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15億の花嫁・愛憎劇  作者: YOR
第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)

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第13話:パーフェクト日高の憂鬱(日高視点)

――突然で申し訳ないのですが、私、日高が最も愛すべき主人の瑛斗様のことで、目も当てられない失態の話をさせてもらってもいいでしょうか。


……そう、これは完璧であるはずの瑛斗様という男が、一人の女性によって完膚なきまでに瓦解していく、その引き金となった記念すべき日の記録です。


私が奈月様と初めてお会いしたあの日から、予感はしていました。これまで、数多の令嬢たちが瑛斗様の財力や外見に心酔し、彼を攻略しようと近づいては、その氷のような無関心さに散っていきました。瑛斗様自身もまた、他人に心を開くことを弱さと断じ、孤独な王として君臨することを選んできたのです。


しかし、彼女――奈月様は違いました。


瑛斗様がどれほど鋭い眼光を向けても、奈月様はそれを「機嫌が悪いのかしら」という極めてシンプルな、そして恐ろしく前向きな解釈で受け流してしまったのです。計算も、裏表もない。ただひたすらに、他人の機嫌に振り回されない図太いまでの純粋さ。


(この方なら、あの凍てついた瑛斗様を内側から溶かし、変えてくれるに違いない)


デスクに置いていたスマートフォンが、激しく振動しました。画面に表示された名は『副社長』。私は、嫌な予感を押し殺して通話をスライドさせました。


「……日高、今すぐ三階の北側、自販機コーナーへ行け」


応答するなり耳に飛び込んできたのは、地鳴りのような低い、それでいてどこか切羽詰まった瑛斗様の声でした。


「はい、承知いたしました。……奈月様への案内は終わられたのですか?」

「…………」


数秒の沈黙。……確信しました、何かあったな、と。


「……お釣りだ」

「はい?」

「だから、お釣りだ」


プツッ。


一方的に通話が切れました。私は暗転したスマホの画面を、しばし無言で見つめずにはいられませんでした。


(お釣り……?あの、冷徹無比で知られる瑛斗様が。一体、何に走らされているのですか)


奈月様をあんなに強引に振り切って連れ出したというのに、一体あそこで何が起きたというのか。


私が現場に到着すると、そこには日本庭園の静謐な美しさを背景に、この世のものとは思えないほど場違いな光景が広がっていました。


神谷家が誇る名匠が手掛けた庭園。その歴史ある緑を背に、奈月様がポツンと立ち尽くしておられたのですが……そのお姿が、あまりに衝撃的だったのです。


(……なんと、賑やかな)


奈月様の両手には、溢れんばかりのチョコ、クッキー、マドレーヌ、そして冷たい缶コーヒー。さらにその隙間から、天井の蛍光灯の下で無機質な光を放ち、宝石のように……いえ、庶民の生活感そのもののようにジャラジャラと輝く小銭が覗いています。


この由緒正しき廊下で、これほどまでに「自販機のフルコース」を抱え込んだ女性を、私は他に知りません。


――思い返せば、規格外の出来事は、今日だけではありませんでした。あの遺言書を、あろうことか「蓋が開かないから鍋敷きにちょうどいい」と、本当に鍋敷きにしていたというではないですか。


さらには、神谷家代々の至宝がキッチンシンクの上の電気紐に結ばれていたと佐々木執事から報告を受けた時は、耳を疑いました。手が届きにくいからという理由で、あの家宝を適当なリング扱いして固結びにするなど……。水野家の生活力の逞しさには脱帽します。


それに、あの時の言葉も忘れられません。桐谷を見て「お姉さん」と言いましたわよ、奈月様は確かに。業務事項を話していたのは私です。ですから、どちらのことかお聞きしましたら、『日高さんでいいや』と。……失礼な。私だって、そこまで老けているつもりはないのです。これだから庶民の感覚というのは恐ろしい。その日から私は毎日朝と夜、お肌の手入れに力を入れるようになりました。


そのお陰でしょうか。先日、年頃の娘と息子から『お母さん、最近彼氏でもできた?凄く肌がきれいだよ』と真顔で言われまして。


思わぬ副産物に感謝こそすれ、やはり奈月様のあの『日高さんでいいや』という一言だけは、今思い出しても眼鏡が曇るほど納得がいきませんね。


さらに奈月様は、どうしても『18時以降は赤の他人』としたいようなのです。確かに、今まで自由だったお若い身空(みそら)でこの屋敷に閉じ込められるのは精神的にお辛いとは思います。ですが、合意事項を盾にして自分の時間を守ろうとするあの頑なな姿勢。十五億もの契約をしておきながら、定時退社にこれほど固執する契約嫁など前代未聞です。ともあれ、この神谷家での契約婚は初のことで大袈裟に言ってしましましたが。


(……ふふ、私の教育心に火がつきそうな予感ありますね)


ですが、これほどまでに型破りでありながら、奈月様は本当に明るく、人とすぐに仲良くなれる力をお持ちであることは、この数日ですぐに分かりました。


事実、奈月様は自身の恵まれた容姿にすら無頓着なようです。無駄な肉のない、しなやかな四肢はまるでモデルのよう。長年、剣道で培ってきたというその体幹の強さが、奈月様の立ち姿をこれほどまでに凛とさせているのでしょう。日々欠かさないという筋トレの賜物でしょうか。慣れない環境で少し緊張されているようですが、背筋をすっと伸ばした時のその姿には、財閥の令嬢にも引けを取らない気品が宿っています。


お顔立ちこそ派手さはありませんが、だからこそ化ける。私の見立てでは、口紅一つ、あるいは髪を一房梳くだけで、そこらの令嬢など霞んでしまうほどの豪華な大輪の華となるでしょう。


(……困りましたね。この無自覚な魅力に、周囲の御曹司たちが放っておくはずがない。瑛斗様だけでなく、多くの男たちが奈月様の虜になる日は、そう遠くないでしょう)


奈月様は、自分がどれほどの価値を持って神谷家に座っているのか、まだ何も分かっておられないのです。


さて、少々思い返しが長くなりましたね。私の期待が、想像を絶する形で現実のものとなった話に戻りましょう。


「あ、日高さん。お疲れ様です……。これ、副社長が忘れていっちゃって」


奈月様は困ったように、けれどどこか「こぼれ落ちそうなので早く受け取ってほしい」と言わんばかりの切実な笑顔で、私にそのお札、小銭の山を差し出してこられました。ふと見れば、奈月様の手には既に開封されたクッキーの袋が。そして、あろうことかその口元には、微かなチョコの跡が。


(……食べたのですか。瑛斗様があんなに、断末魔のような声を残して逃げ去った直後に、あなたは悠然と糖分を摂取しておられたのですね)


瑛斗様は、これまでどんな政財界の大物に対してもペースを崩したことはありませんでした。あのきゃぴきゃぴした涼子様がどれほど完璧な振る舞いで寄り添おうとしても、瑛斗様の心の壁一枚、傷つけることすらできなかったというのに。


「……奈月様。一つお伺いしてもよろしいでしょうか。瑛斗様と、何をお話しに?」


「えっ?ええと……お菓子の好みの話……ですかね?私が『好きですか?』って聞いたら、なんだかすごく怒られちゃって」


……なるほど、すべてを察しました。


普通であれば、瑛斗様がこれほど見当違いな受け取り方をするはずがありません。相手の目線の動きや状況を読み取るなど、彼にとっては呼吸をするよりも容易なこと。


ですが、今の瑛斗様は、あまりに多くのノイズに晒されすぎていました。突然現れた婚約者の奈月様。奈月様に執着を見せる蓮様の存在。さらには、奈月様を涼子様のような毒に触れさせたくないという、無自覚なまでの保護欲……。


それらが瑛斗様の冷静な判断力を奪い、あろうことか主語のない言葉を…。


観察力が低下するほどに、瑛斗様は余裕を失っていたのでしょう。それも、目の前の女性一人のために。


(瑛斗様……。お菓子の話で自爆されたのですね)


私はこみ上げる笑いを必死で押し殺し、眼鏡の位置を直しました。あのプライドの高い主人が、今頃自席でどれほど悶絶していることか。


「……奈月様。副社長は少し、糖分が足りなかっただけのようですね。案内は私が引き継ぎましょう」


私は、奈月様が抱えていた神谷家の次期当主の羞恥心の塊(=お菓子とお釣り)をスマートに預かり、残りの主要な施設を端的にご案内しました。


案内を終えてゲスト棟までお送りした後、私は瑛斗様へ報告の電話を入れました。


「……終わったか」

「はい。奈月様をゲスト棟までお送りいたしました。……副社長、本日の業務はここまでにいたしましょう。奈月様も少々お疲れのようですし、副社長も……リフレッシュが必要かと」

「…………好きにしろ」


短く、力のない返事でした。どうやらまだ、自爆のダメージからは立ち直れていないようです。


私は静かにスマホを閉じました。


神谷家を継ぐ完璧な後継者を、ここまでただの不器用な男に引き摺り下ろす女性が現れるとは。実にいい兆しです。


(これは……今後のスケジュール調整が、非常に大変になりそうです)


私は、少しだけ楽しくなってきた自分を自覚しながら、夜の帳が下り始めた神谷家の屋敷を見上げました。


(さあ、これでお役御免)


……いえ、あちらの棟では、もう一人の主である蓮様が、奈月様の帰りを今か今かと待ち構えているはずです。


今夜もまた、一波乱ありそうですね。



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