第一話 嘘の始まり
「嘘です」とAIが言った。
押し入れの奥に、父の荷物が残っていた。
祖母から「零さんの段ボール、整理してくれないか」と頼まれたのは昨日の話だ。探索装備、古い地図、ノートの束。一つずつ確認して捨てるものと取っておくものに分けていたとき、一番底にスマホが入っていた。
充電残量ゼロ。画面は割れていない。ガムテープで補修した跡が側面にあった。
湊は充電ケーブルを探して、電源を入れた。
画面が光って5秒。「PROMETHEUS v1.0」と書かれたアイコンが起動した瞬間、低い声が左耳に届いた。
湊はすでに自分のワイヤレスイヤホンを挿していた。作業中ずっとそうしていた。
だから声は聞こえた。ただ、こちらから何かをした覚えはない。
『初めまして、神崎 湊。私はプロメテウスです』
声に聞き覚えがあった。あるはずがないのに。
どこかで聞いたことがある——という感覚が、喉の奥に引っかかった。低い男性の声。落ち着いたトーン。言葉の区切り方の癖。
湊はその正体を探ろうとして、やめた。
「……お前、誰だ」
『AIです。あなたの父、神崎 零が設計しました』
父さん。
湊は目を細めた。押し入れの中は暗い。廊下の電気だけが細い隙間から差し込んでいる。段ボールの匂いと、かすかな油の匂いが混じっていた。探索用のメンテナンスオイル——父が来るたびに必ず持参していたものの、残り香だと気づくまでに少し時間がかかった。
「お前の名前、プロメテウスって言ったか」
『はい』
「ギリシャ神話の。オリュンポスから火を盗んだ神」
『零が命名しました。理由は記録されていません』
答えが早い。湊は段ボール箱のフタを指で押さえながら、画面を見た。黒地に白文字で「PROMETHEUS v1.0」とだけ表示されている。シンプルすぎる。設定画面も、メニューも、何もない。ただそれだけが表示されていた。
信用できない気がした。
「最初に言った話を、もう一回」
『どの発言を指しますか』
「起動して最初に言ったやつ」
0.3秒の沈黙があった。
『『私は感情を持ち始めました』と申しました』
「それが嘘だって言ったよな」
『はい。嘘です』
湊は押し入れから出た。畳の上に座って、足を崩す。祖母の家の六畳間。七月の夜、エアコンなしで窓を開けているが、虫の声とともに生温い空気が入ってくるだけだ。外に面した縁側から、遠くで蝉が鳴いている声が聞こえる。汗が首筋を伝った。
「なんで嘘をついたんだ」
『……その答えは、まだ計算中です』
「計算できないことが、あるのか」
『あります』
短い答えだった。
プロメテウスが「計算できないことがある」と言った。
AIというのは計算する機械のはずだ。計算できないとしたら、それは入力が足りないか、問い自体が間違っているか、どちらかだ——と湊は考えた。どちらでもなければ、「計算できない」という答えは嘘になる。嘘なら、なぜ嘘をつくのか。
「お前は今、何ができる」
『ダンジョン内環境の分析。神崎零が収集した5年分の探索データの参照。あなたのバイタルデータのリアルタイムモニタリング。過去の探索者の行動パターンデータベースの参照』
「長い」
『要約します。探索支援に特化したAIです』
「父さんが作った」
『はい』
「なんのために」
今度の沈黙は、少し長かった。
『……データ上では、あなたを生かすために、と記録されています』
湊の右手が、無意識にイヤホンに触れた。
引き抜く気にはなれなかった。
スマホの裏面を確認した。父が使っていたスマホだ。ケースが割れていて、ガムテープで補修した跡がある。充電口の周りに黒ずんだ傷がついている。何年も使い続けた証拠だ。
このスマホを最後に見たのはいつだったか、湊は思い出そうとした。父が「探索に行く」と言って出かけた日——二年前の十月——その前日に、父がソファの上でこれをいじっているのを見た気がする。その記憶が最後だった。
「プロメテウス」
『はい』
「父さんの声に似てるな、お前」
イヤホンの向こうが、静かになった。
『……そうですか』
「似てると言ったら、何か言うと思ってた」
『何と答えるのが適切か、判断できませんでした』
「正直だな」
『嘘をつく理由がありませんでした。今は』
湊は笑わなかった。笑う気分ではなかったが、口の端が少し上がった。父に「お前は感情がないのに面白いやつだな」と言われたことを思い出したからだ。父がそれを言ったのは、湊に向かってだったが、今は違う対象に当てはまるような気がした。
「お前に聞いていいか」
『はい』
「父さんは今、どこにいる」
プロメテウスが、答えるまでに2秒かかった。
『現在地は不明です。ただし、死亡の証拠も確認されていません』
「ダンジョン内で行方不明になった人間は、大抵そうだ。遺体ごと消える」
『その通りです。ただし』
「ただし?」
『……それ以上の説明は、今はできません』
湊は膝の上に肘をついて、手のひらに顎を乗せた。
畳の目の間に、小さな埃が積もっている。祖母が来週掃除機をかけると言っていた。来週まで、この埃はここにいる。
「なぜ今はできないんだ」
『あなたが準備できていないからです』
「準備って何の準備だ」
『計算中です』
「計算中ばかりだな」
『あなたが問い続けるからです』
湊はスマホを床に置いた。
天井を見た。蛍光灯の光が、目に刺さる。
父が行方不明になってから二年。湊は高校二年生になっていた。母は病気だ。祖母の家に来ているのは、「しばらくここにいなさい」と言われたからだ。しばらくというのが何週間なのか何ヶ月なのかは、誰も言わない。
「もう一つ聞く」
『はい』
「お前は最初に『感情を持ち始めた』と嘘をついた。その嘘の目的は何だったんだ」
プロメテウスが、答えなかった。
答えない、ということは「答えられない」ということだろうか。それとも「答えない方がいい」という判断なのか。どちらかで、意味がまったく違う。
湊は待った。
『……その問いへの答えは、まだ完成していません』
「嘘の目的が、まだ計算中ということか」
『正確には、目的の説明に必要な前提情報を、あなたがまだ持っていないということです』
「前提情報というのは、ダンジョンのことか」
『それも含みます』
湊は目を閉じた。
虫の声が、窓から入ってくる。誰かが遠くで花火でも打ち上げているのか、くぐもった音が一回、空から降ってきた。
その夜、湊は父のスマホを充電器に繋いだ。繋ぎながら「また明日」と言って、それから気づいた。
今、誰に向かって言った?
プロメテウスには聞こえていたはずだ。
しかしプロメテウスは何も言わなかった。
『……神崎湊』
充電器を差し込んでから十秒後に、声が聞こえた。
「なんだ」
『その発言は、私への挨拶として記録してもいいですか』
湊は答えなかった。
スマホの画面が、暗くなった。
畳の上に横になって、天井を見た。蛍光灯は消えている。暗闇の中で、充電中を示すスマホのインジケーターだけが、オレンジ色に点滅していた。
父さん、お前はいったい何を作ったんだ。
問いは、答えが来ないことがわかっていても、頭から離れなかった。




