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8 告白

 私も含めた負傷者には治癒術を施し、ある程度回復出来た所でハラグへの帰路に着いたものの、傷は塞がっても失われた分の血が戻る訳ではない。それぞれ戦闘の疲労もあるし、新人騎士達にはかなりの衝撃もあったと思う。


 それでも急を要するマロリーの為にも、出来るだけ急いでようやく帰り着いたハラグの街。その入口である門に着くなり、私の体は再び訳も解らないうちにおもいきり抱き締められていた。


「アレッサ……!!」

「えっ!?えぇっ!?キ、キルシュ宰相様……?」


 一体どうして王城にいる筈の彼がここに居るのか、どうしていきなり私を抱き潰す勢いなのか。


 解らない事だらけなのだけれども、苦しいくらいにぎゅうぎゅうと抱き締めてくる彼の腕もまた小刻みに震えていたし、駆け寄ってきた彼の表情は見た事もないくらい青褪めていたのだ。


 その様子はあの時のエカードと全く同じで、キルシュ宰相様は私達に何があったのか知らない筈だというのに、どうしてこんなにも心配していたのだろうか。


 この状況に困惑しながらも、彼から香る嗅ぎ慣れたシトラスの香りと温かな温もりは酷く安心できるものだった。


 あぁ、私は生きてまた彼に会えたのだと、ようやく実感できた瞬間、ここまで張り詰めていたものが切れたように膝から力が抜けるのを感じる。普通ならそのまま地面に膝をついていたと思うのだけれど、気がついた時には私の体はふわりと横抱きにされていたのだ。


「は?えっ……!?」

「私とした事が、取り乱していたようです。一刻も早く神官達に診てもらいますよ」

「え、いや、私はそこまでの怪我では……っ!?」


 抱き抱えられた状況に心も追いついていないというのに、そのまま走り出したキルシュ宰相様に私は為す術もなく固まったまま必死に抗議の声をあげるものの、その声は虚しく宙に消えていった。


 ちらりと後ろを見れば、突然現れたキルシュ宰相様の行動に目を丸くしながらも追いかけてくる他の騎士達の姿がある。その中の一人、エカードと視線が重なった瞬間、彼は少しだけ困ったように眉を下げながらもそっと何事か口を開いた。


(良かったな、アレッサ)


 口の動きからそう言ったであろう彼は、いつものように優しく微笑んでいた。






 そうして大神殿に着いた所で、ようやく床に下ろしてはもらえたものの、今度は顔をぐしゃぐしゃに泣き腫らしたライナ王女殿下に飛びつかれてしまった。


「うぁぁぁん!アレッサぁぁぁ!!」

「ライナ王女殿下……ご心配をおかけしました。それに王女殿下のお好きな私の髪もこの有様で……」


 ライナ王女殿下が私を護衛騎士に選んでくださったきっかけがこの赤毛だ。焼き切れて長さも不揃いな、こんな姿を見せてしまうのは申し訳ないとそう思ったのだけれど、彼女は私の胸に顔を埋めたまま、ぶんぶんと首を横に振られた。


「アレッサは生きていてくれるだけでいいんじゃ!うぅぅ……良かったぁぁ……」


 そのまま暫く泣きじゃくられていた王女殿下は、少し落ち着いた所で侍女達に連れられて滞在されている部屋へと戻られていった。


 どうやら何かしらの方法で私が命の危機にあったという事を知ったキルシュ宰相様が、転移魔術が得意な第5騎士団のリーヴェス・スマラクト団長と共にハラグの大神殿に転移してきたのが数刻前の事らしく、それを知ってからライナ王女殿下はずっと泣いておられたそうなのだ。


「あいつ、物凄い形相で助けてくれって俺のとこに頭下げにきたんだぜ。お前さんが万が一無事じゃなかったら、どうなってたか考えるのも恐ろしいな」

「そう、なんですか……」


 神官達に治療の指示をしているキルシュ宰相様をちらりと見た後、スマラクト団長が声を潜めてそう言うのだけれども、私は未だに今の状況が信じられずにいた。


 そんな私の頭を彼はぐしゃぐしゃとかき回すと、にかっと人好きする笑みを浮かべた。


「解りにくい奴だけど、まぁ宜しく頼むな!俺はこれからエカードのヤケ酒に付き合ってくるから、詳しい報告は明日でいいぞ」

「……?エカードはお酒を呑まない筈ですが……」

「あっはっは!まぁ人には酒が必要な時があるんだって!とにかく、こっちの事は任せとけ!」


 ばんばんと私の背を叩くスマラクト団長に疑問符を浮かべながらも、私は頭を切り替えてマロリーが運ばれた部屋へと向かう。


 左半身の火傷が酷かった彼女は、エカード達の治癒術のお陰で一命は取り留めたもののまだ意識が戻っておらず、今後の治療については大神殿の神官達が引き継いでくれる事になった。


 王城にも優秀な治癒術士に医師、神官は揃っているけれど、彼女の今の状態では長距離の移動が体に障るし、ハラグには彼女の家族もいる。慣れ親しんだ地で、知り合いも多い場所の方が療養には良いだろうという判断だ。


「診た所、かなり火傷が酷いから少し時間がかかってしまうだろうけど、こういう時こそ私の神聖力の見せ所だからね。出来るだけ元の状態――いや、それ以上に美しくしてみせるよ。女性にとって、見た目の美醜は一大事だからね」


 マロリーの火傷の状態を直接確認されたワーレン様は、そう言われるとにっこりと極上の笑みを浮かべられる。


 彼の神聖力というのが非常に稀な能力で、普通の治癒術や神聖力による治癒では効かない痣や古い傷痕なども治すというものなのだ。流石はこの世の美の化身とも謳われるワーレン様に相応しい能力と言えるだろう。


「本当に感謝致します、ワーレン様!」

「むしろ感謝しなくてはならないのは私の方かな。君達がいなかったら、この街も国も無事では済まなかっただろうから、これくらいはこの国の王族として当然の事さ」


 最上級の騎士の礼をとる私に対して、ワーレン様は眩しいものを見るように目を細められていたものの、次第にその視線は私の脇腹辺りへとじっと注がれていく。


「アレッサ、本当にその脇腹の傷、治さなくていいのかい?私なら綺麗に治してあげられるのに」


 あの時、火蜥蜴(サラマンダー)につけられた傷痕は、すぐに治癒術と回復薬をかけたものの、少し火傷痕が残ってしまっていた。それだけ傷が深かったのだろう。


 その事でエカードは物凄く申し訳なさそうな顔をしていたし、まさかワーレン様にまで心配をかけていたとは思いもしなかった。心配そうにこちらを見詰めているワーレン様には申し訳ないのだけれど、私は必要ないと言うように首を横に振った。


「いえ、これは戒めとして残しておきたいんです。今回の事で、私はまだまだ騎士として至らないと痛感しましたから」

「そう?君がそうしたいのなら、無理にとは言わないよ。でも、もし今後その傷跡を消してもいいと思えたら必ず私の所に来ること。その時には綺麗に治してあげるから」


 空模様のように気紛れなワーレン様がここまで言ってくださるだなんて、とんでもなく破格な事だ。今はまだ、傷痕を消してもいいと思えるようになるとはとても思えないけれど、もしそうなったらいつかは――


 もう一度深々と礼をとる私が顔をあげれば、彼はとても満足そうな様子で微笑まれていた。


「あ、そうだ……あの、ミラン大神官様はどちらにいらっしゃいますか?お話しなくてはならない大事な話があるのですが……」

「あぁ、彼ならこの数日はかなり思い詰めた様子で礼拝堂で祈っているよ。今も多分そこに居るんじゃないかな。……ところでさっきから君に背後霊みたいに張り付いてるライノアは、一体どうしたんだい?」

「あ、はは……本当、どうしたんでしょうね……」


 最後は少し声を潜められて、私に耳打ちするような格好になるワーレン様に、私は思わず乾いた笑みが漏れた。


 悪戯めいた至極楽しそうな笑みを浮かべられている彼が、先程からちらちらと私の背後を見ていたのには気付いていたのだけれど、それに関しては私の方が詳しく知りたいくらいだ。


 しかもそんな私達の間に割り込むように、キルシュ宰相様が私の前に立ち塞がるのだから余計に訳が解らない。


「ワーレン様、近過ぎます。そういう態度が女性を惑わすと王都で問題にされた事をどうやらお忘れのようですね」

「そうそう、ライノア。アレッサの初恋相手は私なんだって知ってたかい?」

「ワーレン様!?それは――」


 確かに初めて美しいと思った王子様のモデルはワーレン様だけれど、初恋の人とは言っていない。訂正しようと声をあげたものの、その声はキルシュ宰相様に遮られた。


「本当、貴方のそういう所が私は昔から大嫌いなんですよ。アレッサが憧れていたのは創作物の貴方であって、貴方自身ではありません。つまり、アレッサの初恋はこの私で相違ありません」

「わぁぁぁぁ!?も、申し訳ありませんが、これで失礼させて頂きます!くれぐれも、マロリーの事は宜しくお願い致しますっ!!」


 何故か自信満々に言い切るキルシュ宰相様の腕を慌てて掴むと、彼を引き摺る勢いで部屋を後にする。バタンと音を立てて扉が閉まると、中庭に面した回廊はしんとした静かな静寂に包まれていたのだけれど、今はそれが妙に重苦しく感じて落ち着かない。


 私はそのまま扉を背にずるずると寄りかかると、思わず大きな溜息を漏らしてしまった。


 本当に、何がどうしてこうなっているのだろうか。


 なんだか頭痛までしてきたのだけれども、目の前のとんでもなく美しい人は私に掴まれた腕をじっと見詰めている事に気付き、慌てて手を離そうとするのだけれど、今度は逆に私の手首を掴まれてしまった。


「あ、あの……キルシュ宰相様……」

「ライノア」

「え……」

「あの頃のように、もう私を名前では呼んでくださらないのですか?」


 まるで縋るような瞳で、どこか悲しそうに私を見詰める彼の姿に、私は驚きのあまり目も口もぽかんと呆けたように丸くしてしまう。


「えぇぇ?あ、あの……本当の本当に、あなたはライノア・キルシュ宰相様ご本人なのですよね?」

「私以外に、このような顔をしている者がいるとでも?」

「うっ……それは確かに、(まご)うことなき御尊顔ですが、あまりに私への態度が違いませんか!?もっとこう……塩対応だったじゃないですか!」


 そう、これまでの彼の態度と目の前の彼の態度があまりに違うものだから、人型の魔獣が化けていると言われた方が余程真実味があるというものなのだ。


 戸惑う私に対して、彼は少しだけ眉を顰めるとばつが悪そうに視線を逸らしてしまった。


「それは……私にもやむにやまれぬ事情があったのです」

「はぁ……解りました。それなら後でお話を伺いますから、部屋で待っていてくださいますか?私はこれからミラン大神官様と大事な話がありますので」

「私も同席させては頂けないのですか?」


 まるで捨てられそうな子犬のように悲しげな表情をされるとは思わず、今までの彼の姿とのギャップに呻き声をあげてしまう。あんな表情をされるだなんて、本当にずるい。


 つい絆されそうになってしまうのだけれど、こればかりはミラン大神官様の個人的な問題に関わってくるものだから、いくらキルシュ宰相様といえども私が勝手に判断する訳にはいかない。


 こほんと一つ咳払いをすると、誘惑に負けないように眉をできる限り吊り上げた。


「今回ばかりは駄目です!」

「…………仕方ありませんね。貴女も怪我をしたばかりなのですから、無理はしないでください。その間に何があったのかを詳しく他の騎士達に聞いておく事にします」


 そう言いながら、彼は短くなってしまった私の髪にそっと手を伸ばす。整える時間がなくてまだ不揃いな髪はくしゃくしゃで、やはり見苦しかっただろうか。


 不安に思いながらも顔を上げれば、私を見詰める彼の瞳は胸が詰まりそうになる程の痛みに耐えるような、そんな表情にも見えた。


 どうしてそんな顔をしているんですか。そう聞きたかったのだけれど、うまく言葉にする事ができず、私が固まっている間に彼は名残惜しそうに騎士達が滞在している部屋へと向かっていった。


 彼の姿が見えなくなった所で、私は大きく息を吐き出すと、気を取り直すように両頬を軽く叩く。ぱんと小気味良い音が回廊に響いた。


 冷静になってみれば、火蜥蜴の群れや変異種相手に無茶をした話を彼が知ったら確実にお説教されそうな気もするのだけれども、エカードからのお説教もまだ残っているので、その事は今はできるだけ考えないように思考の片隅へと押しやる。


 そうして大神殿の中央に位置している礼拝堂へと着いた時には、丁度夕陽が輝く頃だった。厳粛な祈りの場であるその建物の上部には美しいステンドグラスの装飾があり、夕陽を受けて堂内に様々な色の光が差し込んでいる。


 日中は信徒達に開放されている場所ではあるのだけれども、この時間になるといつも人影は少なくなり、今はミラン大神官様の姿しか見られなかった。


 膝を折り、熱心に祈りを捧げている彼に、これから辛い話をしなくてはならないと思うと、ぎゅっと胸が締め付けられるようではあったけれども、一呼吸置いて彼の元へと歩を進めた。


「ミラン大神官様……お祈りの最中に申し訳ありません」

「……プリーメル卿……っ!その御姿は!?」


 振り返った彼は私の姿を見て、ぎょっとした様子で目を丸くされると、慌ててこちらへと駆け寄って来られる。


 確かに今の私の格好といえば、ぼろぼろにくたびれた制服のままで、脇腹辺りは切り裂かれてしまっている上に、長かった髪は不揃いな状態で短くなっているのだから、何かあった事は明らかな状態だ。


 私達に何かあった事はキルシュ宰相様とスマラクト団長が神官達に伝えていたようなのだけれども、この様子だとミラン大神官様はご存知なかったのだろう。


「怪我をされたのですか!?治療は……」

「それは大丈夫です。傷も既に塞がっておりますので。……私の事よりも、ミラン大神官にお伝えしなくてはならない事がありまして、このようにお見苦しい格好のままで失礼致します」


 私が硬い表情のまま重々しく礼をとった事で、話の内容を察したらしい彼の表情からは、みるみるうちに生気が失われてしまっていた。


「っ……彼女は……神の御許に帰られたのですね……」

「このような結果になってしまい、申し訳ありません」

「いえ、プリーメル卿が謝られる事は何もありません……!逆に危険な事を頼んでしまった私の方こそ申し訳ありませんでした」


 そう言って深々と頭を下げる彼の手は、気の毒なくらいに震えていた。


「彼女は……安らかな最期だったのでしょうか……」


 消え入りそうな程の小さな呟きに、私はなんと返事をしたら良いのかと言葉に詰まってしまう。アンナ嬢の亡くなり方を考えたら、安らかだったとは決して言い難いだろう。


 言葉で誤魔化してしまうのは簡単だけれども、それをしてしまえば彼はずっと恋した人の最期を知らずに生きていく事になる。どちらにせよ辛いのならば、私なら真実を知りたい。


 私は少しだけ息を吐き出すと、ぐっと握る手に力を込めた。


「……ロイエの森には、本来いる筈のない炎系魔獣の上位種、火蜥蜴の群れがいました。しかも更に上位の変異種と思われる個体まで確認しています。アンナ嬢は思いがけずそれらに遭遇してしまったのでしょう。御遺体は……身元が判別出来ない程の状態でした」

「っ…………ぅ…………」


 口元を抑え、必死に堪えられているものの、嗚咽混じりの声が僅かに漏れる。俯いた表情は見えないけれども、ぽたぽたと落ちる涙が床に染み込んでいた。


「彼女が保護魔術のかけられたロケットペンダントをしていたお陰で、身元が解った事だけは幸いでした。私の部下の騎士がアンナ嬢の誕生日に贈った物だそうで、あれが残っていなければ彼女を御家族の元に帰す事も叶わなかったでしょう」


 そう言えば、震えていた彼の手がぴくりと僅かに動く。ゆっくりと顔をあげた彼の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていたけれど、その瞳はじっと真っ直ぐに私へと向けられていた。


「そ……れは、もしかして青緑色の宝石のついた……?」

「はい、確かにそのような色の宝石がついていました。周りの装飾が美しいロケットペンダントです」


 その瞬間、彼は膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んでしまう。顔を両手で覆うその肩は震えていた。


「わ、たしなんです……彼女に頼まれて、親友からのプレゼントだから絶対に傷をつけたくないのだと……それで、ロケットペンダントに保護の結界を施しました……」

「そう、だったのですか……」

「私は、彼女が存在していたという証だけは護れていたのですね……」


 その言葉を最後に、彼の瞳からはとめどなく涙が溢れていくばかりで、それ以上言葉にはならなかった。


 これ以上は私がいると、ミラン大神官様は思う存分泣けないだろうし、アンナ嬢への祈りの邪魔にしかならないだろう。もう一度深々と礼をとると、静かにその場を後にする。


 礼拝堂を出た所で、彼の叫びにも似た泣き声だけがその場に響いていた。






 そうして沈痛な思いを引きずったまま、私は約束通りにキルシュ宰相様が滞在しているという部屋に伺ったものの、今度は別の意味で項垂れてしまう。


 あの表情は明らかに怒っている。


 他の騎士達からロイエの森で起きた出来事の一切合切を聞いたらしいキルシュ宰相様は、眉をこれでもかというくらいに寄せた険しい表情をしていたのだ。これはまずいと彼が座っているソファの向かいに慌てて腰を下ろすと、テーブルに頭を擦りつけんばかりにそのまま勢いよく頭を下げた。


「申し訳ありませんでした……!お叱りはしっかりと受けさせて頂きます!」

「本当に……!どうして貴女はいつも考えなしに突っ込んでいくのですか!?上位種相手に無茶がすぎます!!」

「はい……返す言葉もありません……」

「いくら貴女の剣の腕が確かでも、炎の魔術が得意な貴女には不得手な相手でしたし、あの人数で討伐できる数を明らかに超えていました。もっと早く撤退して救援を待つべきだった事はお解りですか?」

「うぅ……本当にその通りです……」


 彼の言う事はあまりにも正論で、私はひたすら項垂れるばかりだ。もう少し気を配れていたら、マロリーがあれだけの大怪我をする事もなかっただろう。


 頭上からは一際大きな溜息が漏れて、私は更なるお叱りの言葉に身構えるのだけれども、やってきたのは頭を優しく撫でる温かな温もりだった。


「――ですが、貴女が諦めなかったからこそ、あれだけの数の火蜥蜴を前にして、死亡者が出なかった事は誇っていいのですよ。よく頑張りましたね」

「っ……ありがとう、ございます」


 不意の褒め言葉に、鼻の奥がつんとしてしまう。溢れそうになる涙を必死に堪えて顔をあげれば、優しく微笑む彼の表情に堪えていた筈の涙が少しだけ溢れてしまった。慌てて手で拭おうとするのだけれど、それよりも早く彼の手にしたハンカチが私の涙を拭っていた。


 そんな慣れない優しさが余計に堪えるとは思いつつ、彼の手からふわりと香るシトラスの香りに私はふと感じていた疑問が口から漏れた。


「……でも、不思議なんです。私は本当にあの時、もう駄目だと思っていたのに、気が付いたら目の前にいた火蜥蜴が跡形もなくて……私はあれだけの数を倒せる程の魔術を使えませんし、それはあの場にいる他の騎士達も同じです。それにあの時、シトラスの香りがして――」


 あの辺りの木々は燃え尽きていたし、シトラスの香りがする筈もない。それならあれは一体何だったのだろうか。


 あの時の記憶を必死に手繰り寄せていれば、キルシュ宰相様がこほんと一つ咳払いをする。彼の方を見やれば、少しだけ躊躇いがちな視線が重なった。


「……アレッサ、貴女は古代魔術について知っていますか?」

「え?古代、魔術……ですか?申し訳ありません、ご存知の通り、剣術以外はあまり詳しくないです……」

「古代魔術は現代魔術と比べて面倒な手順や制約があるのですが、正しく行えば凄まじい力を持っていました。手間がかかりますし、古語を知らないと使えませんから、今ではすっかり廃れてしまった分野です」

「はぁ……それが、どうしたのですか?」


 急に始まった古代魔術の話に、私はひたすら首を傾げるばかりなのだけれども、そこは私よりも遥かに素晴らしい頭をお持ちのキルシュ宰相様だ。きっとこれも何か深い考えがあるのだろう。


 そう思いながら頷いていれば、彼はじっと探るように私を見詰めていた。


「……私の得意分野は覚えていますか?」

「それはもちろん座学全般です!特に古語がとりわけ素晴らしく……て……」


 まさかという思いと、どこか確信めいた思いが混ざり合いながら私の中にすとんと落ちてくる。それに応えるように、彼は私の目を真っ直ぐに見つめながら、ゆっくりと頷いた。


「貴女に魔術をかけていたのは私です。命の危機に陥った時にだけ発動する筈の防御と反転の古代魔術が発動したのを感じた私がどれほど肝を冷やしたか、きっと貴女には想像できないでしょうね」

「えぇぇぇ!?ま、全く気付きませんでした……そんなもの、いつかけられていたのですか?」

「……アカデミーに貴女が入学してから毎日です」

「へ?」


 想像の斜め上すぎる彼の言葉に、私は訳が解らずぽかんとした真抜けな顔で固まってしまう。


 てっきり最近の事かと思えば、まさかそんなに前からとは思っていなかったのだけれども、それ以上に毎日、という言葉があまりにも引っかかる。もしや私が知っている毎日と、彼の言う毎日は異なっているのだろうか。


「申し訳ありません、私の理解力が足りなくてキルシュ宰相様の御言葉の意味がよく解らなかったのですが、その……毎日、というのは……?」

「言葉通りの意味です。この古代魔術は少しの魔力でも強力な効果がある反面、毎日対象者にかけ続ける必要がありますから、かつては家族や恋人の無事を祈って使用されていたと記録されています」


 動揺する私とは裏腹に、すらすらと流れるように答えられるキルシュ宰相様の姿に、私の思考は更に混迷を極めるばかりだ。


 彼の言っている言葉は理解できる。理解できるのだけれども、やっている事はめちゃくちゃなのではないのかしら。


「待って、ください……確かにアカデミーでも、騎士になって王城に勤めるようになってからも、少しでもキルシュ宰相様にお会いしたいと努力はしていました。していましたが……毎日はお会いしていませんよ!?」

「それは姿が見える距離なら、効果は少し落ちますが直接触れなくてもかけられますから問題はありません。ですから貴女が気付いていないだけで、私は毎日貴女の姿を見ていましたよ」


 なんだかもう、完全に私の理解力を超えた話で、思考が全く追いつかない。それでも、それだけ彼が私の事を好き、なのだと思えば難しい事はもうどうでもいいのかもしれない。


 好きという単純な気持ちよりかは、妙に重たい執着のようにも思えるけれども。


「つまり、それだけキルシュ宰相様は、私の事が好き――という事で合っていますか?」


 これで違っていたらあまりに自意識過剰だわと思いながらも、そう問い掛ければ、彼は花が綻ぶような美しい笑みを浮かべた。


「好きという言葉だけでは足りません。貴女が想像しているよりもずっと前から、私は貴女だけを愛しています。その為に弟にはキルシュ公爵家を継げるよう、しっかりと教え込んできましたから」

「えっ!?」

「だから貴女に見捨てられたら、私は根無草になるしかありません。今更心変わりだなんて許さないと言ったでしょう?」


 彼の手が私の手を絡め取り、流れるような仕草で手の甲に口付けが落とされる。それも私の目をじっと見詰めながら、私の反応を窺うように、指先、掌、手首へと続いていく。


 その甘美な責め苦は、一瞬のようでもあり、永遠にも感じられた。


「貴女の望むだけ、口付けも愛も囁きましょう。ですから、そろそろ私の名前を呼んでは頂けませんか?」


 思い返してみれば、キルシュ宰相様が私を名前で呼ばなくなったので、それに合わせて呼び方を元に戻したのであって名前を呼ぶなと言われた事は一度もない。しかも彼はいつの間にか私をアレッサと呼んでくれているし、本当にまた私が名前を呼んでもいいのだろうか。


 私が少し躊躇いながらも顔をあげれば、そこには期待に満ちた表情で私を見詰める彼の姿があった。


 死を覚悟したあの時、もう一目会えたら伝えたい事があった。それを伝えるのは、きっと今なのだろう。


「……ライノア様、あの頃からずっと大好きです……!これからもずっと、好きでいてもいいですか?」


 それに応えるように、私の唇に彼の口付けが落とされる。それはあの時とは全く違う、驚く程に愛おしくて、幸せに満たされるような、優しい口付けだった。






読んでくださってありがとうございます!


作者のやる気に繋がりますので、面白かったと思って頂けたら下にある☆を押して評価やブクマを宜しくお願いします!


次の話で完結になります。

ライノア視点になりますが、どうにも長くなりそうなので、明後日の更新になりそうです。

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