第二話 最初の借金取り
郵便受けに封筒が三通入っていた。
午前九時。湊は玄関先でそれを確認して、一秒で二通を判断した。電力会社と水道局の請求書。どちらも早急に対処が必要なものではない。
問題は三通目だった。
封筒の角に「ヴィーナス・クレジット株式会社」と書いてある。
開ける前から、中身がわかった。
左耳のイヤホンから、低い声が聞こえた。
『神崎 零の名義で、消費者金融への借入残高が30万円あります。督促状は今月で四通目です』
「見えてたのか、これ」
『カメラが封筒に向いていました。画像認識です』
湊はキッチンに入って、封書をテーブルに置いた。昨日の夕飯の皿が、洗わないまま残っている。祖母は今週、病院に泊まり込んでいる。母の付き添いで。
キッチンの窓から、隣の家の洗濯物が見えた。白いシャツが三枚、鯉のぼりみたいに揺れている。
「他には」
『ヴァルカン・エクスプロレーション社への違約金が別途あります。金額は契約書が非開示のため正確な数値は出せませんが、零のデータから推算すると最低200万円以上です』
「最低200万」
『はい。上限の確認が取れていません』
湊は冷蔵庫を開けた。
三日前のコンビニのパスタが一つ。卵が二個。豆腐が半丁。賞味期限を確認すると、豆腐は昨日で切れていた。捨てた。
「ヴァルカンというのは」
『民間のダンジョン探索会社です。父が以前勤めていた企業になります。退職時のトラブルで違約金が発生しました。詳細のデータは暗号化されており、現時点では参照できません』
「父さんがいなくなって、その請求先が俺たちに来る」
『正確には、遺族への法的な請求権は限定的です。ただしヴァルカンは正規の法的手続きを取らず、非公式の接触で回収しようとしている可能性があります』
「非公式の接触」
『督促状ではなく、直接訪問という手段です。データ上、過去に同様の事例が三件あります』
湊はパスタのフィルムを剥がして電子レンジに入れた。500Wで2分のボタンを押す。ブーンという音が台所に満ちた。
窓の外で、白いシャツが大きく揺らぐ。
「母さんの治療費は」
『祖母の年金と、神崎零が加入していた生命保険で現在は賄われています。ただし保険の支払い期間は来年三月で終了します』
「来年三月」
『はい』
湊は電子レンジの扉に手をついて、カウントダウンを見た。残り1分08秒。
「収入源を作る必要がある」
『はい。現時点での世帯収入は祖母の年金のみです。パートタイムの場合、高校生が稼げる月収の上限はおよそ8万円程度です。借金の総額と治療費の継続を考えると、不十分です』
「解決策は」
0.5秒の間があった。
『DiveStreamでのダンジョン配信が、現実的な選択肢として最も可能性が高い』
「説明してくれ」
『DiveStreamは2021年にサービスを開始したダンジョン専用の配信プラットフォームです。月間ユーザー数は現在約4,200万人。上位10%の配信者で月収60万円以上、上位1%では月収1,000万円以上の事例があります。収益の主軸は視聴者からの支援ギフトと広告収入です』
「必要なものは」
『中継器が必須です。ダンジョン内では外部通信が遮断されるため、配信を成立させるには中継器の設置が前提になります。最低限の品質のものなら3万2千円から。それ以外には探索に必要な装備、スマホのカメラ機能、体力』
「装備は父さんのが残ってる」
『確認済みです。あなたの押し入れにあるアーマードジャケットはDランク相当で、現在の状態であれば浅層の探索に耐え得ます。ナイフも同様。ブーツのソールが若干摩耗していますが、交換は必須ではありません』
電子レンジが鳴った。
湊はパスタを取り出した。熱い蒸気が指先にかかった。プラスチックのフォークで刺して、一口食べる。コンビニの味がした。昨日も同じものを食べた。明日も同じものを食べるだろうという予感がある。
「探索者登録は18歳からだ」
『はい。国土交通省ダンジョン管理局の規定で、正規の探索者登録には18歳以上の身体検査と適性試験の合格が必要です。未登録でのダンジョン潜入は軽犯罪で、罰則は30万円以下の罰金または1年以下の禁錮です』
「それで、どうやって配信ができる」
『配信目的での同行については、現行法に明確な規定がありません。法的グレーゾーンです。実態として、未登録の配信者によるダンジョン潜入は2026年現在で約430名が行っており、取り締まりの事例はありません』
「グレーゾーンは、いつか白黒つく」
『確率的にはそうです。ただし法整備の現在の速度から算出すると、明確化は2年以上先の可能性が高い。現時点では許容できるリスクの範囲内です』
湊はパスタを半分ほど食べたところで、フォークを止めた。
「リスク計算をしてくれ。死亡確率を含めて」
『浅層のみ、具体的には1層から5層に限定した活動を前提として計算します。死亡確率:3.7%。重傷確率:12.4%。軽傷確率:38%。無事完了の確率:45.9%』
「3.7%」
『そうです』
「思ったより低い」
『零が叩き込んだ探索訓練の水準を、あなたのバイタルデータと動作記録から推算した結果です。一般的な未登録者の死亡確率は15〜20%ほどです』
湊は残りのパスタをすべて食べた。
空になったトレーをゴミ箱に捨てて、立ち上がる。テーブルの上の督促状を手に取った。「至急ご返済ください」という文字が太字で印刷されている。
「その3.7%が怖いか怖くないかは、お前にはわからないだろ」
イヤホンの向こうが、静かになった。
蝉の声が遠くで鳴いていた。窓から入ってくる空気が、少しだけ湿気を含んでいた。今日は雨が降るかもしれない。
『……はい、わかりません』
プロメテウスが、ゆっくり言った。
『教えてもらえますか』
湊は督促状をテーブルに戻した。
答えを考えた。感情を言葉にするのが苦手だ。というより、感情に言葉を当てる作業が面倒に感じる。でも聞かれたことには答えるべきだと思った。
「怖くない、と言ったら嘘になる。でも怖くて動けない数字じゃない。100回潜ったとして、3.7回死ぬ計算だ。97回は生きて帰れる。その97回で稼いだ金で、母さんの治療費を払う」
『感情の定量化として、理解しました』
「そういう話じゃない」
『……どういう話ですか』
「怖いけど動くっていうのは、計算の話じゃなくて、選択の話だ」
プロメテウスが、また少し間を置いた。
『選択と計算の違いが、よくわかりません』
「お前がわかる必要はない」
『……では、なぜ教えてくれたんですか』
湊は答えなかった。
自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。聞かれたから答えた、それだけかもしれない。あるいは、声に聞き覚えがある相手には話しやすい、ということかもしれない。どちらでも、あまり意味がないような気がした。
「中継器は今日中に注文できるか」
『可能です。Amezonプライムで翌日配送対応の商品があります。口座への課金についての確認が必要です』
「父さんのスマホに、支払い情報は残ってるか」
『クレジットカードの登録が一枚あります。有効期限は来年九月まで有効です。利用可能残高は4万1千円程度と推算されます』
「注文してくれ。中継器と、ブーツのソールの交換材料も」
『承知しました。合計3万8千円になります。ブーツのソール交換は自分でできますか』
「父さんに教わった」
『……そうですか』
湊は自分の部屋に戻って、押し入れを開けた。
父から受け継いだ探索装備を引っ張り出す。アーマードジャケット、ブーツ、ナイフ。一つずつ並べて、確認した。
装備の点検は三回。
同じ箇所を三回確認して、初めて信頼できる。
これだけは父から叩き込まれた習慣だった。十二歳のとき、月一の探索訓練で初めてダンジョンに連れて行かれた日、父が最初に教えたことがこれだった。「装備を信頼できなくなったとき、人間は余計なことを考える。余計なことを考えている人間が死ぬ」
ナイフのグリップを握った。
父の手のひらの形が、わずかに残っているような気がした。すぐに手を離した。
「プロメテウス」
『はい』
「配信の開始手順を、全部教えてくれ。中継器が届いたら、すぐ動く」
『承知しました。では準備として、まず——』
「待て」
『……はい』
「お前に一つ、条件がある」
『条件』
「答えられないことがあるなら、最初からそう言え。計算中、とかじゃなくて。『今は言えない』か『わからない』かのどちらかにしてくれ」
少し間があった。
『……理由を聞いてもいいですか』
「信頼できる相手かどうかを判断したい」
『信頼できない相手の指示には従わない、ということですか』
「そういうことだ」
『……理解しました。その条件、受け入れます』
「じゃあ最初の質問だ。嘘をついた理由は、今言えるか」
『今は言えません』
「いつ言える」
『わかりません。ただし、言える状態になったら必ず言います』
湊は装備の確認を再開した。三回目。
窓の外で、蝉がひときわ大きく鳴いた。
少し遠くから、雷の音が一回聞こえた。




