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歩く15億の花嫁~契約婚約から始まるオフィス・シンデレラ~  作者: YOR
第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)

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第12話:耳まで赤い副社長


瑛斗に手首を掴まれたまま、私たちは静まり返った廊下を進んだ。


四方がガラス張りになった渡り廊下からは、手入れの行き届いた広大な日本庭園が見下ろせる。午後の柔らかな光が差し込んでいるはずなのに、瑛斗の放つオーラのせいか、周りの空気が凍りついているように感じた。


(……まるで、処刑台にでも連れて行かれる気分)


掴まれた手首の場所が熱い。これは、私の熱でもなく瑛斗の温もりだった。瑛斗は少し汗ばんでいる気もする。歩く速度からか、代謝が上がっているのだろう。それにしても歩幅が広すぎて、ついていくだけで精一杯。


(……これでも私、友人からは「競歩なの?」と言われるくらい歩くのは速い方なんだけどな)


自慢の快足をもってしても、男性との体格差はどうしようもないのだと、突きつけられた気分だった。


(これは筋トレを再開しなければ)


実は私、元々ひどい低血圧で低体温。太りにくい体質ではあるのだけれども、筋肉が落ちると途端に朝が起きられなくなり、自分でも引くほど不機嫌になってしまう。


以前は、ドラマを観ながら1時間は平気で回せるフラフープに、ヨガや腹筋ローラー。毎日欠かさず二十分ほどのメニューをこなしていた。その頃は、体調も良く、くびれだって維持できていた。けれど、ここ最近はもっぱら就活で忙しかった。そこへ、この突然舞い込んだ契約婚のドタバタ。サボっていたツケが回ってきたらしい。


(……すこぶる体調が悪い)


それに、実家から着の身着のままに近い状態でゲスト棟に住むことになったから、フラフープ一つすら手元にないのだ。


(……一度、実家に荷物を取りに帰るしかない)


瑛斗の広い背中を見上げながら、私はこっそり自分の脇腹を触ってみる。十五億の価値を維持するためにも、早急な対策が必要だ。


そんなことを思っていたら、瑛斗が足を止めた。そこは、先ほどの場所から少し離れた静かな「軽食自動販売機」の前だった。

自販機を見ると、飲み物だけでなく、コンビニで売っているようなクッキーやチョコレート、おにぎり、サンドイッチが並んでいる。


それは、無機質なオフィスの中に現れた、秘密の売店のようだった。他の会社では見たこともないような充実ぶりに、私はまるで宝箱を覗き込む子供のような気分になってしまった。だけども、現実を見ると、コンビニよりは値段が張る。


(……場所代)


ということかしら。だとしても、疲れた時に一歩も外に出ず甘いものが手に入るなら、この自販機は重宝しそう。そう思うのは、私が庶民だからなのだろうか。神谷家のような財閥の方々からすれば、こんな端金の差など、考える必要すらない不必要な悩みなのかもしれないけれど。


そんな場違いな感想を抱いている私の隣で、瑛斗は私の手を放すと、腕を組んで、じっと自販機の商品を見つめ始めた。その眼差しは、まるで重大な経営判断を下す時のような険しさだ。眉間に深い皺を寄せ、一点を見つめて動かない。


(さっきの涼子のことを思い出したのかな?)


私の方が、涼子の言葉を思い出してしまった。「副社長は甘いものが好き」だと言っていた。


あんなに冷徹で、怖い顔していて、仕事以外に興味がなさそうな人が、クッキーかチョコレートかの二択で人生最大の決断を下しているかのように固まっている。そのギャップが、なんだか少しだけ、面白い。この人も、お腹が空いたり、甘いものを欲しがったりする普通の人間なんだ。


(財閥だからって、コンビニのお菓子が嫌いって人はいないか)


「あの……副社長。……好きなの。」


瑛斗の肩が、びくん、と跳ねた。彼はゆっくりと、信じられないものを見るような目で私を振り返る。その瞳は大きく見開かれ、頬がわずかに赤らんでいるように見えた。


「……っ!?お前……何を、いきなり……」

「あ、やっぱり。好きなんですね!」


瑛斗は絶句したまま、パクパクと口を動かしている。

「場所を……考えろ。ここは、そういうことを言う場所では……」


私のカンは冴えている。

「図星を突かれて照れているんだ」と、納得した。


「ふふ、いいと思いますよ!意外ですけど、人間味があって。……好きなんですね、本当に」


「いいわけがあるか!だいたい、お前は俺の何を知っていて……っ!」


「え?だって、そこにある『チョコ』と「クッキー』、交互に見比べていますよね?穴が開くほど。どっちが好き?少し高いけど、私でも買えますよ。どれにします?」


「…………」


瑛斗の動きが、ピタリと止まった。時が止まったような静寂が、二人の間に流れる。


「……お菓子の、話か?」

「はい。お菓子の話です……」


私が不思議そうに顔を覗き込むと、瑛斗は額に手を当て、深い、深すぎる溜息をついた。さっきまでの赤みとは違う、もっとどす黒い赤色……。


(怒らせてしまった)


「……もういい、勝手にしろ」

「……いや、自分で選べ!」


瑛斗は吐き捨てるように言うと、乱暴に五千円札を自販機に放り込んだ。


(……?やっぱり、お腹が空いて機嫌が悪かっただけなのね)


結局、瑛斗がお金を出してくれているけれど……首を捻りながらも、五千円札という私とっては大金に近いお金が、投入された自販機のボタンを見つめた。


(チョコを選ぶべきか?高い金額の方が財閥にはいいのかもしれない)


私が迷っていると、しびれを切らしたのか、瑛斗の手が伸びてきた。耳まで真っ赤にしたまま、震える指先で適当なボタンをいくつか押した。

ガタン、ガタンと景気良くお菓子が落ちてくる音が響く。


「……案内は中止だ。残りは日高に資料を届けさせる。今日はもう戻れ!」


瑛斗はそう言い捨てると、私の返事も待たずに、逃げるような速さで歩き出した。


「えっ、ちょっと、副社長!?」


私は慌てて取り出し口からお菓子を回収した。けれど、一番大事なものが残っている。自販機のディスプレイには、まだ「3,800円」という数字が煌々と輝いている。


「待ってください。返却レバー引いてません!お釣りが出てますよ!」


私はお菓子を抱えたまま、廊下の向こうへ消えようとする瑛斗を追いかけたかった。けども、お釣りを放置できる金額ではない。その場を動けない。瑛斗さんは振り返りもしない。


(困った)


「いい、そんなものはくれてやる!」

「ダメですよ、3,800円もあります。一週間分のランチ代ですよ!」


「……っ、やかましい!ついてくるな!」


結局、瑛斗は懐からスマホを取り出すと、どこかへ電話をかけながら角を曲がっていった。おそらく、置き去りにされた日高を呼び出しているのだろう。


(……結局、自販機の場所しか教えてもらってないような……)


私は一人、お菓子とお釣りのお札、小銭を握りしめて、静まり返った廊下に取り残された。窓の外には相変わらず美しい日本庭園が広がっているけれど、私の手元にあるのはチョコとクッキーとマドレーヌ、それからお札とジャラジャラとした小銭。


(案内……一気に済ませるって言っていたのに。やっぱりよく分からない人)


私は溜息をつきながら、とりあえず日高が来るであろうと信じてこのまま待つことにした。


(……これ、食べてもいいのかな?)


緊張の糸が切れたせいか、急にお腹が空いてきた。ふと人の気配を感じて振り返ってみたけれど、そこには誰もいない。


(……15億の契約をしておきながら、4,000円弱のお釣りに必死になる私って、本当に可愛くない)


もしこれが佐伯涼子だったら、どうしたのかな。

きっと、お釣りなんて目もくれず、優雅に微笑んで「お菓子、ありがとうございます」なんて瑛斗の腕にすがりついたに違いない。間違っても、追いかけたりなんてしなかったはず。


(……あれ?私、もしかして自爆してる?)


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