逃げた先で
息が、続かなかった。
喉が焼ける。肺が痛い。足は震えているのに、それでも止まることができなかった。
走って、走って——
ようやく、サクは足を止めた。
「……っ、はぁ……っ」
その場に崩れるように膝をつく。
言葉にならない呼吸が漏れる。
隣でチヨも同じようにしゃがみ込み、肩で息をしていた。
すぐには、何も言えない。
ただ、呼吸の音だけがそこにあった。
少しして——
風の音が戻ってくる。
葉が揺れる音。遠くの虫の声。
あの喧騒が、嘘のように消えていた。
静かだった。
その静けさが、逆に現実を突きつけてくる。
サクは顔を上げる。
森の奥。
人の気配はない。
そして、その中に——
半分崩れた小屋があった。
壁は割れ、屋根は抜け、扉は斜めに外れかけている。
風が吹くたび、軋んだ音が小さく鳴った。
「……ここ」
チヨが、息を整えながら呟く。
「……ここなら、大丈夫かな」
サクは一度、周囲を見渡した。
追ってくる気配はない。
音もない。
「……多分」
短く答える。
二人は小屋の中へ入った。
中は暗く、冷えていた。
倒れた椅子。割れた器。床に散らばる欠片。
誰かが暮らしていた跡だけが、そこに残っている。
もう、誰もいない場所。
サクは入口の方を見る。
誰も来ない。
それを確かめるように、何度も視線を向けた。
それから、ゆっくりと腰を下ろす。
チヨも少し離れた場所に座った。
沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。
でも、今までとは違う。
疲れと、現実の重さが、そこにあった。
何も言えない。
何を言えばいいのかも、分からない。
風が吹く。
壊れた壁の隙間から、冷たい空気が流れ込んできた。
その時、チヨの肩が小さく揺れた。
サクは一瞬だけ迷う。
それから、何も言わずに上着を脱いだ。
チヨの方へ、差し出す。
「……これ」
短く言う。
チヨは少し驚いたように目を見開いた。
それから、少しだけ戸惑って、
「……いいの?」
「……うん」
チヨはゆっくりとそれを受け取る。
「……ありがと」
小さな声だった。
サクは頷くだけで、何も言わない。
また、静かになる。
風の音と、遠くの虫の声。
それだけが、二人の間を埋めていた。
「……みんな、大丈夫かな」
チヨが、ぽつりと呟く。
サクの動きが止まる。
その言葉に、すぐには答えられなかった。
頭に浮かぶのは、さっきの光景ばかりで。
無事な姿なんて、想像できなかった。
「……分からない」
それだけを、絞り出す。
チヨは何も言わない。
ただ、少しだけ目を伏せた。
沈黙が、また落ちる。
重くなりすぎないように、風がその隙間を通り抜けていく。
しばらくして——
チヨが、少しだけサクの方へ寄った。
意識して、というよりは、自然に。
距離が、少し縮まる。
サクは一瞬だけ戸惑う。
けれど、何も言わなかった。
そのままにする。
「……サクは」
チヨが、ぽつりと声を落とす。
「……怖くないの?」
サクは、少しだけ考えた。
そして、正直に答える。
「……怖いよ」
それは、嘘じゃなかった。
怖い。
全部が。
でも——
「……でも」
言葉が止まる。
続きは、うまく出てこなかった。
ただ、胸の奥にある何かだけが残る。
チヨはそれ以上聞かなかった。
同じ感情を、持っていると分かったからだ。
怖い。
それでも、ここにいる。
一緒にいる。
それだけが、今の全部だった。
チヨの体が、ゆっくりと傾く。
そのまま、サクの肩に触れた。
サクの身体が一瞬だけ固まる。
心臓が、大きく鳴る。
けれど、動かなかった。
そのままにする。
チヨは目を閉じている。
小さな寝息が、かすかに聞こえた。
サクは視線を落とす。
すぐそばにあるその存在を、確かめるように。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
外では、風が吹いている。
何も終わっていない。
何も分からないまま。
それでも——
サクは目を閉じた。
この手だけは、もう離せないと思った。




