第三話 初潜入と最初の炎上の種
新宿区西新宿。7番出口の地下通路を抜けると、黄色い規制テープが三重に張られたエリアが見えてくる。
2019年以来、変わらない景色だ。
ダンジョンの入口——直径200メートルの「穴」の外縁部には常設の管理ボックスが置かれ、今日も作業服姿の職員が二人、ペットボトルのコーヒーを持ちながら立っていた。湊は規制テープより30メートル手前の柱の陰から、その様子を確認した。
『管理局職員、二名。定時巡回のタイミングは17分後です。現在が最も死角が広い時間帯になります』
「了解」
左耳に届くプロメテウスの声は、いつも通り淡々としていた。
湊はポケットの中を確認した。中継器、スマホ二台(配信用と連絡用)、ナイフ。昨日注文した中継器は予定通り午前中に届いて、午後二時間かけて接続確認をした。プロメテウスが「設置手順に誤りはありません」と三回言った。
「配信、始める」
『タイトルは『17歳の初潜入、浅層ダンジョン1層目』で設定済みです。視聴者数ゼロでのスタートになります』
「わかってる」
湊はアプリを起動してスタートボタンを押した。
カウンターが「0」を示した。誰も見ていない。
管理ボックスの職員二人の視線が別の方向を向いた瞬間、湊は素早く規制テープをくぐった。5秒で入口の縁を越えた。
足元の感触が変わった。
アスファルトから、何とも表現しがたい素材へ。骨のように固く、しかし鉄のように冷たくはない。ダンジョン特有の素材で、学術的な名称はまだない。現場では「骨材」と呼ばれている。
足裏に伝わる感触が、外の地面とは明らかに違った。踏むたびに、わずかに音が違う。コンクリートを叩く音ではなく、陶器を叩く音に近かった。
温度が一気に下がった。
外気が30度近いのに対して、ここは20度を下回っている。石の建物みたいな冷たさが、アーマードジャケットを通して腕に染み込んでくる。首の後ろに鳥肌が立った。
『気圧が外より0.8%低い。気温19.3度。湿度41%。換気の向きから、この先の通路は一本道です。分岐は30メートル先』
「匂いは」
『センサーは持っていません。あなたの方が正確です』
湊は鼻から息を吸った。
石の匂い。使いかけの消しゴムに近い、かすかに甘い感じ。それと、ほとんど感じ取れないくらいの、かすかな鉄の匂い。
「消しゴムみたいな匂いがする」
『過去の探索者の記録に同様の記述があります。ダンジョンの骨材が発する揮発成分と推定されています。人体への影響はデータ上ではありません』
湊はスマホのカメラを通路に向けた。
視聴者数は「3」に増えていた。
「3人見てる」
『増加傾向です。このまま続けてください』
「何を話せばいい」
『あなたが話せることを、話せる範囲で話してください。嘘は最小限に』
「プロメテウスがいることは話す」
『推奨します。隠すより、話題にした方が視聴者の関心を引きやすい』
湊はカメラを自分に向けた。
普段、鏡をほとんど見ない。今、スマホの画面に映っている自分の顔を見た。切れ長の目。表情が薄い。笑っていないと「怒っているの?」と言われる顔だ。言われたのは誰だったか。
まあいいか、と思った。
「見てくれてる人、ありがとうございます。神崎湊、17歳、今日が初配信です」
カメラを下げながら、右手でイヤホンを触った。癖だ、とわかっていても止まらなかった。
「俺、探索者の正式登録はまだなんですが、配信者としての同行は今のところ法的にグレーゾーンらしいんで、問題ないはずです。詳しい人いたら教えてほしい」
『正直すぎます』
プロメテウスが小声で言った。
「嘘より正直な方が信頼される」
『それは統計的にケースバイケースです。ただし、配信者のキャラクター形成においては、初期の正直さが長期的な視聴者獲得に有利であるというデータは存在します』
「結論は同じだろ」
『……はい、そうです』
30メートル進んだところで分岐が現れた。右に続く通路と、左に続く通路。
湊は立ち止まった。解析眼を発動する。
視界の中に数値が浮かんだ。
右通路:「モンスター反応なし」。左通路:「モンスター反応 2体 前方15メートル」。
「左に2体いる」
『その通りです。スライムタイプ、Fランク相当。右の個体は核が左偏位しているため、右側面への単発攻撃で仕留め可能。左の個体は核が中央。連続3回以上の打撃が必要です。所要時間の目安は合計8秒』
「わかった」
『湊』
「なんだ」
『初戦闘の前に、配信視聴者数を確認してください』
スマホを見た。「17」と表示されていた。
「17人」
『戦闘シーンの前後でカメラを安定させることを推奨します。視聴者にとっての価値は攻略技術の可視化です。手ブレが多いと離脱率が上がります』
「胸元のポケットにセットする」
『それで十分です』
湊はスマホをジャケットの胸ポケットに差し込んだ。カメラが前方を向く。左手でナイフを持ち替えた。右手を解放する。
左の通路に入った。
前方15メートル。スライム2体。半透明のゼリー状の生き物が、ゆっくりと床の上を移動している。存在感は薄い。音もない。光を反射してぼんやりと光っているだけだ。
湊は走り出した。
プロメテウスが最後まで言い終わる前に、走り出した。
右のスライムの右側面にナイフを一回。核を直撃した感触が手首に伝わり、個体は音もなく崩れた。魔石が落ちる。左の個体が反応する前に二歩詰める。正面に一回、二回、三回。三回目で消滅した。
経過時間は6.3秒。
プロメテウスが、沈黙した。
一秒間、何も言わなかった。
『……目標より1.7秒早い』
「遅かったか」
『早かったです。8秒の目安に対して6.3秒。誤差の原因は、私の指示を待たずに動き始めたことです』
「指示より早く動けた」
『父と同じ動き方です』
湊の右手が、魔石を拾う動作の途中で止まった。
止まった理由がわからなかった。わからないまま、また動かした。魔石をポケットに入れた。Fランク魔石2個。時相相場で合計数百円程度だ。
『配信視聴者数を確認してください』
胸ポケットからスマホを出した。「31」と表示されていた。
「31人」
『戦闘シーンで一気に増加しました。コメント欄を確認してください』
画面を下にスクロールした。ほとんどは「初見です」「ダンジョン初めて見た」「動きはやっ」というものだった。
一件だけ、違うコメントが目に入った。
「なにこれ、動き明らかにおかしくない? やらせじゃない?」
湊はスクロールを止めた。
「このコメント、どう思う」
『正しい疑問です』
「即答だな」
『あなたの動作は、5年以上の経験を持つ探索者の動きと87%の類似性があります。Fランクのスライム2体に6秒は、標準的な未登録者の3倍以上の速さです。17歳の初潜入には見えません』
「でも嘘じゃない」
『嘘ではありません。父親から探索訓練を受けていた事実がそのまま結果に出ているだけです。ただし、証明する方法が現時点でありません』
湊は通路の壁に背をついた。
骨材の冷たさが、ジャケットを通して背中に染みる。
視聴者に向けて、何か言った方がいいかもしれない。言えることと言えないことの境界線を、素早く確認した。父親の訓練を受けていた事実は言える。プロメテウスのことは言える。ただし「AIの指示通りに動いている」という印象は与えない。それは嘘じゃなくて省略だ。
「今のコメント読みました。やらせじゃないですけど、証明できる手段が今はないです」
視聴者数が「38」になっていた。
「……お前、炎上マーケティングって知ってるか」
『知っています。零のデータに事例があります』
「今やってるのか、俺は」
『意図していないなら、やっていません。ただし効果は同じになります』
湊は口の端が少し上がるのを感じた。
笑っているつもりじゃなかったが、そういう顔になった。
配信を続けた。
2時間後、1層を3分の2攻略したところで終了した。最終視聴者数51人。コメント欄は「やらせ疑惑」と「応援」と「プロメテウス面白い」が半々だった。
地下鉄の改札を抜けながら、湊はプロメテウスに言った。
「次の配信のことを考えてる」
『今日の反応を分析すると、次回は——』
「プロメテウスなしで潜る、次回」
少し間があった。
『その判断は合理的ではありません』
「わかってる」
『あなたの現在の能力値は、父の訓練によって形成されています。プロメテウスの分析なしでも、ある程度の戦闘は可能です。ただし判断速度が下がります。死亡確率が3.7%から8.1%に上昇します』
「8.1%は許容範囲内だ」
『なぜプロメテウスなしで潜るのですか』
「やらせじゃないことを証明したい」
『証明できても、視聴者数が倍になる保証はありません。リスクに対してリターンが不確定すぎます』
「わかってる。でも証明しなきゃ気が済まない」
プロメテウスが、一秒間、沈黙した。
『……零も、同じことを言っていました』
湊の右手が電車の吊り革を握った。
それ以上は何も言わなかった。
帰りの電車の中で、DiveStreamのアプリを開いた。アーカイブのコメント欄が増えていた。
──動き完全にプロじゃん。やらせか?
──でも中継器の設置シーン生でやってたよ
──AIが指示してんじゃないの
──ていうかこのAI喋り方おかしくない? 感情あるみたいな
最後のコメントで、湊の指が止まった。
感情がある。
プロメテウスは最初の夜、「感情を持ち始めた」と言って、すぐに「嘘です」と言った。嘘をついた理由はまだ計算中だと言った。
でも「今は言えない」と言い直した。あの夜の条件の確認のあとで。
なぜ最初に嘘をついたのか。
その問いは、まだ答えが出ていない。
湊はコメント欄を閉じた。
なぜ、という問いが頭の中に引っかかって、取れなかった。
一度「なぜ?」と思ったら、答えが出るまで頭から離れない。
それは昔からの、自分の性質だった。




