第14話:エプロン男子・蓮
「……はぁ、疲れた」
ゲスト棟の自室に戻るなり、私は大きく息を吐き出した。
まだ、この場所に連れてこられて日が浅いというのに、この広すぎる部屋に帰ってきただけで落ち着くと思ってしまった自分に驚いている。
ソファに沈み込みながら、今日一日を振り返る。瑛斗が去った後、日高は何事もなかったかのように私を各部署の挨拶回りへと連れ出した。
「皆様、今日から副社長付となります、神谷瑛斗様の婚約者の水野奈月様です」
日高の淀みのない声がオフィスに響くたび、私の心臓は嫌な音を立てた。
(……婚約者。たった三文字なのに、なんて重たい言葉だろう)
整然と並ぶデスク、最新のオフィス機器、そして何より、そこに座る人々。すれ違う社員たちは皆、一目で育ちが良いと分かる空気を纏っていた。洗練された身のこなし、隙のないスーツの着こなし。私の勝手な直感だけれども、このスターライト企画という巨大な城において、私のような庶民の出身者は、おそらく派遣スタッフの中に数人いるかどうかだろう。
向けられる視線は、好奇と、それ以上に値踏みの色を含んでいる。
誰も知らない。私が、祖父の残した莫大な借金を背負い、返済のためにこの場所に立たされている契約婚約者に過ぎないなんて。
(……あの視線、多人数掛けの稽古で囲まれた時より消耗するな)
初出勤は、一言で言えばカオス。神谷家の次期当主を自販機前でフリーズさせ、挙句に逃走させ……。さらには、あの佐伯涼子の笑顔を浴び続けた。極めつけは、あの太陽のような輝きを放つ蓮まで登場する始末。
脳内は大渋滞。けれど、時計の針は18時を回っている。
(契約外の『赤の他人』!私だけの至福の時間……!)
泥のように重い体をソファから剥がし、せめて温かいお茶でも飲もうと立ち上がった、その時だった。
コンコン、と。控えめながらも、どこか確信に満ちたノックの音が部屋に響いた。
そして、もう一度軽やかなノックの音が響く。
「お疲れ様。お腹、空いてないかな?」
現れたのは、蓮だった。驚くべきは、仕立ての良さが一目でわかるシャツの袖を捲り上げ、その上に一点の曇りもない純白のエプロンを完璧に着こなしているその姿だ。
「……蓮さん、その格好は?まさか、これから神谷家の夜会でも始まるのですか?」
私の問いかけに、蓮は流れるような所作で、持ち込んだ高級な木箱から土鍋を取り出した。ふわりと、旬の食材と出汁の香りが部屋に満ちる。
「まさか。これは僕の趣味。」
私の父も、料理が得意。専業主夫ですし。母よりも父の方がずっとセンスがあって、いつもこう言っていた。
『いいかい奈月。女性が料理や家事をすると決めつけてはいけないよ。男性の方が案外得意だったりするんだ。男性は、要領が悪いだけなんだから』
(この人、見かけによらず実力主義なのかも)
「どうかな。僕の趣味に、付き合ってくれる?」
完璧なエプロン姿で微笑む蓮に、私の口はもう、完全にお鍋を迎え入れる形になっていた。それに胃袋までもが、もう「参った」と白旗を上げている。
「今日、自販機の前でも困っていたね。だから、僕が夕食をご馳走しようと思って。」
(……自販機?)
あの時、私をじっと見つめていた視線の主が蓮だったのなら、どうして声をかけてくれなかったのだろう。黙って見守られていたことに、親切心よりも、得体の知れない居心地の悪さを微かに感じてしまう。
蓮はそう言って、慣れた手つきで部屋のキッチンへ向かい、「少し火を借りるよ。最後の一仕上げだ」と、手際よくコンロに火をかけた、数分後。カチリと火を止めた蓮が、土鍋をテーブルに運んだ。
(下準備済みなの?)
蓮は、どこか幸せそうな表情をして蓋を開けた。黄金色の湯気が立ちのぼり、私の空腹を直撃する。
(器用で優しくって、あっ、そういえば…)
鼻をくすぐるこの優しい出汁の香りと、穏やかな声。記憶の底に眠っていた景色が、鮮やかに蘇る。
契約が成立した、あの日。自分の家にも居場所がなくなって、近所の寂れた公園のベンチで一人、震えていた私に声をかけてくれた、あの男性。
あの時は、情けなくて悲しくて、薄っすら涙で目元がふんわりしていたから、顔はよく見えなかった。けれど、あの時も彼は、今の蓮と同じように温かい言葉を差し出してくれた、長身の男性。
「……あの」
思わず喉の奥から声が漏れる。けれど、蓮は何も言わず、ただ優しく微笑んで小皿に取り分けた炊き立てのご飯、そして、湯気を立てるふっくらとした具材を丁寧に盛り付けて差し出した。
「冷めないうちに。はい、どうぞ」
「ありがとう。」
その仕草一つとっても、あの日の彼と重なって見えてしまう。
(人違いだったら失礼だし、でも、どうしても気になってしまう)
ぐるぐると思考が回るけれど、目の前の芳醇な香りは容赦なく私の鼻腔をくすぐる。葛藤を飲み込むようにして、私は箸を取った。一口食べれば、もう余計な思考は吹き飛んでしまうと思って。
「……いただきます」
「……っ、おいしい……」
じわっと広がる出汁の旨味に、張り詰めていた心の糸が、ゆっくりと解けていくのがわかった。この美味しさに、心まで温かくなっていく。父が言っていた通り、料理には作る人の人柄が出る。
(どこか落ち着く味。やっぱり、あの時、公園で私に声をかけてくれた人)
確信に変わった問いを、口に出そうとしたその時だった。
「……どうしたの?そんなに見つめて。そんなに僕の顔が魅力的?」
蓮が、ふっと悪戯っぽく微笑んで顔を近づけてきた。昼間の爽やかな太陽のような笑顔とは違う、少しだけ熱を帯びた、吸い込まれそうな瞳。
あと数センチ。
吐息がかかるほどの距離に、普通なら心臓が跳ね上がる場面。恋愛小説やマンガなら、バスの急停車でバランスを崩し、彼の腕の中に……なんて、距離の近さに胸を高鳴らせる王道の展開。けれど、私には涼子のような可愛らしさも魅力もない。御曹司である蓮とは、どうしたって不釣り合いなのだ。
(そう、不釣り合い。……きっと、遊ばれているだけ)
そう自分に言い聞かせる。
「……蓮さん」
「ん?」
「今のその体勢、私が竹刀を持っていたら、三本は取れています」
「…………」
蓮の動きが、これ以上ないほど綺麗に止まった。喉元もガラ空き、左脇にも大きな隙。武道家として教えずにはいられなかったのだけれど、蓮は目を見開いたまま固まっていた。やがて、耐えきれないといった様子で吹き出した。
「あはははっ!……最高だよ。奈月さん。まさか口説いている最中に『隙がある』なんて言われるとは――」
お腹を抱えて、声を上げて笑う。昼間の完璧な微笑みとは違う、年相応の、心からの笑い声。
(口説いてくれていたの?)
蓮さんの口から出た単語が、頭の中で何度もリフレインする。
恋愛未経験の私にとって、口説くなんて言葉は、小説や映画の中だけの、どこか浮世離れした響きだ。しかもお相手は、誰もが振り返るような完璧な御曹司。
そんな庶民派で目立ちもしない自分に、こんな甘い言葉が入り込む隙間なんて、一ミリもなかったはずなのに。
(……いや、違う。違うね)
これはきっと、都会のセレブたちが楽しむ冗談のひとつに違いない。そう思わなければ、心臓がうるさすぎて、今すぐこの場から逃げ出したくなってしまう。
蓮が涙を浮かべて笑い、さらに距離を詰めようとした、その時だった。
「……おい、蓮。そこで何をしている」
地獄の底から響くような低い声とともに、部屋のドアが勢いよく開いた。立て付けが心配になるほどの勢いで現れたのは、肩で息をし、髪を乱した瑛斗だった。
瑛斗は、私と蓮、テーブルの上の温かな土鍋を交互に見て、目に見えて顔を引きつらせた。
「おぅ、瑛斗!仕事は終わったんだ」
「こいつは、俺の許嫁だ。」
蓮の軽やかな問いかけを、瑛斗は鋭い視線で叩き斬っていた。怒りと困惑でパニック寸前の瑛斗と、面白そうに目を細める蓮。二人の御曹司に挟まれた私は、恐怖に近い未体験のことに、手に持った箸を握りしめたまま、ただ固まることしかできなかった。
(でも、何か言わないと……!)
私は喉を震わせ、精一杯の言葉を絞り出した。
「……あの、お二人さん」
二人の視線が同時に私に突き刺さる。
「正中線が丸見えで、喉元がガラ空き。私なら、迷わず『突き』を入れていますよ。」
――しん、と。
部屋の中に、これ以上ないほどの静寂が訪れた。さっきまでのドロドロした執着や独占欲が、音を立てて崩れ去っていく。
(私は、いつでも仲裁に入るのが上手だ)
殺気立っていた二人が静かになったのを見て、私は密かに胸を張った。
「……なっ……」
「…………」
瑛斗は絶句して口をパクパク。蓮は再び腹筋を壊したように笑い始めた。私は至って真面目に、武道家としての助言をしたのだけれど、蓮は、涙を浮かべて笑いながら首を振る。
「……はは、最高だよ。奈月さん、君には本当に敵わないな」
「ごちそうさま。……また来るよ、僕と瑛斗の正中線を狙いに来て」
蓮がそう言って瑛斗の肩を叩き、部屋を後にしようとした時、固まっていた瑛斗が、ようやく絞り出すように声を上げた。
「……おい、蓮、待て……!」
けれど蓮は足を止めるどころか、振り返りもしない。ただ、後ろ向きのまま右手をひらひらと左右に振り、「おやすみ」とでも言うように軽やかに去っていった。
「奈月、むやみに蓮に近づくな!」
「…………」
どういう意味なのだろうか。わざわざ釘を刺すということは、あの蓮という男、見た目は優しそうだけど、
(えー、……実は裏で暴力団か何かに通じている?)
恐ろしい手練れなのだろうか。警告するほど、闇を抱えているに違いない。人は見た目で判断してはいけないものだ。気を付けなくては。
――数時間後。
ゲスト棟の広いバスルームで、私はようやく一息ついていた。湯船に浸かりながら思い出すのは、蓮の暴力団(疑惑)と、瑛斗の近づくなという声。
濡れた髪をタオルで拭きながら脱衣所へ出ると、置きっぱなしにしていたスマホが激しく震えた。
湯気で火照った頬を撫でる、夜の冷気。
画面に浮かび上がったのは、見慣れた、けれど今は遠い世界の住人のような名前だった。
幼馴染の健太からのSMSだった。




