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歩く15億の花嫁~契約婚約から始まるオフィス・シンデレラ~  作者: YOR
第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)

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7/15

第7話:初出勤!その太陽の笑顔の男性は?


午前7時。

私は、ゲスト棟の部屋で、急いでトーストをかじっていた。


昨夜、日高から聞かされた神谷家のルール。


(皆が知ったら驚愕すると思う)


それは、瑛斗は、基本的に平日の食事を、同席しない。私は、ゲスト棟にて一人で食事をするという非情なものだった。まるでビジネスホテルに宿泊しているような、三食隔離された生活。広すぎるダイニングテーブルで、誰とも顔を合わせずにトーストとコーヒーを流し込んだ。


静寂だけが響く空間で、無意識に、父が焼いてくれた、焦げ付きが少し残ったパンの香りを思い出した。


(父の作る朝食が恋しい)


誰にも邪魔されない食卓は、温かい会話のないまま、ただ空虚に過ぎていく。


この目の前の現実から意識を逸らそうと、無言でスマホの画面をタップした。


幼馴染の健太に「ケーキバイキングに行けない」と、ドタキャンメッセージを送ってから、怖くて一度もスマホの通知を確認していない。


私は、気持ちを切り替えるようにグループチャットを読み直し、「今日からスターライト企画に出勤」とメッセージを送信した。


昨夜の友人たちの明るい絵文字と、現実を知らない能天気な励ましの言葉。私はそれを読み返すことで、自分の置かれている環境の恐ろしさから、無理やり気を逸らそうとした。その一連の行動は、自分自身を鼓舞するための儀式のようなものだった。


部屋のドアをノックする音が聞こえた。


慌てて、私はスマホを掴み、「ごめん。お迎え来た。行ってくる。」とメッセージを送り、グループチャットを閉じた。三人から「次の報告を待つ」とメッセージが送られていた。スマホを掴み、軽く深呼吸した。


「今、着替えます。少しお待ちください。」と、奈月は声を張った。


私の体にぴったりと馴染む、光沢のあるネイビーのスーツ。もちろん、実家からは何も持参していない。下着からカバン、靴に至るまで、全てが最高級のブランド品で揃えられている。


私は、その見慣れない自分の姿を鏡で確認し、意を決して扉を開けた。


扉の外には、静かに佇む日高と、その背後にいる桐谷の姿。


「おはようございます、奈月様。さあ、時間でございます。」


日高に促され、私は玄関へと向かう。


玄関を出ると、目の前には磨き上げられた黒塗りの車が停まっていた。運転席側の後部座席のドアは既に開けられており、黒い制服に身を包んだ運転手が、その扉の横に立っていた。その視線は私に向かっていないものの、背筋は真っ直ぐに伸びている。左手を肋骨のあたりに軽く添え、右手は開いたドアの端に、まるで芸術品のように静かに添えられている。


その完璧に計算された立ち姿は、「どうぞ、お乗りください」という無言のメッセージを、最大限の敬意をもって伝えていた。


私は、そのプロの所作に一瞬気圧されながらも、車内に滑り込んだ。


黒塗りの車が静かに走り出す。

車内は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。高級レザーのシートは深く沈み込み、乗り心地はまるで高級ホテルのラウンジのようだった。


窓の外には、朝の街並みが流れていくが、遮音性の高さから、車の外の世界は遠い映画のシーンのように感じられた。助手席には、黒いスーツに身を包んだ桐谷が座り、隣には、タブレットを開いた日高がいた。


「奈月様、本日の予定をご説明いたします。」と、日高は言いながらタブレットの画面を操作していた。


「まず社長室で瑛斗様のお父上にご挨拶。その後は副社長である瑛斗様の補佐業務に入っていただきます。」


「お父様に挨拶ですね。分かりました。」


「それより、毎日こんな送迎って、庶民にはありえない。」


助手席の桐谷は前を向いたまま、低い声で答える。

「……仕事ですから。」


その言葉は冷たく聞こえるはずなのに、私は笑ってしまった。

「桐谷さんって、真面目すぎる。私の高校時代からの友人に桐谷さんに似た子がいるのだけど、優等生で、堅実で、常識的で。でね、物凄く努力家。ちょっと羨ましいと思う。私にない物を持っている友人が私の周りに集まる。そう!あなたと私は同類項。類は類を呼ぶ?違うか。アハハ」


「あなたと私は同類項、ですか。」と、桐谷は一瞬だけ視線を横に動かし、私の言葉を静かに繰り返した。


私は笑いをこらえるように、自分の太ももをつねって笑わないようにした。


「……そういう生き方ができるのは、強い人です。」と、桐谷は再び視線を正面に向けた。


日高が苦笑しながら、「桐谷は不器用ですが、頼れる方ですのでご安心ください。」と、口を挟んだ。


(なんだろう。この会話。硬いようで面白い)


私はシートに深く身を沈めた。

硬いルールと、そのルールを運用する日高や桐谷の人間的な一面。この世界は、冷たい契約書だけで成り立っているわけではない。もしかしたら、この巨大な富と権力の裏側にも、私と同じような抜け道や自由を求めている人がいるのかもしれない。


その可能性が、私の心をわずかに温めた。


やがて車は巨大なガラス張りのビルの前に入って行く。

スターライト企画と刻まれた文字が、朝日に反射して眩しく輝いていた。


「ここ、高校時代の友達とよく来てた。カフェが入っていて、安いランチ目当てだけど。」


桐谷は前を向いたまま、低い声で答える。

「……勤務で来るのとは、だいぶ違いますね。」

「そうだね。まさか自分がここで働くことになるなんて、夢にも思わなかった。桐谷さんはどうなの?よくランチとかモーニングに行く?」


桐谷は一瞬だけ頭を横に動かし、「……行ったことは、あります。任務で。」と、ぼそりと呟いた。


「任務でしか来ないって、ちょっと寂しくない?あ、こうしよう!今度の休みの日は、私と一緒に行こう。日高さん、いいよね?土日祝は勤務外ですもんね。」


桐谷は黙ったまま、わずかに肩をすくめ日高を気にしているようだった。日高は一瞬顔を引きつらせた。すぐにほんの少しだけ笑顔を見せ、いつものきりっとした表情へ戻った。


「土日祝は勤務ではございません。ですが、奈月様、公私の区別ははっきりつけていただく必要がございます。まずは、ご挨拶を済ませましょう。」


「瑛斗にOKもらえばいいってことですもんね!」


「その通りにございます。まずは、ご挨拶を。」


この日高は、「ご挨拶を」と、繰り返し強調してくる。


(社長はそんなに怖い人なの?私まで緊張してきた)


会社のホームページに載っている画像くらいしか見たことないけど、そこまで怖い表情でもないし、むしろ物凄くダンディだった。私の父は大違い。


そして、車が完全に停車した。


日高が車の扉を開け、「奈月様、到着致しました。では、参りましょう。」と、一段ときりっとした姿勢に声のトーンも変わっていた。


私の心臓がドクンと大きく鳴った。その音は、まるでこれから始まる勝負のゴングのようだった。目の前の光景は、高校時代にランチ目当てで来ていた場所と同じはずなのに、今、この扉から一歩踏み出せば、もう二度と庶民の日常には戻れない気がした。


私は大きく息を吸い込み、手のひらに人の文字を書いた。

覚悟を決めて車外へ踏み出した。


目の前の巨大なガラス扉が、朝日に反射して眩しく輝いている。

この空間に黄昏れていると、「奈月様、ボーっとしていてはいけませんよ。」と、日高がそっと私の肩に手を置いた。


そして、三人はビルのロビーへ入った。


ロビーの床は大理石で、そこを歩く人々は皆、洗練されたスーツに身を包んでいる。


私は、高校時代にカフェの列に並んでいた時とは全く違う、周囲からの複雑な視線を感じた。

それは好奇心と、わずかな品定めのような視線のようだった。


(これが財閥の本社。場違いにもほどある)


その瞬間、エレベーターホールの方から、洗練されたスーツ姿の青年が歩いてきた。その顔立ちは瑛斗と似た系統だが、表情には柔和な笑みが浮かんでいる。


「日高さん、桐谷さん、お久しぶりです。」

「蓮様!」

日高は、声を上げて驚いた。

「どうなさったのですか。ご帰国は明後日とお聞きしておりましたが。」


青年は、柔らかな笑みを崩さなかった。

「驚かせてしまったようですね。母は明後日到着します。僕だけ先に帰ってきました。会長に挨拶を。」


その青年は私を一瞥したが、すぐに日高に視線を戻した。


日高は一瞬ためらい、「こちらは、本日より副社長室付き特別補佐に就任された、水野奈月様です」と簡潔に紹介した。


「水野さん、初めまして。黒瀬 蓮です。」蓮はそう言って、優雅に頭を下げた。

「長話はできませんが、この後、すぐに自宅で待っている祖母おばあさまに顔を見せに行かなくてはなりませんので、この辺で失礼します。」と、私に視線を向けた。


とろけそうな甘い表情に、私はうっとりしていた。思わず瑛斗の冷徹な顔を思い出した。

「...あ、は、はい。失礼いたします。」


蓮は軽く会釈し、エレベーターホールを優雅に去っていった。


私はと言うと、まだぼんやりと蓮の背中を見ていた。まるで心臓を掴まれたように感じた。


(最近の私は惚れやすくなったのか)


氷の彫刻のような瑛斗と、太陽のような笑顔の蓮。これから戦おうとしていた世界に、突如として現れた笑顔の男性の存在が、私の決意を一瞬で揺らがせた。


すると、日高が、私の目の前で右手を振りながら、「奈月様、ご挨拶しに行きますよ。奈月様、まさか、見惚れていますか。」と言った。


その言葉に、私は我に返った。

「見惚れてなんかいません!瑛斗さんに似ているなと思っただけです。さ、行きましょう、ご挨拶に!」



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