第18話:本当は違う(神谷瑛斗視点)
ずっと君たちに話そうか迷っていた。俺の心のうちは、誰にも――もちろん奈月にも、墓場まで持っていくべき秘密だと思っていた。だが、今日という日は、そうも言っていられない。言葉にして吐き出さないと、俺自身が壊れてしまいそうだ。
それは、俺の視界に入った瞬間、脳裏が真っ赤に染まった。鉄格子にしがみつき、薄汚れた男と抱き合う奈月の姿。その男が、俺には一度も見せたことのない、無防備で湿った涙を奈月の頬から拭っている。
あの高潔な横顔を、俺は何年も遠くから守ってきたつもりだった。感情を殺し、冷徹に徹することだけが唯一の守り方だと思っていた。初めて奈月を見たのは、高校の昇降口だった。雨に濡れた後輩を庇い、自分の制服が濡れるのも構わず、泥のついた靴を拭いてやっていた少女。誰にも屈せず、自分のルールで正論を叩きつけるあの凛とした強さ。
祖父が残した遺言のお陰で、ようやく手に入れたはずだった。
どこの馬の骨とも知れない男が、その安っぽい指先で奈月を汚している。無意識に拳を握りしめていた。爪が掌に食い込み、鋭い痛みが走る。
『不法侵入者だ。排除しろ』
自分の声が、自分のものではないように冷たく響いた。抵抗する男の声など耳に入らない。ただ、俺の腕の中で絶望に目を見開いている奈月だけが、今の俺の現実だ。
そして、俺は震える奈月の体を腕の力で強引に引き寄せた。本当は、抱き上げたかった。だが、今の俺にそこまでの慈悲はない。その細い手首を掴み、引きずるようにして夜の庭を大股で歩いた。
そして、本館にある俺の部屋へと連れ込んだ。ソファに奈月を投げ出す。クッションに顔を伏せた彼女のうなじから、ふわりと、この家には相応しくない匂いが漂った。
安物の、シトラスの香水。ドラッグストアの片隅に置かれているような、ありふれた日常の匂い。あの男の腕の中でついた、拒絶したくなるほど幸せな残り香。
俺は奈月を着飾らせるために、洋服から靴、バッグに至るまで、最高級の品ですべてを揃えて彼女を迎えた。それが俺の女である証だと知らしめるために。だが、どれほど高価な香水、身の回りの物を与えても、奈月の心はこの安い匂いの方を求めている。
遺言という鎖は、奈月の体を縛りつけることはできても、あの男のために流される涙を止めることはできないのか。
掌に残る、彼女の細い手首の感触。いくら力で押さえつけても、俺の指の間から彼女の心だけが砂のようにこぼれ落ちていく。その事実に、俺は吐き気を催すほどの苛立ちを覚えていた。
震える彼女の肩に手を置く。守りたかったはずだ。この醜い神谷家の権力争いから、彼女の輝きを遠ざけておきたかった。冷徹に徹することだけが、唯一の守り方だと思っていた。なのに、今俺がしていることは、奈月の自由を奪い、その輝きを押し潰す振る舞いそのものだった。
(俺は、最低な男だ)
そんなことを思っていたのに、口は勝手に言葉を吐く。
「お前は、俺の所有物だ」
嘘だ。そんなことが言いたいわけじゃない。『俺を見てくれ。お前の隣を歩かせてくれ』と、喉元まで出かかった情けない本音を、冷徹な仮面で押し殺している。
震える手でタオルを差し出した。濡れた髪のままでは風邪をひく。せめてそれくらいの、一方的な慈悲しか今の俺には許されない。ソファの隣に腰を下ろすと、奈月がぽつりと呟いた。
「……ただのモノ?」
その掠れた声が、俺の心臓をナイフでえぐる。
(違う、奈月。お前は俺にとっての唯一の)
だが、俺は何も言わずに目を逸らした。奈月が居ると、無意識に「俺」に変わっていた。剥き出しになった独占欲。彼女の目に宿る怯えと、俺への不信感。幼少期に直していたはずの俺という一人称が、制御不能になっている。
(……お前が俺を、狂わせている)
奈月をゲスト棟へ帰すつもりだった。だが、今の彼女を一人にすれば、またあの男の元へ駆け出してしまうのではないかという恐怖。そして、もう一つのゲスト棟には蓮が住んでいる。奈月が蓮の部屋に向かうのではないかという不安が、俺を支配していた。
「ここで寝ろ。……俺はソファを使う」
自分のベッドを指し示し、無理やりタオルを押し付ける。
奈月が、俺の枕に頭を沈め、俺のシーツにその身を横たえる。その背中を、俺は数メートル離れたソファから、穴が開くほど見つめていた。本来なら、夫婦としてその隣に横たわるのは、俺の権利であるはずだ。彼女の髪から立ち上る、俺が知らない男の残り香を、今すぐこの手で、俺の色に塗り替えてしまいたい。だが、今の俺には、彼女が眠りにつくかすかな吐息を、暗闇の中で盗み聞くことしか許されない。
――滑稽だな。手に入れたのは冷え切った背中だけか。
この本館には、俺の地位を虎視眈々と狙う親族たちの目が光っている。ヒステリックに俺の完璧さを求める母。家柄しか見ていない祖母。彼らに奈月を見せるのは、まだ先にするつもりだったが、遅かれ早かれこの時は訪れる。
祖母も母も、遺言の存在は知っている。だが、それがどこの誰なのかまでは知らせていない。『時期が来るまで、その娘の素性は隠しておけ。それが彼女を守ることにもなる』祖父と父が俺にそう提案したのは、神谷という家がどれほど強欲な場所かを知り尽くしているからだ。
明日の朝になれば、母がこの部屋に挨拶と称して踏み込んでくるだろう。
(奈月には申し訳ないが)
この家の本当の恐ろしさを知る日は、俺が思っていたよりずっと早く来てしまうのかもしれない。だが、それでもいい。たとえそれが、彼女の自由を永遠に奪うことになっても。
そんなことを思いながら、俺は自嘲気味に目を閉じ、ソファに深く身を沈めた。




