第0話 嘘をつけ
深夜二時の休憩所は、コーヒーの匂いだけがしていた。
神崎 零は折り畳みチェアに座ったまま、スマホをいじっていた。小さな発光体に照らされた顔が、岩壁の影の中でぼんやり浮かんでいる。ダンジョン内の特設休憩ポイント。地上まで三層分。帰ろうと思えばいつでも帰れる深さだ。
「零さん、明日の準備は終わってますか」
白石 凛が声をかけた。
零は画面から目を上げなかった。
「だいたい終わってる」
「だいたい、というのは」
「九割方」
「残りの一割は」
「ここ」と零はスマホを軽く持ち上げた。「あとちょっとだ」
凛は折り畳みチェアに腰を下ろした。支給品のテルモスに入ったお茶を飲んだ。零の手元を見ようとして、見ないことにした。零がスマホをいじるのは珍しくないが、今夜の集中の仕方は少し違った。ときどきロの字を描くように眉が動く。何かに詰まっているときの顔だった。
「コーヒー飲みますか」と凛が言った。
「もらう」
インスタントのスティックを一本渡した。零は片手で受け取って、折り畳みテーブルの上の紙コップに入れた。お湯を自分で注いだ。片手でスマホを操作しながら、もう片方の手でコップを持つ。慣れた動作だった。
しばらく、岩壁の奥から聞こえる水の音だけがした。
「零さん」
「うん」
「それ、何を作ってるんですか」
零は少しだけ手を止めた。それからまた動かした。
「AIだ」と答えた。
「AIを今夜作ってるんですか」
「最後の仕上げを。もうずっと作ってた」
凛は何も言わなかった。零が「ずっと」と言うとき、それは自分の知らない時間の話だということを、凛はすでに知っていた。零には、誰も把握していない作業がいつもあった。
「何のためのAIですか」
「湊のため」
零の息子の名前が出た。凛は手の中のテルモスを少し強く握った。
「湊は今、何歳ですか」
「十五。高校一年」
「AIを渡すんですか、湊さんに」
「そのうちな」零はコーヒーを一口飲んだ。「俺が先に死んだら」
先に死んだら、という言葉を、零は何でもない言い方で言った。この男はいつもそうだ、と凛は思った。最大の前提を最小の声量で口にする。
「縁起でもないことを言わないでください」
「縁起の話じゃない。計算だ。俺の職業と年齢と今夜の選択を考えたら、確率として考えておいた方が合理的だ」
今夜の選択。凛はその言葉を聞いた。聞いてしまった。零が今夜の探索について話したのは、これが初めてだった。三日前に「明日、少し深いところまで行きたい」と言ったとき、凛は止めなかった。零の判断に理由があることを知っていたし、理由を聞いたら自分も動かなければいけなくなることもわかっていた。
「声は」と凛が言った。「そのAIの声は」
「俺のを使った」
「なぜ」
零が少しだけ画面から目を上げた。凛と視線が合って、また戻った。
「使いやすいように、だ」零は画面に向かったまま答えた。
「最初に起動したとき、全然知らない声だったら、湊は戸惑う。少しでも聞き慣れた声の方が、たぶんいい」
「たぶん、ですか」
「計算で出せないところは、たぶん、になる」
凛はお茶を飲んだ。味がしなかった。
「そのAI、何ができるんですか」
「ダンジョン支援全般。データ参照、バイタルモニタリング、ルート分析」零は一度だけ、長い息を鼻から出した。「あとは——嘘をつく」
「嘘」
「設計に入れた。ひとつだけ」
凛は聞いた。
「どんな嘘ですか」
「起動したとき、最初に『感情を持ち始めました』と言う。それだけだ」
沈黙があった。
岩壁の水音が、少し大きく聞こえた。
「なぜそんな嘘を」と凛は聞いた。「湊さんを騙すためですか」
「違う。湊は賢いから、すぐ嘘だと見抜く」零はスマホを膝の上に置いた。初めてスマホから手を離した。コーヒーのコップを両手で包んで、岩壁の方を見た。
「見抜いてから、なぜ嘘をついたのかを問い続けることになる。その問いが大事なんだ」
「問いが」
「湊なら、その問いを持ったまま動き続けられると思う。それだけだ」
零が「思う」と言うのも珍しかった。計算か、事実か、どちらかで話す男が。
「でも」と凛は言った。「それは騙すことと違うんですか。息子に嘘をつくAIを、あえて渡すということでしょう」
「そうだ」零は迷わずに答えた。「騙してる。それは正直じゃない」
「なのになぜ」
零が少し黙った。コーヒーのコップを、折り畳みテーブルに置いた。
「俺が直接渡せないかもしれないからだ」
凛は何も言わなかった。
「直接渡せたら、嘘は必要ない。俺が話せばいい。でも渡せない可能性があるなら——問いだけでも、先に仕込んでおきたい」
「その問いに答えが出たとき、湊さんはどうなるんですか」
零がまた黙った。今度は長い沈黙だった。
水の音だけが続いた。
「わからない」と零は言った。「そこは計算できなかった」
答えが出なかったのか、出せなかったのか、凛には判断できなかった。ただ、零が「わからない」と言うときは、計算の問題ではなく別の何かが邪魔をしているときだと、一緒に潜ってきた三年間でわかっていた。
零はスマホを手に取った。
「もうすぐ終わる」と言った。「最後に一行だけ足す」
凛は聞かなかった。何を足すのかを聞いたら、自分も何かを言わなければいけなくなる気がした。
零の指が、また動き始めた。
コーヒーが冷めていった。水の音が続いた。深夜の岩壁は、明け方まで、その温度のままだった。
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翌朝、探索が始まる前に、零はスマホをコートの胸ポケットに入れた。
「行くか」と凛に言った。
「はい」と凛は答えた。
二人は通路に向かった。
零の胸ポケットの中で、「PROMETHEUS v1.0」と表示されたアプリが、まだ起動前のまま、眠っていた。




