーが顔を真っ赤にして叫んだ。居酒屋にいたおじさんたちが、あまりの声の大きさに、驚いてこっちを振り向いた。

「声がでかいって!」

 伊野くんがささやいた。モリーはしまったというような顔をして、その場におとなしく座った。僕は伊野くんの注文した枝豆をつまんだ。

「キスっていってもほっぺただよ」

「どっちのほっぺただ?」

「右だったかな」

 モリーは僕の右頬をじっと見た。

「ははーん。跡が残ってるぞ」

「バカ」

 僕は笑いながら、また伊野くんの枝豆を口に放り込んだ。

「付き合ったの?そのナタリーって子と」

「いや」

 僕はそれだけ言うと、ほどよく温まっている日本酒を、くっと喉に流し込んだ。



* * *



 それから間もなくして、ナタリーは急に学校から姿を消した。みんな、死んだんじゃないかとか、登校拒否だとか、ろくでもない噂ばかり流していた。僕は、からっぽのナタリーの机を横目で見ながら、仲良しのヒロちゃんと昨日のアニメの話に花を咲かせていた。

 表面ではいつも通りふるまっていた。けれど、心のどこか奥底で、いつもナタリーの名前を呼んでいた。

 ある日。給食を食べ終わって、掃除が始まるころ、僕はいつの間にやら教室を逃げ出し、学校の外を走っていた。行き先は一つしかなかった。

 少し前に、ナタリーが描いてくれた彼女の家までの地図を握っていた。クリーニング屋の角を曲がったあとの、二つめの信号を越えたところにあるアパートらしい。きれいにガーデニングの施された庭、あくびをしている野良猫の横をすり抜け、小さなクリーニング屋の前を通って、信号を二つ横切った。

 確かにあった。少し古びた木造のアパート。僕は、ナタリーに言われたとおり、アパートの二階に駆け上がると、地図の隅っこに書いてある『203』の数字を探した。

 薄暗い廊下のコンクリートの床は妙に冷ややかで、背筋を、ぞっとするようなものが走った感覚に襲われた。このまま帰ってしまおうかと思った。けれど、どうしてもナタリーを見つけなければならないという使命感が強かった。『203』の数字が書かれているドアの前に立つと、僕はインターホンを押した。ポーンと、よく通る音が響いた。ドアの向こうで、がさごそと何かが動く音がする。ドアが静かにカチャリと開いた。

 古びたドアの隙間から、青いきれいな瞳が覗いて見えた。

「キョンちゃん」

 ナタリーは驚いてそれきり何も言おうとしなかった。

「何で学校来ないの?」

 僕は、汗まみれの顔でナタリーに聞いた。ナタリーは、ドアから少しだけ顔を覗かせただけで、それ以上外に出てこようとしない。僕は不思議に思って、無理やりドアを引っ張った。ナタリーは小さな声をあげて、ドアの外に転がり出た。

 僕は一瞬、息ができなかった。ナタリーの腕も、足も、引っかき傷が無数にあった。

「どうしたの、それ」

「ころんだの」

 ナタリーは、涙声で言った。僕は、床にひざまずいてうつむいているナタリーの肩をつかみ、強引に僕の方を向かせた。

「誰にやられたの?」

「ちがうよ」

 首を横に振り、ナタリーはひたすら、ちがう、ちがうと言い続けていた。僕はいてもたってもいられなくなり、彼女の手を強く握ると、裸足のままの彼女をアパートの外に連れ出した。

 じわじわと照りつける太陽に、アスファルトは熱くなっていた。それでもおかまいなしに、僕はナタリーの手を引っ張った。ナタリーは、僕の後ろですすり泣きしながら、それでも抵抗せずに黙ってついてきていた。

 信号を二つ通り越し、クリーニング屋の前に来て、僕はようやくナタリーが裸足でいることに気付いた。僕は自分の靴をナタリーに履かせた。ナタリーは初め遠慮したが、僕が無理やり履かせた。そして、自分が裸足になると、また、ナタリーを連れて歩き出した。

 学校に戻ろうなどという気持ちはなかった。僕は学校とは逆方向に向かった。

「キョンちゃん」

 ナタリーが、固く結んでいた唇を開いた。

「どこにいくの?」

 僕は無言のまま、彼女の手を引いていた。暑さに手が汗ばんできたが、そんなことはどうでもよかった。とにかく今はナタリーを離してはいけない気がしていた。

 住宅街の、少し入り組んだ路地に入っていった。蝉の鳴き声は勢いを増し、木々のこんもりとした緑のトンネルに覆われて、青い空も、ふわふわの入道雲も見えなくなった。木漏れ日が少しコンクリートの上に光を届けてくれるだけで、あとはすべて薄暗く染まっていた。

 木々の隙間から、少しずつ古い木造の建物が見えてきた。僕とナタリーは、木と木の間に身体を滑り込ませながら、その建物へと向かった。

 目の前に大きな寺が現れた。

「なに?」

 ナタリーは目を丸くして尋ねた。

「お寺」

「おてら?」

 どうやら寺を初めて見るらしい。屋根の裏の複雑な木の組み合わせや、狛犬や石灯籠の刻みを眺めながら、ナタリーはあちこちを歩き回っていた。

 僕は、ナタリーが一通り気のすんだのを確認すると、ナタリーを寺の裏へ案内した。そこには、黒々とした太い幹と根を突き出した、巨大な神木があった。僕はその木の根元へ座り、彼女にも座るようにと言った。

 しばらく沈黙が流れた。僕は何から切り出せばいいのかわからなかった。ただ、がむしゃらに彼女をここまで引っ張ってきたのだ。

 僕はこっそり、ナタリーの手足の傷を見た。ひどくかきむしったような跡だった。この前まで、こんなひどい傷はあっただろうか。

 聞きたいことは山ほどあるのに、どうしてか聞いてはいけないような気がしていた。ナタリーは、黙って座って、頭上の葉っぱのざわめくのをただ見上げている。

「キョンちゃん」

 先に口を割ったのはナタリーの方だった。

「わたし、もう、キョンちゃんにあえなくなっちゃうよ」

 それだけ言うと、ナタリーは声をあげて泣き出した。泣き声でなく、叫び声のようなものだった。僕は生まれて初めて、こんな泣き声を聞いた。胸の奥がグッと痛くなった。白い手のひらで顔を覆い隠し、彼女は泣いた。涙が手から零れ落ちて、座っていた木の根元にぽとりと落ち、真っ黒なしみを作った。

「何で?」

 思ったよりも冷静な自分に、僕は驚いた。彼女はこんなにも悲しんでいるのに、苦しんでいるのに、僕は冷静だった。

「いえが、とおくになるの」

「引っ越すってこと?」

「ひっこすの」

「転校するってこと?」

「てんこう?」

「学校を変えるってこと?」

「がっこうがかわるの」

 叫び声のような泣き声は、すすり泣きに変わった。僕は、今聞いたことを、何とかして心の中から抹消しようとしたが、だめだった。確かに今聞いたことは事実なのだ。

「行かないで」

 僕はつぶやいた。そしてもう一度大きな声で言った。

「行っちゃいやだ」

 ナタリーは、涙でびしょぬれの顔を上げてこっちを見た。

「いかなきゃいけないの」

「いやだ」

「ママとね、ママと…」

 そのとき、僕は、ずっと前にナタリーが言ったことを思い出した。

――わたしのパパは日本人で、ママはアメリカの人なの。

 まさか、アメリカへ行くのだろうか。

「アメリカに行くの?」

 ナタリーは首を振って、わからないというふうに示した。おそらく行き先すらも曖昧なままなのだろう。それでは彼女はどこへ行ってしまうのだろう。

 僕らの会話はそこで途切れた。蝉しぐれと、ナタリーのすすり泣く声だけが、耳にまとわりついて離れなかった。一瞬だけ風が強く吹き寄せて、葉っぱが、膝の上に落としていた木漏れ日をはらはらと揺らした。


 それから二日ほどしたある日、学校へ行くと、先生から、ナタリーが転校していったことを聞かされた。夏休みを目前にした日のことだった。

 ナタリーがいなくなった教室は、何も違和感なくすべてが流れた。おそらく、違和感を覚えていたのは僕だけで、他の奴らは何も感じていないようだった。名前すら出ることがなかったし、ナタリーの転校先の家を聞こうという奴なんて、まずいるはずもなかった。僕はそれまで通り過ごした。毎朝走って登校し、隣の席の奴らとは大騒ぎをし、たまには先生に叱られ、授業を受け、給食の時間を楽しみにして、そして…。とにかくそれまで通りだった。ただし、ブロンドの長い髪の少女がいないことを除いて。

 僕とナタリーの思い出は、わずか一月にも満たないの長さだった。けれど、今までのどんな一ヶ月間よりも、忘れることのできない日々だった。



* * *


 

 居酒屋の時計は十二時を回った。僕はグッと背伸びをした。

「なんか辛気臭くなっちゃったね」

 笑ってそう言うと、モリーはいつの間にか涙をぼろぼろ流していた。泣き上戸なのか、僕の思い出話に泣いているのかは不明だった。伊野くんは、僕がつまんだせいで残り少なくなった枝豆を食べながら言った。

「ナタリーって子、今どうしてるんだろうな」

「さあ」

「おまえ何も知らないのか?」

 僕は黙ってうなずき、小さくつぶやいた。

「幸せでいてくれるといいな」


 僕は携帯電話をポケットから取り出すと、ストラップの代わりに一つだけついているミサンガを眺めた。

 赤と、青と、白と、緑のカラフルなミサンガ。少し色褪せていた。



* * *



 ナタリーが転校したのを知らされた日、僕が家に帰ってポストを除くと、茶色の封筒が僕宛に入れられていた。ナタリーの字で、『キョンちゃんへ』と書かれていた。

 そこに入れられていたのが、このミサンガだった。

 僕は、そのミサンガを見つめると、自分が泣いていることに気付いた。音もたてず、涙だけが頬を伝わって、地面にぽたぽた落ちるのが分かった。

 封筒には、小さなメモ用紙も入っていた。ナタリーの字で、何か綴られていた。


キョンちゃんが なかよくして くれて とても うれしかったです。

わたしわ とおい ところへ いく ので あえないと おもいます。

キョンちゃんが だいすきです。

ずっと わすれ ない とおもいます。

わたしのこと わすれないでください。

ありがとう。

ナタリー


 慣れない日本語。ナタリーはそれでも、僕に日本語の手紙を残してくれた。僕は、その封筒とミサンガ、手紙を抱きしめて、その場にうずくまった。それから、わんわん泣いた。こんなふうに泣いたのは初めてだった気がする。手紙にも、ミサンガにも、封筒にも、僕の涙が滴り落ちた。どん底に突き落とされた気分だった。

 あの席替えの日、『ガイジン』と心ない言葉をかけたこと。口を聞いてやらなかったこと。給食のときのこと。『コクサイケッコン』の意味を教えてやれなかったこと。男の子数人に殴りかかったこと。鉄橋の上でのこと。お寺の木の下でのこと…。

 どうしてもっと、という言葉が、後から後から沸いて出た。

 そのとき、僕は、自分がガキであることを死ぬほど後悔した。どうして小学生なんだろう。どうして、もっと大人のような振る舞いができなかったのだろう。どうして自分の感情に突っ走ることしかできないのだろう。もしも、僕が大人だったら、ナタリーを連れて、どこか静かなきれいな、安全な所へ行けるのに。そうすれば、ナタリーは傷つくこともなかっただろうし、もっとあのかわいらしい笑顔を僕に見せてくれたのかもしれなかった。

 大人にならなきゃ、と、何度も思った。大人になって、ナタリーを探さなきゃ、と。


 僕はそのミサンガを、今までずっと大切にしていた。ミサンガが切れる頃には、自分の願いが叶うという話があるけれど、きっと僕のミサンガは一生切れることはないと思う。切れるとしたら、ナタリーをまたこの目で見ることができたときだろう。

 果たして、僕はナタリーをまたこの目で見ることができるだろうか。世界の広さを知った今では、きっとナタリーを探すことは無理なのかもしれないと感じる。それでも、僕は時折、昔の小学校へ足を運びたいと思うときがある。あの校門の前で、彼女が笑って待っているような、そんな気がしてしまうから。



* * *



幼い頃の思い出と言えば、大抵は『初恋』というものにたどり着く。僕と僕の友達の間だけでのことかもしれないけれど、僕らはいつも集まれば『初恋』の話で盛り上がっていた。そして、今日も僕らは初恋の話をした。今まで誰にも言わなかった僕の初恋は、僕にまた、初恋の子の優しい笑顔を思い出させた。少しだけ、心の隅っこがチクチクした。

 居酒屋のほんのりとオレンジ色に染まった空気が優しかった。


 思い出を語れと言われたら、僕の思い出はナタリーなしでは語りきれない。あの短いわずかな時間の中に込められた、ブロンドの髪と、青い目の彼女との思い出なしでは。


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― 新着の感想 ―
[一言] いい話です。毎回のことですが、どの話も読み終わるころには涙がでてきます。
[一言] 地球の星と申します。 読み始めてすぐに物語の世界に引き込まれていきました。 決め細かいまわりの情景の描写や、子供故の心の未熟さ、そしてストーリーのせつなさなど、見所満載でした。 評価は満点で…
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