第10話:三人の火花と、飲めないコーヒー
(佐伯涼子)
その姿は、フリルの付いた純白のブラウスに、体のラインを強調するタイトなマーメイドスカート、そしてネイビーのスーツジャケットを羽織っている。デジタルパーマの髪は艶やかに流れ、くりくりの大きな瞳を持つ彼女は、まさにお人形のように綺麗で、物凄く可愛らしかった。
(……住む世界が違う。顔もスタイルも、可愛らしさ、華やかさもない。私は完全に負けている)
初対面の相手に対して、どうしてこんなにも惨めな気持ちにならなければいけないのか。
これまでの私なら、仕事ができそうな女性を見れば「見習おう」と思ったはずだ。なのに、涼子を前にして溢れてくるのは、今まで知らなかった醜い劣等感と、心臓を針で刺すような鋭い痛みだった。
まるで、自分の大切な居場所を奪われるのを恐れているみたいに。
――私は、一体どうしてしまったんだろう。
なぜ自分がこんなにも彼女の一挙手一投足に動揺しているのか、その理由を探る余裕もなく、私はただ、どうしようもない敗北感の中に立ち尽くしていた。
涼子の顔には、日高に向けられた愛嬌のある笑顔が貼り付いているが、視線は一瞬で日高を通り越し、私に向けられた。
(けど、身長は私の勝ちだ)
私は167cmある。涼子はヒールを履いていても、せいぜい155cmくらいだろう。このどうしようもない状況の中で、背が高いという、唯一無二の事実にしがみつく。
(瑛斗は、甘くて可愛らしい子がタイプなのね)
瑛斗の隣に涼子がいる姿を想像し、私はチクリと胸が痛むのを感じた。なぜ自分がこんなにも動揺するのか、その理由を探る余裕もなく、私は心の中で初めてマウントをとった。
その時だった。
「佐伯、持ち場に戻れ!」
廊下の奥から、冷徹な声が響いた。瑛斗が、無表情にこちらへ向かってくる。
(瑛斗が、怒っている?今にも殴られそうなくらい怖い)
あまりの迫力に私が立ちすくむ中、涼子の顔が一瞬で引きつった。けれど次の瞬間には、まるでスイッチを切り替えたみたいに、完璧な営業スマイルがその顔に張り付いた。
(……すごい。一瞬で、感情を全部消した?)
そのあまりにも鮮やかな豹変ぶりに、私は感心するよりも先に、背筋が寒くなるのを感じた。
「瑛斗副社長ぅ!」
涼子は、その名を、まるで小さな子供が甘えるように、語尾を甲高く持ち上げながら発音した。媚びるような、過剰に甘いその口調は、公の場で聞かされるには場違いで、私の耳にはひどく不自然に響いた。
(……私には、一生かかってもできない。あんな風に、自分を武器にして甘えるなんて)
「ごめんなさい、私ったらつい、新しい方がいらしたので…」
(えっ?……今、舌をちょこんと出したの?)
同じ年に見えて、平気でできてしまう、あまりにも徹底した可愛さに、私は驚きを通り越して、少しだけ引いてしまった。それと同時に、自分の中にある女としての未熟さを突きつけられた気がして、いたたまれなくなった。
瑛斗は涼子を無視し、私の前に立つと、冷たい眼差しを日高に向けた。
「日高、何をしている。案内が遅いのでは。」
瑛斗が私から涼子をあからさまに遠ざけようとしたのを見て、私の胸はまたチクリと痛んだ。
(やっぱり、瑛斗は涼子との関係を隠している)
私がしょんぼりと俯いた、まさにその瞬間。
「やあ、また会いましたね、奈月さん。」
背後から、温かい声が降ってきた。
黒瀬 蓮だった。その笑顔は、オフィスの照明よりも明るく、私の暗くなった視界に一筋の光を射し込むようだった。
蓮は、私の表情を注意深く見つめ、すぐに状況を理解した。
「日高さん。奈月さんの顔色が優れないようだ。一度、コーヒーでも飲んでから案内しますよ。」
蓮の甘く優しい提案に、私は微かな安堵を感じ、顔を上げた。この刺すような緊張感から、誰か連れ出してほしい。そう願ってしまった。
「結構だ。」
瑛斗が、即座に、低い声で遮った。瑛斗の冷たい瞳が、初めて蓮に向けられる。
「俺が案内する。日高は戻れ。佐伯も、持ち場に戻れ。水野は、俺についてこい。」
(え、瑛斗が案内?あの冷たい、この人が?……)
一体何を考えているのか、その無表情からは何も読み取れない。私を助けようとしているのか、それとも監視しようとしているのか……。
(あれ?涼子は、結局ついてくるのね!)
「持ち場に戻れ」と言われたはずの涼子は、まるで聞こえなかったかのように、瑛斗の斜め後ろを、当然のような顔をしてキープしている。
私は混乱し、心臓をバクバクさせながらも、瑛斗の背中を追った。その後ろを蓮と涼子がそれぞれの思惑を抱えて続き、日高の複雑そうな視線に見送られながら、私たちは休憩スペースへと向かった。
休憩スペースは、エレベーターホールの一角にある、モダンな空間だった。瑛斗が壁際にある自動販売機へと向かう。
「水野。案内の前に一度、少し落ち着け。」
「あ……はい。ありがとう。」
瑛斗の背中を見つめながら、私は少しだけ呼吸を整えた。
(……怒っているように見えたけど、気遣ってくれたのかな?)
「瑛斗副社長、そちらのブラックではなくて、こちらのカフェオレですよねぇ?」
涼子は慣れた手つきで自販機のボタンを指差し、私に見せつけるように甘い声を上げた。
「副社長は、お砂糖たっぷりの甘いものがお好きなんですよ。お疲れの時はいつもこれだって、私、存じ上げておりますわ。」
涼子の言葉に、私の心臓がギュッと嫌な音を立てた。
(……やっぱり。私が知らない瑛斗を、この人はたくさん知っているんだ)
涼子の言葉に、私は思わず瑛斗の横顔を二度見してしまった。
(……えっ?甘いもの?あんなに冷たい人だから、いかにもブラックコーヒーが似合いそうなのに)
意外すぎる事実に驚くと同時に、胸の奥がざわりと波立った。
(この二人の邪魔をしたのは私なのかもしれない)
昨日今日会ったばかりの私と、長く彼のそばにいる(らしい)涼子。その埋められない時間の差を突きつけられたようで、急に自分が場違いな場所にいるような、強い疎外感に襲われた。
しかし、瑛斗は涼子が指差したボタンを一瞥もせず、あえてその隣にある「ブラック」のボタンを迷わず押し込んだ。
ガタン、と重い音を立てて缶が落ちる。
「……余計な世話だ、佐伯。」
瑛斗は冷たく突き放すと、取り出したブラックコーヒーの缶を、驚くほど無造作に、呆然としている私の手に押し付けた。
「これを飲んだら、俺が案内する。」
瑛斗の言葉に、涼子の顔がみるみるうちに強張っていく。その時、ずっと傍観していた蓮が、ふわりと私の隣に並んだ。
「おや瑛斗、ブラックなんて奈月さんには少し苦すぎるんじゃないかな?緊張している時こそ、ホットココアの方が良いと思うけどな。」
蓮はいつの間にか私の分のココアを買っていて、それを私のもう片方の手にそっと添えようとした。
「……蓮!今日からだったか?明後日ではなかったのか?」
瑛斗の低い声が、休憩スペースの空気をピリつかせた。蓮の予定を正確に把握していたらしい瑛斗の瞳に、明らかな苛立ちが宿る。
(どうしよう……。瑛斗は怒っているし、蓮は微笑んでいるし、涼子は私を睨んでいるし……全然落ち着けない!)
「はは、そんなに怖い顔を。優秀な部下たちが早めに仕事を片付けてくれたから、挨拶がてら顔を出しただけだよ。」
蓮は涼やかに笑い、私の手にココアを握らせようと指先を滑らせる。
瑛斗は私の手首を掴むと、「行くぞ。案内は一気に済ませる。」と、蓮と涼子を置き去りにするように歩き出した。
(あれ?結局、私、一口も飲んでいない)
背後で涼子の「そんな、副社長ぅ……っ!」という悲鳴のような声が響いたけれど、瑛斗は一度も振り返らなかった。




