第十話 データの処理上の誤差
翌日の午後一時、新宿西口のダンジョン入口で凛と合流した。
昨日と同じタクティカルパンツだったが、上が違った。グレーのシンプルなトップスは、全体的に洗練された印象を与えた。湊にはその組み合わせがなぜそう見えるのか、はっきりとはわからなかったが。
「確認するけど、今日は配信なし、でいいですか」
「なしです。データ収集目的で」
「わかった」
凛は規制テープをくぐりながら先に進んだ。湊が後ろからついた。凛の足音が小さかった。重心が低い。歩き方が探索者のものだった。
2層に降りると、凛が独り言を始めた。
「気圧、昨日より0.2%低い。東側は湿度が上がってる」
独り言だった。湊に向けていない。緊張をほぐすための習慣に見える。
湊は何も言わなかった。プロメテウスも何も言わない。
分岐で凛が止まった。プロメテウスではなく、湊の方に視線を向けた。
「確認するけど、気圧の低い箇所はこの先でしたか」
「もう少し奥です。20メートルほど」
「わかった。右から片付けてから左に行く」
右の通路に入った。Dランクのモンスターが三体いた。
凛が前に出た。湊は後ろから解析眼のデータを読み上げる。
「三体とも弱点は左側面です。右から順に」
「わかった」
凛の動きに無駄がなかった。足運びが正確で、体の軸がぶれない。靴紐を一つ一つ丁寧に結ぶ人間が、そのまま戦闘しているような動き方だった。三体を倒すのに22秒。魔石を回収して、すぐに左の通路に向かう。
「……速いですね」
「あなたの方が速い。先週の配信で19秒で2体倒していた」
「見てたんですか」
「参考データとして確認しています」
「参考データとして」という言い方が少し引っかかった。自分がデータの一項目として扱われているような、奇妙な感触があった。湊は黙って後ろからついた。
左の通路の奥、亀裂の前で凛が止まった。
「……これが、記録にない空洞」
「はい」
凛は亀裂に手を触れた。指先で縁をなぞった。ゆっくりと、確かめるように。
湊は凛の横に立った。亀裂を見た。骨材の断面が不規則に割れていて、奥から冷たい空気が流れてくる。
二人とも、しばらく黙っていた。
「零さんが見ていたものと同じかもしれない」
「父さんはこの空洞を知っていたと思いますか」
凛は亀裂から手を離した。タクティカルパンツのポケットに両手を入れた。
「わからない。ただ」
一秒の間がある。
「確認するけど、零さんのデータに、この座標と一致する記録はありますか」
湊は左耳のイヤホンに触れる。
「プロメテウス、聞こえてるか」
『はい。白石凛さんの質問に答えます。該当座標と一致するデータが、零の記録に一件あります』
凛の体が、わずかに、しかしはっきりと固まった。肩の位置が上がった。息を止めた気配があった。
「ただし」
プロメテウスが続けた。
『記録のログが欠損しています。零が最後に潜入した日のデータです。その日だけが、残っていません』
凛の手が、ポケットの中で止まった。指先が、無意識に布地を握りしめる。
「……最後の日の記録だけが、ない」
『はい』
カフェで凛の声が止まったときより長い沈黙だった。凛は亀裂を見たまま動かなかった。湊は何も言わなかった。言う言葉が見つからなかった。
骨材の壁から冷たい空気が流れてくる。発光体の光が暖色に揺れている。遠くで何かが崩れるような低い音がした。2層特有の音で、モンスターでも人間でもない。
「……記録が残っていないのは、消えたからですか。それとも、最初から記録しなかったからですか」
凛が聞いた。
『判断できません。ログ自体が存在しないため、消去されたのか未記録なのか区別できません』
「正直なAIですね」
『不正確な情報を伝える理由がありません』
凛はタクティカルパンツのポケットから右手を出した。亀裂の縁に、もう一度だけ指先を触れた。それから、手を引いた。
「今日はここまでにします。データは十分です」
「わかりました」
「確認するけど、来週も潜れますか」
「予定は入ってないです」
「じゃあ来週」
凛は先に歩き始めた。
地上に出て、凛と別れた。来週また潜ると言って、凛は西新宿の人込みに消えた。
高尾山口行きの電車に乗った。座席に座って、スマホを膝に置く。車内が空いていた。窓の外が住宅地から山の緑に変わっていく。
湊は膝の上でスマホを持ったまま、イヤホンに向かって言った。
「凛さんのこと、どう思う」
プロメテウスが、0.7秒沈黙した。
『彼女は、零を思い出させます』
湊は窓の外を見る。
電車がトンネルに入った。窓が暗くなる。自分の顔が反射して見える。
「お前が誰かを思い出すことが、できるのか」
『……わかりません。でも、そう感じました』
「感じた?」
また間があった。今度は少し長かった。
『……データの処理上の、誤差かもしれません』
湊はスマホを膝に置いた。
電車がトンネルを抜けた。窓の外に山が見える。
誤差、とプロメテウスは言った。
ただし「かもしれません」という言い方は、確定ではない。確定でないということは、誤差ではない可能性が残っている。
湊は手帳を開いた。何かを書こうとして、何も書かなかった。
書けることと書けないことの区別が、今はうまくつかなかった。
プロメテウスがそれを誤差と呼ぶかどうかは、湊には判断できない。
判断できないまま、電車は高尾の山を越えていった。




