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歩く15億の花嫁~契約婚約から始まるオフィス・シンデレラ~  作者: YOR
第1章:15億3000万の許嫁契約!

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第6話:許婚に夜食を届ける男なの?

ゲスト棟に戻る長い廊下を、私は日高と桐谷に一瞥もくれずに歩いた。

ふたりの視線を受け止める勇気が、もう残っていなかった。


「私は使用人ではない」と言い放った自分の声が、まだ耳の奥で反響している。

何に腹を立てたのか。嫉妬だったのか。あるいは、自由がないと思い込んだ焦燥か。自分でも理由が定まらず、胸の内で感情だけがほどけずに絡まっていく。

そんな混乱を抱えながら、床も、壁に掛けられた絵も目に入らない。足音だけが、逃げるように響く。


部屋に入り、重厚な扉を閉めた瞬間、張り詰めていた何かが切れ、私はベッドに身を投げ出した。


――やらかした、かもしれない。


勢いで席を立ち、瑛斗の返事も待たずに背を向けた。その判断が正しかったのか、今となってはわからない。けれど、あの冷徹な男が、私を引き止めようとした。

そして、いつも無視していたスマホの着信すら、自ら切った。


思い返すほどに、胸の奥でじわりと熱が広がっていく。その一瞬だけでも、瑛斗の表情は揺れていた。


全身に力がみなぎるのを感じながら、私はスマホをベッドに置き、両手足を大の字に広げて天井を仰いだ。


「……これで、この時間から私も自由だ」


小さく漏れた声が、広い部屋に静かに響いた。


スマホを取り出し、友人たちのグループチャットを開く。一人きりのゲスト棟の静かな部屋で、ようやく自由時間を満喫しよう。そう思った矢先だった。


胃のあたりが、すとんと空っぽなのに気づく。


天井を見上げながら、私は思わずため息をついた。あの豪華な料理を前にして飛び出した自分を、いまさらのように後悔していた。


「……あーあ、お腹すいた。お母さん、何かない?」


つい漏れた小さな呟きが、広い部屋に虚しく散っていった。


その直後、控えめなノックが響いた。


「奈月様、日高でございます。失礼いたします。」


扉が開くと、日高の後ろから見慣れない制服のスタッフが、大きな銀のトレイを運び込んできた。トレイには銀のカバーがかけられた皿と、温かいスープが入ったポットが載せられていた。


「あ、あの……?」私は驚いてベッドから身を起こした。


日高は深々と頭を下げた。

「瑛斗様からのご指示にございます。奈月様にお夜食をご用意いたしました。」


「……あの男が?」


私の疑問を読み取ったように、日高は言葉を続けた。

「瑛斗様は、食事が神谷家における業務の根幹であるとお考えです。業務遂行には、適切なエネルギー補給が必要であると。」


そして、続けて日高は言う。

「瑛斗様が他人を気遣うなど異例中の異例ですよ。」


冷徹な彼にしては、随分とまともな対応だった。それとも、私の反撃に対する、新たな支配の始まりか?私は警戒しつつも、腹の虫には勝てなかった。


スタッフが下げた銀のカバーの下には、香ばしいクロワッサンと色鮮やかな野菜のラタトゥイユが並んでいた。作り直してくれているとすぐに分かった。


椅子を引き寄せ、小さく「いただきます」と言って食事を始めた。


食べ始めて数分後、再びノックが響いた。


今度のノックは、先ほどより強く、有無を言わせない重さがあった。日高が扉を開けるより早く、神谷瑛斗が部屋に入ってきた。彼は、ダイニングホールにいた時と変わらない、完璧な黒のスーツ姿だった。


(食べ終えた後に来たってことね)


私は、静かに扉の外に控える日高に目を向けた。日高は、彼の指示には逆らえないでしょうから、目を向けたとしても困惑するだろうけど、止めてほしかった。


慌ててパンを飲み込んだ。


「夕食、ありがとう」


瑛斗は部屋の中央で立ち止まり、冷たい視線を向けた。


「話がある。業務の話だ。」


夕食のお礼を言った後の、会話パターンは、「あぁ、」とか、「夕食を食べていなかったから」とか、「さっきの電話は…」とか、そんな返答と思っていた。だけども、それは違った。私の想像を超えていた。この男は本当に論理と義務だけで動いているのか。それとも、人とのコミュニケーションを測れない人なのか。接し方が分からない。


「……あの。食事中ですので、食べ終えてからでもいいですか?」


瑛斗は部屋の中央で立ち止まり、冷たい視線を私に向け言った。


「君は先ほど、『業務時間内に話せ』と言った。その定時時間内とは、具体的にどのような時間帯を指すのか?」


夕食を終えるまで待つということもできないのか。御曹司というものは、常に自分の論理と都合が世界の中心に据えたがるのだろう。


私は、静かにパンを皿に置いた。


ゆっくり味わいたい。

美味しいものを、美味しいと思いながら食べたい。


ただそれだけの、当たり前の願いすら、この家では叶わないのだろうか。


「それは、誰の、どのようなルールに基づいて定義される業務なのか?」と、瑛斗は待つことなく言った。


私は、食事を一度中断し、椅子に深く腰掛け、両腕を組んだ。


「定時外ですが、どうしても気になるようなので伺いましょう。ただし、食事中です。要点だけにしてください。」


瑛斗は眉一つ動かさなかった。

「結婚生活の業務は、社交界への出席、住居の維持、そして…」


その言葉は、一方的な義務の羅列でしかなかった。このまま受け入れれば、私が提案しようとしている定時のルールは、この場で簡単に握りつぶされる。


絶対に、ここで引くわけにはいかない。


私は、瑛斗の言葉を遮り、テーブルを軽く叩いた。


「神谷瑛斗。お二人の場での口頭の約束は、契約として無効になる可能性があります。」


「今話すべきは、この業務を進行するための、ルールです。そのルールには、双方の公平性が必須よ。」


そう言うと、私は椅子を静かに引き、立ち上がった。扉の前に控えていた日高に視線を向ける。


「日高さん。婚姻契約に基づく業務ルールの協議を、正式に行いたい。契約の証人として立ち会っていただけますか?」


日高は、一瞬瑛斗の表情を窺った。瑛斗は、その場で腕を組み、静かに頷いた。


「好きにしろ。」


日高は恭しく頭を下げ、部屋の隅で静かに立ち会いの姿勢をとった。こうして、この場は単なる口論ではなく、公的な業務の取り決めの場となった。


私は、改めて瑛斗と向き合った。


「では、まず基本的なことから確認します。勤務時間について、日高さんから『9時から18時』と伺いました。この時間帯が、婚姻に基づく業務の定時として公平に適用されますか?」


瑛斗は即答した。


「適用する。スターライト企画の社員としての勤務時間だ。」


(私が持ち出した定時ルールを、彼自身の業務として認めさせた。これで18時以降は私の自由だ。)


「次に、業務内容です。私の役割は『副社長室付き特別補佐』と『許嫁』の二つ。この二つの業務は、定時内でどちらを優先すべきですか?」


瑛斗は数秒沈黙した。


「その二つは、相互に補完する。業務内容の優先順位は、その都度、状況に応じて僕が決定する。」


(やはり支配権は譲らないか。その都度決定、とは曖昧すぎるよね)


「その決定権について、異論はありません。その決定が、契約に基づく社員としての義務と許嫁としての義務の範囲を超えて、私的な領域にまで及ぶことはありませんよね?」


瑛斗の視線が一層冷たくなった。


「私的な領域とは?」


「例えば、佐伯涼子さんとのプライベートな面談に、私が同席する必要はありませんよね。

それはもう、業務というより……個人の趣味の領域でしょうし。」


その瞬間、瑛斗の眉が微かに動いた。

けれど返事はなかった。返す代わりに、空気だけがひどく冷える。


やがて、低い声が落ちてきた。


「……君は、僕の私生活にまで口を出すつもりか?」


真正面から刺し返すような声音だった。


(ああ、これはまだ交渉なんか終わってない。むしろ今からが本番だ)


すると、2人の会話を冷静に聞いていた、日高が居ても立っても居られなかったのか、仲裁するかのように、手元のタブレットを確認し、淡々と読み上げ始めた。


「では、本日の協議内容を四点、合意事項としてまとめます。」


「1.勤務時間は9時から18時。婚姻契約に基づく業務の定時とする。」


「2.18時以降の奈月様の行動は自由とし、外出も妨げない。」


「3.ただし外出の際は、帰宅予定時刻と同行者を私にご連絡いただく。」


「4.奈月様の借金返済契約は現状維持とし、神谷家が保証を続ける。」


「以上四点、両名の異議はありますか?」


私は深く息を吸い、

「ありません」と答えた。


瑛斗も静かに頷く。

「ない。……今のところは。」


その言い方が気になったけど、今日のところは勝ちでいい。


私の自由は守られた。


そして瑛斗もまた、

何かしらの安心を手にしたような顔をしていた。


――けれど。


彼が部屋を出る間際、ふと言った。


「外出は構わない。ただ……帰る家を間違えるな。」


その声音だけが、妙に胸に残った。


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