プロローグ「東京から離れて・・・」
窓ガラスに額を押し当てると、じん、と骨の髄まで響くような冷たさが伝わってきた。
快速エアポートの車窓を流れる景色は、どこまでも単調な鉛色をしている。荒涼とした海、雪を被った黒々とした岩肌、そして、それに押し潰されそうに身を寄せ合う低い屋根の家々。東京の、あのけばけばしいほどのネオンと、絶え間なく続く人の波、スマートフォンの中で鳴り止まなかったクラスメイトたちとのやり取りが、まるで遠い前世の幻であったかのように思えた。
「真白、寒くない? もう少しで着くからね」
隣の席から、母が控えめな声で話しかけてくる。その顔には、無理に貼り付けたような薄い微笑みが浮かんでいた。最近の母は、いつもそうだ。私が不機嫌にならないよう、ひどく気を遣っている。その腫れ物に触るかのような態度が、私の胸の奥に澱のように溜まった苛立ちを、さらにかき混ぜるのだということに気づきもせずに。
私は短く「平気」とだけ返し、再び灰色の海へと視線を戻した。
高校二年の冬。本来ならば、修学旅行の余韻に浸り、来年のクラス替えや進路の話で友人たちと無責任に騒いでいるはずの時期だった。私が、目立つグループの端っこで、ただ頷きながら笑っているだけの平凡で退屈な女子高生であったとしても、そこには確かに私の「日常」があったのだ。
それが、こんなにもあっけなく瓦解してしまうとは思いもよらなかった。
両親の離婚。
言葉にしてしまえば、現代ではありふれた四文字だ。けれど、その内実は決して綺麗なものではなかった。優しくて、いつも私の話をニコニコと聞いてくれていた父には、別の顔があった。別の家があり、別の「妻」と呼べる存在がいて、そして——私と血の繋がった、小学生になる弟がいた。
私がのんきに東京の女子高生を謳歌している間、父は二つの家族を器用に、そして残酷に行き来していたのだ。事実を知らされた日の夜、母は声を殺して泣き、父はただ黙ってうつむいていた。その背中を見た瞬間、私の中で何かが決定的に冷え切り、音を立てて崩れ落ちた。
私は、彼らにとって何だったのだろう。
結局、父は「新しい家族」を選び、私たちは放り出された。慰謝料だの養育費だの、大人たちの薄汚い話し合いの末に、母は私を連れて彼女の故郷である北海道の小樽へと逃げるように引っ越すことを決めたのだ。
私は嫌だった。泣いて、喚いて、東京に残りたいと訴えた。父のことも許せなかったが、何より自分の世界を奪われることが耐えられなかった。しかし、経済的な基盤を持たない十六歳の少女の我儘など、大人の現実の前では無力だった。
「小樽駅、到着です」
無機質なアナウンスが響き、列車が重々しい音を立ててホームに滑り込む。
重いトランクを引きずって降り立った小樽の街は、海風に晒され、東京とは比べ物にならないほど鋭い寒さに包まれていた。吐く息は真っ白に染まり、すぐに空気に溶けて消えていく。
母の実家は、運河から少し坂を登ったところにある、古い洋食屋だった。
蔦の絡まるレンガ造りの外観と、アンティークのガス灯を模した看板。かつては小樽の網元が建てたという洋館を改装したその店は、観光客からはそれなりに風情があると評価されているらしい。
カラン、と重い木製のドアを開けると、デミグラスソースと古い木材の匂いが混ざり合った、独特の香りが鼻をついた。
「おお、よく来たね。待っていたよ、早苗さん、真白ちゃん」
奥から出てきたのは、パリッとした白いエプロン姿の初老の男性だった。綺麗に整えられた口髭と、温和そうな細い目。母の「義理の父親」——つまり、私の血の繋がらない祖父である。
私の本当の祖父は、母が実家を出てすぐに病気で他界した。その後、いまの祖父として店に入り込んだこの男性は、祖母の再婚相手だ。彼と母の間には、実の親子のような温かな思い出はないはずだが、母は「お世話になります、お義父さん」と、ひどく小さくなって頭を下げた。
「長旅で疲れただろう。二階の奥の部屋を空けておいたから、自由に使っていい。真白ちゃんも、今日からここが自分の家だと思って、何でも言ってちょうだい」
「……ありがとうございます」
私は、声のトーンを抑えて愛想笑いを作った。
祖父の言葉は丁寧で、その笑顔も悪気はないのだろう。けれど、その目の奥には「厄介な身内を引き受けてやった」という、微かな、しかし確かな優越感と距離感が潜んでいるのを、私は見逃さなかった。表層だけの親切。お互いに踏み込まないための、礼儀正しい壁。
母はこの薄氷のような関係の上で、厨房を手伝い、身を粉にして私を育てようとしている。その健気さが、痛々しくて、息が詰まりそうだった。
あてがわれた二階の部屋は、洋館特有の高い天井と、年月を経て飴色に変色した床板を持つ、ひどく冷え冷えとした空間だった。窓には重厚なビロードのカーテンが引かれ、部屋の隅にはいつからそこにあるのか分からない、大きな古時計がカチコチと無機質な音を刻んでいる。
トランクを床に置き、私はベッドの上に力なく倒れ込んだ。
天井の染みを見つめながら、目を閉じる。
渋谷のスクランブル交差点の喧騒、放課後に寄ったカフェの甘いフラペチーノの味、くだらないことで笑い合った友人たちの顔。それらが走馬灯のように脳裏を駆け抜け、やがて、父と見知らぬ男の子が手を繋いで歩く幻影に塗り潰されていく。
東京に帰りたい。
強く、痛切にそう思った。ここには私の居場所なんてない。優しいふりをした他人と、傷ついて無理をして笑う母親しかいない、この古臭くて寒い箱から、今すぐ逃げ出したかった。
ふと、窓の外でパサリ、と何かが羽ばたくような音がした。
風の音だろうか。それとも、海鳥か。
重い体を起こして窓辺に寄り、少しだけカーテンの隙間を開ける。
そこには、ガス灯の淡い光に照らされた小樽の古い街並みと、深々と降り始めた粉雪の向こうに、まるで時間が止まったかのように静まり返る、黒い森の影が広がっていた。
その時、私はまだ知らなかった。
この雪降る街の片隅で、私を呼ぶ不思議な声が、確かに響き始めていたことを。




