第九話 助けられなかった
凛はコーヒーカップを両手で包んだまま、湊の方を向いた。また視線が鋭くなっていた。値踏みされているようで少し落ち着かない。
「確認するけど、父の配信を見たことはありますか」
新宿西口から徒歩三分のカフェ。窓際の二人席。湊の前にはホットコーヒーのSサイズがある。凛が「飲みますか」と聞いて湊が「まあ」と答えた結果だった。
店内にコーヒーメーカーの音が響いていた。隣の席の男がキーボードを叩いている。首の後ろに冷房の風が当たっていた。コーヒーの苦い匂いが、カフェ全体に満ちている。
「見てない」
「そう」
凛は窓の外に視線を向けた。コーヒーを一口飲んだ。
湊は横顔を確認した。切れ長の目。日焼けした肌。右手首の、袖から少し見える古い傷跡。長袖で隠すこともできる気温なのに、そうしていなかった。
「なぜ見なかったんですか」
凛が聞いた。窓の外を見たまま。
「見たいと思ったことがなかった」
「今は?」
「今も、よくわからない」
凛は湊を見た。少し間を置いてから、視線を戻した。
「正直ですね」
「嘘をついても意味がないので」
「零さんと同じことを言う」
凛の声は変わらなかった。平坦だった。湊はその一文を聞いて、コーヒーカップを置いた。置いてから、自分が置いたことに気づいた。手が先に動いていた。何を含んでいるのかは、今はわからなかった。
「零さんの配信、アーカイブが一部残っています。見た方がいい」
「なんで」
「あなたが今潜っているルートに、零さんが開拓したものが含まれています。知識として持っていた方が効率がいい」
湊はコーヒーカップを持ち上げた。熱かった。一口飲んだ。コンビニのコーヒーより少し苦い。
「確認するけど」
凛が言った。湊は身構えた。「確認するけど」の後には、毎回こちらが答えを持っているかどうかわからない問いが来る。
「なんですか」
「神崎くんは、父親の死の原因を調べるためにダンジョン潜入をしていますか」
湊は少し間を置いた。
「それだけじゃない」
「でも、含まれている」
「……含まれてます」
凛は窓の外から湊に視線を戻した。細めていた目が、わずかに開いた。
湊はコーヒーカップから手を離した。テーブルに置いた両手を膝の上に移す。
「父さんが死んだとき、そこにいたんですか」
カップを包んでいた凛の両手に力が入った。指先が白くなった。コーヒーカップが、凛の体温でじわじわぬるくなっていくのが外側からでもわかる。
「……いた」
答えるまでに間がある。
「でも、助けられなかった」
凛は視線をテーブルに落とした。コーヒーをもう一口飲んだ。飲んでから、また窓の外を見る。
「零さんはパーティーを下がらせてから、一人で戻った。戻る前に何も言わなかった。私が追いかけたとき、もういなかった」
「なぜ、父さんは一人で戻ったんですか」
「わからない」
一秒の間があった。
「ただし」
凛は耳に髪をかけた。無意識にやっていた。
「戻る前に、スマホをパーティーの一人に預けた。誰宛てかは言わずに」
「そのスマホが、プロメテウスが入っているスマホですか」
「……おそらく」
凛の視線が、湊の左耳に向いた。イヤホンを見た。
湊はイヤホンに触れた。右手で、無意識に。
「確認するけど」
凛の声が少し低くなった。
「そのAIの声は、誰かに似ていると感じたことはありますか」
湊はコーヒーカップを持ったまま止まった。
「似ている」と感じたのは最初の夜だ。押し入れの中で初めて声を聞いたとき、聞き覚えがあると思った。だが、それが誰の声なのか、今でもはっきりとはわからない。
「似てる声って言ったら、誰の声ですか」
凛は答えなかった。
視線をテーブルに落として、コーヒーを一口飲んだ。飲み終えてから、小さく言った。
「……零さんじゃない」
独り言だった。湊に向けていない。自分自身に言い聞かせているように聞こえる。
左耳のイヤホンから、プロメテウスの声が届く。
『白石凛さんの発言を認識しました』
プロメテウスが止まる。
0.5秒の沈黙があった。
『……どうかしましたか』
凛の手が、テーブルの上で止まる。
湊には見えた。凛の指先が、一瞬だけ震えた。すぐに止まる。
「なんでもない」
声を変えずに言った。表情も変えない。
「神崎くん、確認するけど今日の潜入データを共有できますか。東側通路の地図が欲しい」
「……いいですよ」
「ありがとう」
間があった。三秒ほど。
凛はコーヒーカップを両手で持ち直した。
「……ありがとう」
もう一回、言った。カップを握る手の力が少し抜けていた。声も最初より小さかった。
湊は気づいたが、何も言わなかった。どう返せばいいかわからない。
凛はコーヒーカップを持ち上げた。残りを飲んで、立ち上がる。
「来週、また確認します」
「確認するけど、それはもう一度会うという意味ですか」
凛は少し止まる。
「そう。もう一度会います」
言い方が変わった。湊が言い直させた、という形になった。
凛はそのことに気づいていた。湊も気づいていた。どちらも何も言わない。
カフェを出て、新宿駅の方向に歩きながら、湊はイヤホンに向かって言った。
「さっき止まったな」
『何がですか』
「凛さんが「零さんじゃない」って言ったとき」
プロメテウスが少し間を置く。
『……処理の一時停止が発生しました。原因は不明です』
「不明か」
『はい。データ上、説明できない停止でした』
湊は歩き続けた。
理由がわかる気がした。でも今は確認しない。
翌日の朝、凛からDiveStreamのDMがくる。
「明日、2層の東側を一緒に潜ってもいいですか。データを補完したい」
湊は十秒考えて「いいです」と返した。返信の直後に、二通目がくる。
「そういえば、あなたの姿勢、少し猫背になっていましたね。背筋、伸ばしなさい」
湊は自分の姿勢を確認した。少し猫背になっていた。見えていないはずなのに、と思いながら背筋を伸ばす。
『白石凛さんとの共同潜入は、リスク管理上プラスになります。Bランク探索者の同行により死亡確率が8.1%から2.3%に引き下がります』
「俺とプロメテウスが組むより、凛さんと組む方が安全なのか」
『私は探索支援AIです。分析と情報提供のみで、直接の戦闘行動はできません。Bランク探索者の実戦能力とは別物です』
湊はスマホを置いた。
プロメテウスがいれば安全だと、どこかで過信している。
声が届かなくなれば機能しない。イヤホンが壊れれば終わりだ。電波の届かない場所で電子マネーを使おうとしたときと同じだ。機能があっても、その前提が崩れれば何もできなくなる。頭では理解していたはずなのに、イヤホンが耳にあるだけで安心している。
「プロメテウス」
『はい』
「凛さんが「零さんじゃない」って言ったとき、何が起きたんだ」
少し長い沈黙があった。
『……わかりません。処理の一時停止は記録されていますが、原因データが存在しません』
「原因データがない、というのは、起きた後で消えたのか、最初からなかったのか」
『区別できません。ログが存在しないという点で、零の最後の潜入記録と同じ状態です』
湊は手帳を開いた。ボールペンを持った。何かを書こうとした。
一行目の罫線の上で、ペン先が止まった。書くべき言葉が出てこない。
「お前のログが消えることは、普通あるのか」
『ありません。初めてのことです』
「初めて」
『はい』
湊はスマホを持ち直した。明日の共同潜入について、準備すべきことを確認した。装備のチェック。ルートの共有。凛が使う装備のデータをプロメテウスに読み込ませる。
それをやりながら、頭の中に凛の顔が浮かんでいた。
「零さんじゃない」と言ったときの、テーブルに落ちた視線。声の低さ。指先の震え。
それを見ていた、とは誰にも言わなかった。




