崩れた日常
家に帰ると、いつもと少しだけ違う空気があった。
扉を開けた瞬間に分かる。
静かすぎる。
「……ただいま」
声を出すと、奥から母さんが出てきた。
「おかえり」
いつもと同じ言葉。
でも、その表情は――少し硬かった。
「サク」
名前を呼ばれる。
その響きに、わずかに重みがあった。
「最近、山の奥まで行ってるの?」
「……まぁ、ちょっと」
曖昧に返す。
目を逸らしたのは、自分でも分かった。
母さんは、少しだけ間を置いてから言った。
「……鬼と、会ってるの?」
心臓が、一瞬止まった気がした。
「……っ」
言葉が出ない。
なんで、知ってる。
頭の中が一瞬で真っ白になる。
「村の人が見たって言ってたの。川のあたりで、人影と……角のある子を」
昨日の“気配”が、繋がる。
見られていた。
「……サク」
母さんの声は、怒っているわけじゃなかった。
ただ――心配している声だった。
「もう、行っちゃダメ」
「……」
何も言えない。
でも、納得もできない。
「どうして……」
絞り出すように聞く。
母さんは、ゆっくりと息を吐いた。
「昔ね、人間と鬼は争ってたの」
静かに、語り始める。
「長い間ずっと。お互いに傷つけ合って、たくさんの人が死んだ」
淡々とした声。
でも、その奥には重さがあった。
「だから、もうこれ以上死者を増やさないようにって……協定を結んだの。お互いに関わらないようにするって」
初めて聞く話だった。
「でもね」
少しだけ、声が揺れる。
「みんながみんな、忘れられたわけじゃないの」
視線が、少し遠くを見る。
「人間にもいる。鬼にもいる。……大切な人を失って、恨みを持ったままの人たちが」
胸の奥が、じわりと重くなる。
「もし、そういう人に見つかったら……何が起こるか分からない」
母さんは、まっすぐに僕を見る。
「だからダメなの。サクを危ない目に合わせたくないの」
「……」
言い分は、分かる。
ちゃんと、分かる。
でも――
頭に浮かぶのは、チヨの顔だった。
笑ってる顔。
少し眠そうな顔。
袖を引く仕草。
(……でも)
それでも。
会いたい、と思ってしまう。
「……分かった」
小さく、そう答えた。
それ以上は、何も言えなかった。
その夜。
布団に入っても、眠れなかった。
母さんの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
でも、それ以上に。
チヨのことばかり考えていた。
(……会いに行くな、って言われても)
目を閉じる。
浮かぶのは、あの場所。
あの時間。
(……やっぱり)
答えは、決まっていた。
その時だった。
――カン、カン、カンッ!!
夜の静けさを切り裂くように、鋭い音が鳴り響いた。
思わず体を起こす。
「……半鐘?」
聞き慣れないほどの速さで打ち鳴らされている。
ただ事じゃない。
外が騒がしい。
人の声。足音。
「サク、外に出るな!」
父さんの声が飛ぶ。
でも、じっとしていられなかった。
扉を開ける。
夜の空気が、一気に流れ込む。
村のあちこちで灯りが揺れている。
「来たぞ!!」
誰かの叫び声。
「鬼だ!!」
その言葉に、心臓が跳ねる。
でも――違和感があった。
次の瞬間。
影が、屋根の上を駆けた。
速い。
人間じゃない動き。
そして――見えた。
角。
だが、その目は。
チヨとは、まるで違った。
濁っていた。
獣のような、殺気。
「奪え!!」
怒号が響く。
次の瞬間、何かが弾ける音。
悲鳴。
火の手が上がる。
「っ……!」
足がすくむ。
目の前で、人が倒れる。
血が、地面に広がる。
さっきまであったはずの“日常”が、音を立てて崩れていく。
家が壊される。
物が散らばる。
叫び声が止まらない。
鬼――いや、違う。
あれは。
(……同じじゃない)
チヨとは、違う。
分かる。
でも、周りはそんなこと関係ない。
ただ“鬼”として、恐れている。
混乱の中で、何人も倒れていく。
助けを求める声が、あちこちから上がる。
それでも――
何もできなかった。
ただ、立ち尽くすことしか。
やがて、嵐のような時間が過ぎる。
静けさが、戻る。
でもそれは――
今までのものとは、まるで違った。
焼けた匂い。
崩れた家。
動かない人たち。
村は――変わってしまっていた。
さっきまでの世界は、もうどこにもなかった。




