第1話:白い「フウ」
小樽の冬は、容赦なく私の体温と気力を奪っていく。
転校してひと月。新しい制服の上から厚手のコートを羽織り、マフラーで顔の半分を覆い隠していても、海から吹き付ける風は鋭い刃物のように頬を刺した。
坂の多いこの街での通学は、それだけでちょっとした登山のようだ。雪に不慣れな私は、足元を滑らせないよう俯きがちに歩く癖がすっかりついてしまっていた。
地元の高校での生活は、決して「いじめ」と呼べるような陰惨なものではなかった。ただ、そこには目に見えない、しかし決して乗り越えられない分厚いガラスの壁があった。
「東京から来たんだって? すごいね」
「この辺、遊ぶところ全然なくてつまらないでしょ」
クラスメイトたちは、雪国特有の穏やかさで私に話しかけてくれた。けれど、すでに出来上がっている強固なグループの輪の中に、ひょっこり現れた「親の離婚でやってきた、少し影のある都会の転校生」が入る隙間などない。昼休みは図書室に逃げ込み、放課後は誰とも視線を合わせないようにして、足早に校門を出る。それが私の新しい日常になっていた。
帰り道、運河沿いを歩くのが唯一の慰めだった。
夕暮れ時になると、石造りの古い倉庫群を照らすように、等間隔に並んだガス灯にぽつりぽつりとオレンジ色の火が灯り始める。雪化粧をした遊歩道と、黒々と淀んだ運河の水面が、淡い光を受けてノスタルジックな影絵を作り出していた。
観光客たちが楽しそうにカメラを構える中、私は一人、鉛色の空から落ちてくる粉雪を見上げていた。綺麗だとは思う。けれど、この美しい景色の中に私の居場所はない。まるで、精巧に作られたスノードームの外側から、冷たいガラス越しに世界を眺めているような気分だった。
「ただいま戻りました」
母の実家である洋食屋の裏口から入り、小さく声をかける。厨房からは、ハンバーグを焼く香ばしい匂いと、フライパンがたてる小気味良い音が響いていた。
「おかえりなさい、真白ちゃん。今日は寒かっただろう」
仕込みの手を止めることなく、義理の祖父が柔和な声で応じる。
「はい。……お母さんは?」
「早苗さんなら、買い出しに行っているよ。もう少しで戻るはずだ」
「そうですか」
短い会話の後、すぐに沈黙が落ちる。祖父の丁寧すぎる言葉遣いが、私をいつまでも「お客さん」のままでいさせる。私は逃げるように二階の自室へと駆け上がった。
あてがわれた洋室は、今日も冷蔵庫のように冷え切っていた。
古いスチームヒーターのスイッチを入れ、ベッドに倒れ込む。天井の隅にある、アンティーク調のシャンデリアの飾りを見つめながら、ため息を一つこぼした。
東京の友達のSNSを見る気にもなれない。彼女たちのタイムラインは、新作のパンケーキや、カラオケでの楽しげな動画で溢れている。私の時間は、あの冷たい別れの日から完全に止まってしまっていた。
コツン。
不意に、微かな音が部屋の静寂を破った。
ヒーターのきしむ音かと思ったが、違う。音は、厚いビロードのカーテンの向こう、窓ガラスの方から聞こえた。
風で折れた木の枝でもぶつかったのだろうか。私は重い体を起こし、カーテンの隙間から外を覗き込んだ。
窓の外は、すでに藍色の夜の底に沈んでいた。しんしんと降り積もる雪の中、窓の桟のところに、小さな白い塊が落ちているのが見えた。
「……雪玉?」
いや、違う。その白い塊には、黒くて小さな嘴と、細い尾羽があった。
「鳥……?」
慌てて窓の鍵を開け、冷たい風が吹き込むのも構わずにガラス戸を引き開ける。
そこに横たわっていたのは、手のひらにすっぽりと収まってしまうほど小さな、真っ白で丸っこい鳥だった。図鑑で見たことがある。北海道にしか生息していない、「雪の妖精」と呼ばれるシマエナガだ。
しかし、目の前にいるその小鳥は、妖精というにはあまりに弱々しかった。窓ガラスに激突してしまったのか、目を閉じたままピクリとも動かない。
「どうしよう……」
私は咄嗟に、その冷え切った小さな体を両手で包み込んだ。
驚くほど軽く、羽毛は氷のように冷たかったが、その奥底に、かすかな鼓動の震えを感じた。生きている。
「待ってて、今温めるから」
私は窓を閉め、机の上にあったマフラーで小鳥を優しく包むと、ヒーターのそばにそっと置いた。
自分がどれほど孤独に打ちひしがれていても、目の前で消えかかっている小さな命を見捨てることなどできなかった。いや、もしかすると、この凍えるような冷たい街で、私と同じように行き場を失って傷ついているこの小さな生き物に、自分自身を重ね合わせていたのかもしれない。
十分ほど経っただろうか。
マフラーの隙間から、チチッ、と微かな声が聞こえた。
「あ……」
覗き込むと、白い羽毛が僅かに震え、小さな黒い点がゆっくりと開いた。
その瞬間、私は息を呑んだ。
ただの小鳥の目ではなかった。ビー玉のような黒い瞳の奥に、まるで星屑を散りばめたような、瑠璃色の微かな光が幾重にも瞬いていたのだ。それは、カメラのレンズがピントを合わせるように、チカチカと不自然な明滅を繰り返している。
——機械? いや、命の光?
『……座標、ズレタカ』
えっ、と私は声を漏らした。
声がしたわけではない。私の頭の中に、直接、古めかしいラジオのノイズ混じりのような、奇妙に落ち着いた「思考」が流れ込んできたのだ。
『オイ、ソコノ娘』
「……嘘」
私は後ずさりし、ベッドの縁に腰をぶつけた。
マフラーの中からよろよろと這い出したシマエナガは、その小さな首を傾げ、瑠璃色の瞳で私を真っ直ぐに見据えていた。
『我ヲ、温メテクレタノカ。大儀デアル。我ノ名ハ「フウ」。……シカシ、ココハ何処ダ。時間ノ風ノ匂イガ、ひどく淀ンデオルナ』
「しゃ、喋った……!? ていうか、頭の中に……!」
『騒グナ、小娘。次元ノ壁ニ衝突シテ、少々生体回路ガ混乱シテイルダケダ』
小さな羽をパタパタとさせながら、生意気な口調で脳内に語りかけてくる真っ白なシマエナガ。
外では、小樽の重く冷たい雪が降り続いている。
しかし私の部屋の中だけは、まるで別の世界への扉が開いてしまったかのように、見たこともない鮮やかな気配が満ち始めていた。
どんよりと淀んでいた私の灰色の日々に、小さな、しかし強烈な光が飛び込んできた瞬間だった。




