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15億の花嫁・愛憎劇  作者: YOR
第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)

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第16話:崩れる日常


瑛斗は私の手を強く、跡が残るくらいの強さで握り、引きずるようにして本館の自室へと連れ込んだ。重厚なドアが閉められたかと思うと、私はそのまま、部屋の中央にある大きな革張りのソファへと乱暴に投げ込まれた。


勢い余って、私はソファのクッションに顔を突っ伏すような形で倒れ込んだ。濡れたままの髪が顔に張り付き、乱れた衣服の隙間から冷たい空気が肌を撫でる。投げ出された脚は力が入らず、ひどく無防備な格好のまま、私は荒い息を吐きながら身をすくませた。


私は、瑛斗がここまで怒っている意味が分からなかった。――いいえ、本当は分かっている。勝手に外へ出たことが、明白な契約違反であることくらい。


けれど、心のどこかで期待していた。もし見つかったとしても、「寂しかったのだな」とか「まだこの生活に慣れないからだな」とか……。そんな風に、少しだけ寄り添う言葉をかけてくれるのではないかと、身勝手な幻想を抱いていた。


現実は、そんな甘いものではなかった。振り返らなくても分かる。背中に突き刺さる瑛斗の視線は、獲物を値踏みする冷徹な支配者のそれだ。


顔を上げることさえ怖くて、ただソファの柔らかな感触に逃げ込むことしかできない。怒鳴るとか、抗議をしたいわけでもない。ただ、純粋な疑問が、涙としてこぼれ落ちた。


「遺言だ」


その言葉を聞いた瞬間、私の思考は数日前のダイニングホールへと引き戻された。


あの時、彼はワイングラスを手に、事務的な手続きの一環であるかのように同じ言葉を口にした。私だって、それを押し付けられた迷惑な任務だと、心のどこかで割り切っていたはずだった。けれど、今の遺言という響きは、あの時とは全く違う。


瑛斗がゆっくりとソファの縁に手をかけ、私を閉じ込めるように身を乗り出してくる。革の軋む音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。


私の乱れた髪に指を差し入れ、震える首筋にわざとらしく触れた。その指先は驚くほど熱く、けれど触れられる箇所から氷のように心が冷えていく。声にならない悲鳴が喉の奥でつかえる。


瑛斗は、私の耳元のすぐ近くで、低い鼻息を漏らした。


「……安い匂いだ」


健太と抱き合っていた時についた、安物の香水の匂いだろう。ドラッグストアの片隅に並んでいるような、ありふれたシトラスの香り。瑛斗が身にまとっている、ため息が出るほど高価で複雑な香水の香りと比べれば、確かにそれは安いのかもしれない。


けれど、私にとっては違う。それは背伸びをしない、温かな日常の匂い。それを安いという一言で切り捨てられた瞬間、私の心の一番柔らかい部分を泥靴で踏み荒らされたような、言いようのない不快感がこみ上げた。


瑛斗の指先に力がこもる。髪が強く引っ張られ、私の顔は強制的に彼の方へと向けられた。至近距離で見つめ合う、漆黒の瞳。そこにあるのは、嫉妬を通り越した独占欲という名の暴力的な目だった。


そして、もう一方の手で私の顎を強く固定すると、逃げ場を完全に塞いだ。


私の理想としていた恋愛なら、ここで優しく名前を呼ばれ、愛を囁かれるはずだった。今、私の肌に触れているのは、心さえも屈服させようとする男の、乾いた殺気だけだ。


(……この男とは、結婚できない)


契約を結んでから、たった数日。それだけの時間で、はっきりと理解してしまった。寄り添い、支え合うこともできない相手と一生を共にするなんて、今の私には想像すらできない。


同じ神谷の名を持つ人でも、蓮さんはあんなに優しく私を気遣ってくれたのに。案外、最初に出会った時の印象が良い人ほど、後から色々あるとも言うけれど……出会った瞬間からここまで私を絶望させる瑛斗に、これから先、少しでも良い方向へ向かう兆しなんてあるのだろうか。


今はただ、出口のない暗闇の奥へと、さらに深く引きずり込まれていく予感しかしていなかった。


私が描いていた未来は、もっと素朴で、もっと自由なものだった。その日あった出来事を笑いながら話し合えるような。そんな当たり前の感情を分かち合える誰かと出会って、派手な生活なんていらない。お互いを一番に想い合える温かな家庭を築く……。


――恋愛をしてこなかったわけじゃない。ただ、恋愛の仕方がわからなかった。


友人の口から漏れる言葉は、極端だった。「別れた」「辛い」と泣き腫らした顔で縋られることもあれば、逆に「世界で一番幸せ」だと、のろけ話に花を咲かせる日もあった。


隣で微笑む彼氏を誇らしげに紹介する友人の、あの眩しいほどの笑顔。


私にとって恋愛は、自分の平穏をかき乱す激しい嵐か、あるいは、私だけが一生招待されることのないきらびやかなパーティーのように、どこか遠くて未知なものだった。


けれど、そんな私でも、心の奥底では小さな光のような理想を抱いていた。


激しい嵐でも、豪華なパーティーでもなくていい。日だまりの中でお茶を飲むような、穏やかで温かな誰かが、いつか私を見つけてくれるのではないか――と。その淡い期待は、今、目の前で豹変した男の執着によって、音を立てて崩れ去ろうとしていた。


(ドラマや小説のように甘くなかったということだ)


そんなことを思っていると、不意に背後の気配が遠ざかった。重い足音がクローゼットの方へ向かい、やがて戻ってくる。


「……拭け。風邪をひく」


投げ出された私の横に、ふかふかの清潔なタオルと、柔らかな素材の着替えが差し出された。


さっきまで冷たく突き放し、絶望のどん底に叩き落とした同じ男の仕草とは思えない。そのギャップが、私をさらに困惑させる。


一般的に優しい男というのは、もっとわかりやすいものだ。友人の彼氏や、テレビの向こうの主人公たちは、困っている時に迷わず手を差し伸べ、甘い言葉で安心させてくれる。あるいは、怒っている時は最後まで冷たいとか。少なくとも、感情の色が一貫している。


だけど、瑛斗は違う。冷酷に私を追い詰める。氷のような目と、濡れた私を案じてタオルを投げるただの男としての熱を帯びた手つき。その相反する二つの顔が、なんの矛盾もなく一つの体に同居している。どちらが本当の彼なのか、あるいは両方とも偽物なのか、今の私には判断がつかない。


この世の平均的な尺度では、到底測りきれない男。


震える手でタオルを引き寄せると、瑛斗は私の隣に、けれど一定の距離を保って腰を下ろした。ソファが再び、彼の重みで沈み込む。もしこれが普通の恋愛なら、ここで肩を抱き寄せられ、熱い口づけでも交わすのかもしれない。


(目を閉じてみる?)


だけど、彼が保つこの一定の距離は、触れられるよりもずっと不気味で、彼の中に潜む正体不明の何かに触れてしまうことへの恐怖を増幅させる。


「お前は、俺の所有物だ」


瑛斗の口から出たその言葉に、私はタオルを握りしめたまま、心のどこかで冷めた自分を感じていた。でも、強引なヒーローがヒロインを独占する定番のシーン。物語の中ならかっこいいとキュンキュンすると胸をときめかせる場面なのかもしれない。けれど、実際に冷たいソファの上で、跡が残るほど手首を掴まれた後で聞かされるその台詞は、甘さなんて微塵もない。


(……お見合いや、契約結婚なんて言葉があるけれど)


もしこれがお見合いなら、私には断る権利があるはず。ビジネスとしての契約結婚なら、もっと対等な条件交渉があるはずだ。


今の私には意思なんてどこにも存在しないし、これはページをめくれば終わるお話でもない。漫画にもならないような普通の関係には、一生辿り着けない。つまり瑛斗にとって、私は話し合う相手ですらないということだ。


「……ただのモノ?」


私は俯いたまま、ぽつりとこぼした。


瑛斗からの気遣いであるはずのタオルが、今は私を縛り付ける新たな足かせのようだ。込み上げる涙を、タオルの柔らかな繊維に無理やり吸い込ませる。この圧倒的な絶望の中で、私はどう瑛斗と向き合えばいい?従順なフリをして時を待つのか、それとも徹底的に心を殺してモノに徹するのか。どちらにせよ、これまでの甘い夢は全部捨てなければならないのだ。


私はゆっくりと顔を上げた。

視界はまだ涙で滲んでいたけれど、その奥に座る瑛斗の冷徹な姿を、今度は逃げずにしっかりと見据えた。彼を屈服させることはできなくても、せめて私の心だけは汚させない。そう決意して唇を噛んだ私に、彼は予想もしない言葉を投げた。


「今日はここで寝ろ。……俺はソファを使う」


「……え?」


思わず、間抜けた声が出た。所有物だと断じ、逃げ場を塞ぐように追い詰めておきながら、ゲスト棟に戻らずに。私に自分のベッドを譲り、自分は窮屈なソファに身を横たえようとしている。


(なぜ……?)


奪い去るのか、守るのか。壊したいのか、愛したいのか。その矛盾だらけの慈悲が、瑛斗が発したどんな冷たい言葉よりも、私の心を深くかき乱す。


(揺れている)


枕からは、かすかに瑛斗と同じ香りがした。この香りは嫌いではない。安らぎのようなものを感じてしまっている自分。矛盾している。


私は、彼が差し出された着替えを抱きしめ、広いベッドの隅に、迷い込んだ子ネコのように身を丸めて目を閉じた。数メートル先からは、ソファが沈み込む鈍い音と、瑛斗の静かな呼吸の音が聞こえてくる。


(これが恋?)


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