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婚約破棄された地味令嬢ですが、元婚約者の足元を彩っていたのは私でした~今さら戻ってきても、あなたの爪先はもう塗りません~

作者: ゆうた

第一章 足元から崩れる幸運


「君のような地味な女は、もう必要ない」


 煌びやかなシャンデリアの下、第二王子エドワード殿下の声が夜会の広間に響き渡った。


 百を超える貴族たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。憐れみ、嘲笑、そしてほんの少しの優越感——それらを含んだ眼差しの中で、私、リリアーナ・フォン・グレイシアは静かに睫毛を伏せた。


(ああ、やっと言ってくれた)


 三年。長かった。本当に、長かった。


「エドワード様、それは……」


「聞こえなかったのか?」


 殿下は冷たく笑う。その隣では、蜂蜜色の巻き毛を揺らした男爵令嬢——ミレーヌ・セラフィス嬢が、露草色の大きな瞳を潤ませながら殿下の腕にしがみついていた。


「私、エドワード様をお慕いしていたのに……リリアーナ様が怖くて、ずっと言い出せなかったんです」


 ミレーヌ嬢の声は、か細く震えている。まるで小鳥のように。まるで被害者のように。


(この方、先月の茶会で『伯爵令嬢なのにあの地味さ、きっとご実家が傾いてるのね』って笑ってたわよね。声、全然震えてなかったけど)


 私は心の中で冷静にツッコミを入れながら、表面上は完璧な令嬢の仮面を保った。


「殿下。ご決断、承知いたしました」


 私の穏やかな返答に、広間がざわめく。泣き叫ぶでもなく、取り乱すでもない。予想外の反応だったのだろう。


 エドワード殿下もまた、わずかに眉をひそめた。


「……それだけか?」


「はい。殿下のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」


 深々と頭を下げる。淡い亜麻色の編み込みが、肩から滑り落ちた。


(三年間、毎月あなたの足の爪を整えてきた私への感謝はないのね。あの親指の巻き爪、私がどれだけ苦労して矯正したと思ってるの)


 顔を上げた私の視界に、殿下の足元が映る。


 夜会用の煌びやかな靴。その中に隠された爪には、私が施した『彩爪魔法』が今もなお輝いているはずだ。幸運を呼び、足取りを軽くし、あらゆる場面で殿下を支えてきた——私の、魔法が。


「ふん。やはり君は退屈な女だ」


 殿下は吐き捨てるように言った。


「三年も婚約者だったというのに、何の感慨もない。ミレーヌを見ろ。この子は私のために涙を流してくれる。君にはそれすらできないのだな」


(感慨ならありますよ。『やっと終わった』という安堵が)


「……申し訳ございません」


 私は再び頭を下げた。これが最後だ。この人に頭を下げるのは、これが最後。


「リリアーナ」


 不意に、父の声が聞こえた。振り返ると、グレイシア伯爵——私の父が、蒼白な顔でこちらに歩いてくるところだった。


「殿下、これは一体……」


「伯爵。貴殿の娘との婚約は本日をもって解消する。異論はないな?」


 父の顔が歪む。貴族社会において、王族からの一方的な婚約破棄は家の恥。それを公衆の面前で、しかも理由も告げずに——。


「殿下、せめて理由をお聞かせ願えませんか」


「理由?」


 エドワード殿下は、心底つまらなそうに肩をすくめた。


「退屈だからだ。リリアーナは義務でしかなかった。毎月の訪問も、茶会での会話も、全てが色褪せた義務。ミレーヌのような華やかさが、君の娘には決定的に欠けている」


(毎月の訪問で何をしていたか、本当に覚えていないのね。あなたの足の爪を、二時間かけて整えていたのよ)


 私は静かに唇を噛んだ。怒りではない。呆れだ。


 この三年間、私はずっと『彩爪師』としての技術を封印してきた。王子の婚約者が足の爪を弄るなど、はしたないと父に言われたから。だから私は、殿下にだけ、密かに施術を続けてきた。


 それが『幸運の王子』と呼ばれる彼の足元を支えていたことなど、誰も知らない。殿下本人さえも。


「エドワード様、もうよろしいでしょう?」


 ミレーヌ嬢が甘えるように殿下の腕を引いた。


「あの方を見ていると、気分が悪くなってしまいます」


「ああ、そうだな。行こう、ミレーヌ」


 二人は腕を組み、広間の奥へと消えていく。その背中を見送りながら、私はそっと息を吐いた。


(さようなら、殿下。あなたの幸運も、今夜で終わりよ)


 彩爪魔法の効果は、施術者の意思によって維持される。つまり——私が手を引けば、全ては消える。


 殿下の足元を彩っていた幸運の色が、今この瞬間から褪せ始めていることを、まだ誰も知らない。



◇ ◇ ◇



 実家に戻った私を待っていたのは、父の深い溜息だった。


「リリアーナ……すまなかった」


「いいえ、お父様。私は大丈夫です」


 私は穏やかに微笑んだ。それは嘘ではなかった。むしろ、三年ぶりに深く息ができる気がしていた。


「お前の才能を封じさせたのは私だ。王族の婚約者にはふさわしくないと……」


「お父様」


 私は父の言葉を遮った。


「私、これからは自分のために生きたいと思います」


 父が目を見開く。


「私の『彩爪魔法』は、誰かに選ばれるためのものではありません。私が、誰かを選ぶためのものです」


 ——前世の記憶が蘇ったのは、八歳の時だった。高熱で生死を彷徨った夜、私は『ネイリスト』という職業の全てを思い出した。技術も、知識も、そして何より『自分の手で生きていく』という誇りも。


 王子の婚約者という檻から、ようやく解放された。


「お父様。私、サロンを開きたいのです」


「サロン……?」


「ええ。『彩爪師』として。もう隠す必要はないのですから」


 父は暫く黙っていた。やがて、その目に涙が滲んだ。


「……私は、娘の翼を折っていたのだな」


「いいえ。お父様は私を守ろうとしてくださった。それは分かっています」


 私は父の手を取った。


「でも、もう大丈夫です。私は自分の足で立ちます。自分の色で、生きていきます」


 窓の外では、月が煌々と輝いていた。


 ——同じ頃、王宮では異変が起き始めていた。エドワード殿下の足元から、淡い光が消えていくのを、まだ誰も気づいていなかった。



第二章 色褪せる社交界



 婚約破棄から三日後、社交界に奇妙な噂が流れ始めた。


『エドワード殿下が、舞踏会で躓いた』


 たったそれだけのこと。されど王族にとって、公の場での醜態は致命的だ。


「ねえ、聞いた? 殿下のダンスのステップが乱れたらしいわ」


「あの完璧な殿下が? 信じられない」


「それだけじゃないの。ミレーヌ嬢の爪が、なんだか黒ずんできているって……」


 私はニコラが淹れてくれた紅茶を啜りながら、侍女たちの噂話に耳を傾けていた。


(始まったわね)


「お嬢様。あまり楽しそうな顔をなさらない方がよろしいかと」


 銀灰色の髪をした侍女——ニコラ・ブランが、無表情のまま私を窘めた。


「あら、私、笑っていたかしら」


「口元が、ほんの少し」


「……気をつけるわ」


 私は咳払いをして、表情を整えた。


 ニコラは幼い頃から私に仕えてくれている、誰よりも信頼できる侍女だ。私の彩爪魔法の価値も、婚約時代の苦労も、全て知っている。


「それにしても」


 ニコラは窓の外に視線を向けた。


「因果応報とは、かくも早く訪れるものなのですね」


「ニコラ、それは」


「お嬢様。私は三年間、ずっと見ておりました」


 琥珀色の瞳が、静かに私を見据える。


「殿下がお嬢様の施術を当然のように受け、感謝の一つもなく、挙句の果てに『地味で退屈』と——」


「ニコラ」


「申し訳ございません。少々、感情的になりました」


 ニコラは深々と頭を下げた。しかし、その声には隠しきれない怒りが滲んでいた。


(この子も、ずっと我慢してくれていたのね)


「ありがとう、ニコラ。でも、もう終わったことよ」


「はい。そして、お嬢様の新しい始まりでもあります」


 ニコラは静かに微笑んだ。珍しいことだ。


「サロンの準備、順調に進んでおります。来週には内装が完成するかと」


「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に心強いわ」



◇ ◇ ◇



 一方、王宮では——。


「どういうことだ!」


 エドワードの怒声が、執務室に響き渡った。


「私の足の爪が、割れた!? こんなことは今まで一度もなかった!」


 侍従たちは怯えた顔で顔を見合わせる。誰も、王子の怒りを鎮める術を知らなかった。


「ミレーヌの爪も酷い有様だ。医師を呼んでも原因が分からんと言う。一体何が起きている!」


 その時、執務室の扉が重々しく開いた。


「エドワード」


 現れたのは、国王ヴィクトル陛下だった。


「父上……」


「話は聞いている。舞踏会で躓いたそうだな」


「あれは、たまたま——」


「たまたま?」


 国王の声が、室内の温度を下げた。


「お前は三年間、一度たりとも公の場で躓いたことがなかった。『幸運の王子』と呼ばれていたのは何故だと思う」


「それは、私の努力と才能によるもので——」


「違う」


 国王は冷たく言い放った。


「グレイシア伯爵令嬢だ」


 エドワードの顔が、怪訝に歪む。


「……リリアーナ? あの地味な女がどうしたと」


「彼女は『彩爪師』だ。王国唯一の」


「彩爪……?」


「知らんのか。足の爪に魔法を施し、持ち主に幸運をもたらす技術だ。お前の『完璧な足元』は、全て彼女の手によるものだった」


 エドワードの顔から、血の気が引いていく。


「そんな……馬鹿な……」


「彼女が毎月お前の元を訪れていたのは何のためだと思っていた。茶を飲むためか?」


「私は……知らなかった……」


「知ろうともしなかったの間違いだろう」


 国王は深い溜息をついた。


「たかが足の爪と侮ったお前の愚かさが、国の宝を流出させたのだ」


「流出……?」


「隣国ヴェルディアが、彼女に接触しているとの報告がある」


 エドワードの顔が、さらに蒼白になった。



◇ ◇ ◇



 同じ頃、ミレーヌ・セラフィスは自室で鏡を見つめていた。


「いや……嘘よ……」


 彼女の足の爪は、無残に黒ずみ、一部は醜く割れていた。


 以前、リリアーナが茶会のついでに『お揃いにしましょう』と施してくれた彩爪魔法。あの時は『地味な女に施されるなんて』と内心で嘲笑っていたのに——。


「どうして……私の爪だけこんな……」


 次の舞踏会まで、あと三日。このままでは、あの煌びやかなドレスに合う靴が履けない。


「あの女のせいだわ……!」


 ミレーヌは爪を見つめながら、憎悪に顔を歪めた。


「きっと呪いよ。あの地味な女、婚約破棄を恨んで私たちに呪いをかけたんだわ!」


 ——彼女はまだ知らない。その『呪い』という言葉が、やがて自分自身に返ってくることを。



第三章 跪く王太子



 サロンの内装が完成した日、予期せぬ来客があった。


「お嬢様。お客様です」


 ニコラの声には、珍しく緊張が滲んでいた。


「どなた?」


「……ヴェルディア王国の、アレクシス殿下です」


 私は思わず紅茶のカップを取り落としそうになった。


(え、隣国の王太子? なぜ?)


「正装もせずに、お一人でいらしています。どうやら、極秘のご訪問のようで」


 私は慌てて身なりを整え、応接室へと向かった。


 扉を開けた瞬間、深い翠緑の瞳と目が合った。


 漆黒の髪、端正な顔立ち、そして——穏やかでありながら、どこか鋭い眼光。


 三年前の国際舞踏会で、一度だけお会いしたことがある。あの時、私は彼の足に彩爪魔法を施した。外交上の礼儀として、ごく簡素なものを。


「お久しぶりです、リリアーナ嬢」


 アレクシス殿下は、静かに微笑んだ。


「三年前のこと、覚えていらっしゃいますか」


「はい。国際舞踏会で、僭越ながら殿下の足元を……」


「あの日から、私はずっとあなたを探していた」


 私は言葉を失った。


「……え?」


「あの時の施術は、外交儀礼の域を超えていた。あなたの指先から伝わる魔力、色彩の選び方、全てが——芸術だった」


 殿下は一歩、私に近づいた。


「しかし、あなたはアストリア王国の王子の婚約者だった。私には手を出せなかった」


「殿下……」


「婚約破棄の報を聞いた時、不謹慎ながら私は喜んだ。ようやく、あなたを迎えに行けると」


 殿下の翠緑の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


 そして——。


「どうか私の足元を、あなたの色で染めてほしい」


 殿下は、私の前に跪いた。


 隣国の王太子が。次期国王が。私の目の前で、膝を折り、頭を垂れている。


「っ……殿下、おやめください!」


 私は慌てて殿下の腕を取った。しかし、殿下は動かない。


「私は本気だ、リリアーナ嬢」


 顔を上げた殿下の瞳には、冗談の色など欠片もなかった。


「あなたの技術は、王国の宝になり得る。私の国で、あなたの価値を正当に評価させてほしい」


「で、ですが、私はただの伯爵令嬢で……」


「ただの?」


 殿下は静かに笑った。


「リリアーナ嬢。あなたは三年間、自分を『地味だ』『価値がない』と言われ続けてきた。違うか」


 図星だった。


「しかし、私の目には違うものが見えている」


 殿下はゆっくりと立ち上がり、私の手を取った。


「あなたは真珠のような人だ。派手さはなくとも、見る者が見れば、その輝きは何物にも代えがたい」


 心臓が、痛いほど跳ねた。


(この人は……本気で言っている)


 エドワード殿下とは違う。この方の目には、私が見えている。本当の私が。


「……殿下」


「アレクシスと呼んでくれ。少なくとも、二人きりの時は」


「そのようなこと……」


「では、こうしよう」


 アレクシス殿下は——いえ、アレクシス様は、悪戯っぽく微笑んだ。


「私の足を見てくれ。三年前の君の魔法は、今も微かに残っている。しかし、そろそろ限界だ」


 言われて、私は殿下の足元に目を落とした。


 確かに、微かな光が残っている。三年も前の施術が、まだ効果を保っているなんて——。


(この方、よほど大切にしてくださったのね)


「施術を受けるには、君に選ばれなければならない。そうだろう?」


「はい……」


「では、私は君に選ばれたい。対等な立場で、君の技術を乞いたい」


 対等。


 その言葉が、私の胸に深く沁みた。


 エドワード殿下は、私を『義務』だと言った。私の技術を『当然の権利』として享受した。


 けれど、この方は——。


「……分かりました」


 私は静かに頷いた。


「施術させていただきます。ただし、条件があります」


「何なりと」


「報酬は、正当な対価でお願いいたします。私は『与えられる』のではなく、『稼ぎたい』のです」


 アレクシス様は、満足げに微笑んだ。


「それでこそ、私が惚れた女だ」



◇ ◇ ◇



 施術室で、私はアレクシス様の足を手に取った。


 三年ぶりに、自分のために振るう彩爪魔法。指先に集中した魔力が、淡い光を放つ。


「……綺麗だ」


 アレクシス様が、静かに呟いた。


「君の指先から生まれる光は、見ていて飽きない」


「ありがとうございます。でも、まだ途中ですので」


「ああ、すまない。邪魔をしたな」


 私は微笑みながら、作業を続けた。


(不思議。この方の前だと、緊張しない)


 エドワード殿下の施術をする時は、いつも胃が痛かった。失敗は許されない、感謝されることもない、ただひたすら完璧を求められる——そんな息苦しさがあった。


 けれど、今は違う。


 私は初めて、『選ばれる』のではなく『選ぶ』喜びを知った。


「完成です」


 私は顔を上げた。


 アレクシス様の爪には、深い翠緑——彼の瞳と同じ色の光が宿っていた。


「素晴らしい」


 アレクシス様は、心底嬉しそうに微笑んだ。


「君という宝石を手放したアストリアの王子は、きっと後悔するだろう」


「……もう、後悔しても遅いですけれど」


「ああ。もう遅い」


 アレクシス様の翠緑の瞳が、優しく細められた。


「君は今日から、私が守る」



第四章 爪先に宿る真実



 それから一月が経った。


 私の小さなサロン『ラ・ペルル・グリーズ』は、社交界の話題を独占していた。


「あの彩爪師、リリアーナ様のサロンに行った?」


「ええ! 予約が三ヶ月待ちですって」


「隣国の王太子殿下も通っているらしいわ」


 噂は瞬く間に広がった。そして——。


「リリアーナ」


 サロンの前に、見覚えのある金髪が立っていた。


 エドワード殿下だった。


 しかし、その姿は以前とは別人のようだった。顔色は優れず、目の下には隈が刻まれ、何より——その足取りは、かつての優雅さを完全に失っていた。


「……リリアーナ、話がある」


「殿下。アポイントメントはお取りになられましたか?」


 私は穏やかに、しかし事務的に尋ねた。


「アポイント……? 私は王子だぞ!」


「はい。ですので、特別に本日の最終枠をご用意いたします。一時間後にいらしてください」


「な……!」


 エドワード殿下の顔が、怒りで紅潮した。しかし、周囲には他の貴族令嬢たちの視線がある。ここで醜態を晒すわけにはいかないのだろう。殿下は歯を食いしばりながら、踵を返した。



◇ ◇ ◇



 一時間後、殿下は約束通り現れた。


 施術室に二人きりになった途端、殿下の態度が豹変した。


「リリアーナ、戻ってきてくれ」


 私は静かにお茶を淹れながら、殿下の言葉を聞いていた。


「君がいなくなってから、全てがうまくいかない。舞踏会では躓く、商談は失敗する、ミレーヌとも喧嘩ばかりだ」


「それは大変でしたね」


「私が間違っていた。君の価値を、私は見誤っていた」


 殿下は私の手を取った。


「もう一度、やり直させてくれ。君を正妃として迎える。今度こそ、君を大切にする」


 私は殿下の手をそっと外した。


「殿下」


「何だ」


「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「……何でも答える」


「殿下は、私の何を大切にしてくださるのですか?」


 殿下は一瞬、言葉に詰まった。


「それは……君の技術を……」


「技術、ですか」


 私は静かに微笑んだ。


「つまり殿下が欲しいのは、私ではなく、私の彩爪魔法なのですね」


「違う! そういう意味では——」


「では、三年前の私には、何がありましたか?」


 殿下の顔が、凍りついた。


「私が婚約者だった三年間、殿下は私に何を見ていらっしゃいましたか? 私の好きな花は? 好きな本は? 得意な料理は?」


「それは……その……」


「私の誕生日は、いつですか?」


 沈黙が、部屋を支配した。


 エドワード殿下は、何も答えられなかった。


「殿下」


 私は立ち上がった。


「私の色はもう、あなたのものではありません」


「リリアーナ——」


「三年間、私は殿下のために生きてきました。殿下の足元を彩り、殿下の幸運を支え、殿下に選ばれるために自分を殺してきました」


 私は窓辺に歩み寄った。窓の外には、一台の馬車が停まっていた。漆黒の車体に、ヴェルディア王国の紋章。


「でも、もう私は『選ばれる人生』を卒業しました」


「待て、リリアーナ!」


「さようなら、殿下」


 私は振り返り、最後に微笑んだ。


「どうかお幸せに。ミレーヌ様と」


 その言葉を最後に、私は施術室を後にした。



◇ ◇ ◇



 馬車の中で、アレクシス様が私を待っていた。


「終わったか?」


「はい」


「泣いていないか?」


「いいえ。泣く理由がありません」


 私は窓の外を見つめた。


 サロンの前で呆然と立ち尽くす殿下の姿が見えた。しかし、それはもう、私には関係のない景色だった。


「リリアーナ」


 アレクシス様が、私の手を取った。


「ヴェルディアに来てくれ。私の国で、君の新しいサロンを開こう」


「……いいのですか?」


「ああ。ただし、条件がある」


「条件?」


「私の足元は、一生君に任せる。それが、私の独占欲を許してくれる唯一の条件だ」


 私は思わず笑ってしまった。


「なんて欲張りな方」


「君に惚れた男の特権だ」


 馬車が走り出す。


 窓の外に流れていくアストリア王国の景色を眺めながら、私は深く息を吸い込んだ。


 新しい風の匂いがした。


 ——かつて『地味だ』と蔑まれた少女は、今、自分の足で新しい道を歩き始めていた。


 その足元を彩るのは、自分自身が選んだ色。


 そして隣には、私の価値を最初から見抜いていた人がいる。


「アレクシス様」


「何だ?」


「私を見つけてくださって、ありがとうございます」


 アレクシス様は優しく微笑んだ。


「こちらこそ。私の人生を、彩ってくれてありがとう」



◇ ◇ ◇



 ——後日談として、一つだけ付け加えておく。


 ミレーヌ・セラフィス嬢は、『リリアーナに呪われた』と触れ回った挙句、その言葉が自分に返ってきた。彼女こそが『王子に取り憑いた厄病神』として社交界から追放され、実家の男爵家も没落したという。


 エドワード殿下は、『足元から幸運が消えた王子』として密かに嘲笑され、やがて王位継承権を弟に譲ることとなった。


 一方、私は——。


「リリアーナ王太子妃殿下! 本日も施術をお願いできますか!」


「はいはい、順番に並んでくださいね」


 ヴェルディア王国の宮廷で、『幸運の彩爪師』として、私は今日も忙しい日々を送っている。


 ——これは、『選ばれる人生』を捨て、『選ぶ人生』を掴んだ、一人の地味な令嬢の物語。


 私の指先から生まれる色は、今日も誰かの足元を、鮮やかに彩っている。


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