6 忍び寄る災厄
王都を出て早数時間。じりじりとした暑い日差しの中、馬の背に揺られながら右を見ても左を見ても長閑な風景が続いているというのに、私の心は未だとんでもない混乱の渦中にあった。
昨夜のアレは夢だったのではないかしら。そう考えては、私の手はそっとなぞるように何度も何度も自分の唇に触れてしまう。
唇が重なった感触も、熱い吐息も、炎のように揺れる眼差しも。全てが現実離れしていて、私の願望が見せた夢だったと言われた方が遥かに現実味があるというものだ。
(そもそも、あの後どうやって騎士宿舎まで戻ったのか記憶が全くないのよね……)
気が付いた時には朝になっていて、騎士宿舎にある自分の部屋のベッドの上だったものだから、もしかしたら本当に夢だったという可能性もなくはない。なくはないのだけれど――
『貴女が好きなのは、この私でしょう?今更他の男と結婚だなんて、許しませんよ』
今も耳に残るその声は、確かに現実のものだったのだ。
あの瞬間を思い出しただけでも顔から火が出そうになるのだけれど、アレではまるでキルシュ宰相様が私の事を好き――なのではないかと勘違いしてしまいそうになる。
(そんなまさか、ね……!勘違いはよくないわ!調子に乗ったら痛い目を見るのが世の中の常なのよ……!)
そもそも私とキルシュ宰相様にはそれぞれの家の嫡子同士という超えられない壁がある。だというのに、まるで自分以外との結婚は許さないとでも捉えられかねない事を言われる筈がないのだから。
そんな都合の良い夢を振り払うように、私が勢いよく自分の頬を叩けば、パンと小気味良い音が響く。その音が思っていたよりも大きかったせいか、隣を並走していた同じ第1騎士団に所属している部下のマロリーがびくりと肩を震わせた。
「プリーメル副団長、急にどうしたんですか!?もぉー!びっくりしましたよー!私の話も全然聞いてませんでしたよね?」
「あぁ、それは悪かったわ。ちょっと考え事をしていたのよ」
可愛らしく頬を膨らませている彼女は、まだ騎士になって2年目という若手の騎士だ。若草色の髪は毛先の方にいくにしたがって水色のグラデーションを描いているという珍しい髪色をしている上に、童顔で可愛らしい容姿をしているものだから、何故か整った顔立ちが多い第1騎士団の中でもかなり目立つ存在ではある。
ただ、その可愛らしい容姿に油断していると痛い目をみるというのが彼女にアプローチを続ける男達の総意らしい。
私から見れば彼女は物怖じしない性格であり、上官相手でも遠慮なく物を言う気概があるし、剣の腕もかなり良い。くるくるとよく変わる表情も可愛らしいし、私を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくるものだからついつい構ってしまうような、そんな存在なのだけれども。
今もまだリスのように頬を膨らませていた彼女の頭を軽く撫でていれば、暫くは嬉しそうな表情をしていたものの、こてんと首を傾げると私の表情をじっと窺うように見上げてきた。
「でも、なんか今日の副団長、ずっと様子がおかしくないですかぁ?あっ!もしかして昨日の夜何かあったとか!?」
「うっ……何かって何よ」
「そんなの決まってるじゃないですかぁー!恋バナですよ、こ・い・バ・ナ!!皆の前で陛下からあんなお見合いの話が出たんですから、クレー卿が絶対黙ってないと思ったんですよねぇー!」
その瞬間、思わず彼女の口を塞ぐように勢いよく手を押し当てれば、マロリーはもがもがと苦しそうにもがいてはいたのだけれど、その目は好奇心に溢れた悪戯っぽい輝きに満ちていた。
私は妙な汗が流れ落ちていくのを感じながら、そっと後方に視線を向ける。幸いな事に、隊列の後方にいるエカードまではこちらの会話は届いていないようで、視線が合った彼は少しだけはにかんだような、それでいてどこか嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
昨夜の求婚を思うと、なんだかその笑顔が妙に気恥ずかしくて、私は勢いよく視線を戻すとそっと声を顰めた。
「ちょっと待って、マロリー!?なんでここでエカードの名前が出てくるのよ!?」
「なんでって……クレー卿が副団長にずっと片想いしてるのは、騎士団内で有名な話じゃないですかぁー!」
そんな事はまったくもって寝耳に水の話で、私は愕然として目を見開いてしまう。まさかと思いながらもそろそろと周りを見渡せば、私とマロリーの方を見ている騎士達の表情が物凄く生暖かい笑顔を浮かべている事に気付いてしまい、じわじわと流れ落ちる汗はとめどなく溢れるばかりだ。
「う、嘘でしょ……まさかここにいる皆知っているの……?」
「気付いてないのは副団長だけですよぉー。で、その反応はやっぱり告白されたんですよね!?ねっ!?」
キラキラと期待に満ちた瞳で見上げるマロリーから視線を逸らしても、同じような表情をしている騎士達がいる訳で、私は視線の行き場を無くして天を仰ぐ事しかできなかった。
キルシュ宰相様という大問題もあるけれど、彼は今も王城に残っているから次に会えるのはこの随行が終わったひと月後だ。流石にそれだけあれば昨夜の衝撃も落ち着いていると信じたいのだけれど、エカードとはその間もずっと一緒だ。
私にとっては弟みたいな幼馴染だった彼が、実は恋愛的な意味で私を好きだったという事を知ったのがつい昨夜の事だというのに、それを知らなかったのがまさか私だけだったなんて恥ずかしいやら何やらで穴があったら埋まりたいくらいだ。
エカードの求婚を受けるかどうかはまだとても考えられるような気持ちではないし、私はともかくエカードまで騎士達の噂のネタにする訳にはいかないだろう。どうにかこの話の流れを変えようと、私はこほんと一つ咳払いをした。
「そ、そんな事より、さっきあなたがしていたという話はなんだったのよ!」
「えぇー……?副団長の恋バナ聞きたいのにぃー……」
つまらなそうに口を尖らせていたマロリーだったけれど、一呼吸置いてすっと表情を引き締める。先程までのくだけた様子は一転して真剣なものへと変わっていた。
「今夜はハラグの街に泊まりますよね?着いたらちょっと街の様子を見てきてもいいですか?」
ハラグはこの辺りでは一番大きな街であり、国教であるヒメル教の大神殿を中心とした信徒が多く住む街だ。魔獣が住むロイエの森にも程近く、魔獣から人々を護る結界と森を通り抜ける前の休息地点としての役割を果たす要地なのだ。
このヒメル教というのは、代々象徴的な聖人、聖女を資質のある王族が務めており、今代の聖人は前国王陛下の弟君でありライナ王女殿下にとっては叔父君にあたるワーレン様だ。かつて王都に住む全ての女性を虜にしたと囁かれる程の大変な美男であり、ワーレン様が聖人となられてからは信徒の数が何倍にも増えたらしい。
そのワーレン様がお住まいになられているのがハラグの大神殿という事もあって、ライナ王女殿下は毎年の避暑の際には必ずこちらに立ち寄られるのだ。
「任務の時間外なら構わないわよ。そういえば、あなたはハラグの出身だったわね」
「はい!しばらく実家に顔を出してないんで、様子を見てこようかと。ちょっと気になる事もありますし……」
「気になる事……?」
「この気温ですよ。気のせいかもしれないんですけど、なんだか王都よりも少しずつ暑くなってませんか?キュールに近付くにつれて涼しくなるはずなのに……」
物憂げに眉を顰めながら彼女が見上げる空は、雲一つなく雨が降る気配は全くない。地面がかなり乾燥しているからか、馬と馬車が進むと舞い上がる土埃もかなりの量だ。
通常なら高原地帯のキュールへと近付く程に涼しさを感じられるのだけれど、今は涼しいどころか容赦なく降り注ぐ日差しを遮るものが何もなくかなり暑い。これに加えてここまで進んできた行程の疲れもあって余計に暑く感じるのだと思っていたのだけれど、もしかしたら単純に気温が上がっていたのだろうか。
「言われてみると確かにそんな気もするわね。暑いのが当たり前になりすぎていて、感覚が麻痺していたわ」
「動物達もあまり見かけませんし、日照り続きで植物も元気がありません。実家は農家なんで、今年は不作なんじゃないかと心配で……」
「それは確かに心配ね。解った、そういう事ならハラグに着いたらすぐに御実家に向かっていいわよ。ついでに街の状況も調べてきてくれると助かるわ」
何か異常が起きているなら大神殿でも話を聞けるだろうけれど、実際に生活している人々の声を直接聞けるのならまた違った話が聞ける筈だ。それに根が真面目な彼女なら、ついでの任務がある方が心置きなく隊を抜けられるだろう。
その考えが伝わっているのかは解らないけれど、彼女は嬉しそうな満面の笑顔を浮かべると、勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございます!しっかり聞き込みしてから、なるべく早めに戻りますので!」
その後もやはり雨が降る事はなく、穏やかに進む隊列がハラグの街に着く頃にはすっかり陽が暮れてしまっていた。
予定通り街に入った所でマロリーは実家へと向かうために一旦隊から離れ、それを見送った私達は街の中央にある大神殿へと向かう。街にあるどの建物よりも一際大きく、灯りが灯るとより美しく荘厳な大神殿は、街のどこからでもよく見渡せた。
緑と水に溢れた敷地内を進んで行くと、程なく辿り着いた入口には大勢の神官が集まっていた。その中でも一際目立つのは、遠目に見ても光り輝くような容姿をされているワーレン様だ。長く伸ばされた美しい巻毛は肩の辺りで緩く結ばれて前に垂らされており、どこか気怠げな雰囲気が色気を醸し出されている。
ワーレン様が気紛れに対応される懺悔室が女性信徒に大人気らしいのだけれど、確かにこの美貌は懺悔室の薄い板ではだだ漏れに違いない。
「ワーレン叔父様!」
馬車から降りられたライナ王女殿下は、勢いよくワーレン様に駆け寄られるとそのまま飛びつかれる。それを難無く受け止められると、うっとりするような笑みを浮かばれた。
「ライナ!よく来たね。また美しくなったんじゃないか?」
「叔父様も相変わらず若くて格好良いままじゃな!父様とふたつしか歳が違わんとはとても思えぬ!」
「あはは、それを言ったら兄上が悲しむよ。私が美しいのは神の思し召しなんだから当然さ」
その圧倒的な美への自信からか、ライナ王女殿下に向けた笑顔に被弾した新人の騎士達がバタバタと倒れていくのも例年通りだ。既に免疫のあるベテラン騎士達が慣れた動きで介抱に入るのを苦笑混じりに見ていれば、私に気付いたワーレン様がにっこりと微笑まれた。
「やぁ、アレッサ。今年もライナの護衛をありがとう。君は相変わらず私に全く興味がなさそうで良いね」
「お久しぶりです、ワーレン様。興味が無いだなんて、そんな事はございませんよ。何せ私が初めて美しいと思った絵本の王子様のモデルはワーレン様だと前にも申し上げたではありませんか」
そう、この御方の美貌は多くの芸術家の心を揺さぶり、彼をモデルとした絵本やロマンス小説、戯曲に絵画まであらゆる作品が世の中に溢れているのだ。
幼い頃、私が気に入ってよく読んでいた絵本に出てきた美しい金の巻毛の王子様がまさにワーレン様をモデルにされており、幼心に憧れたのも良い思い出だ。思うにあの本がきっかけで、人に限らず美しいものが好きになったのだろう。
あの頃はワーレン様のような美しい王子様を絶対に婿にすると言っては、『アレッサ、あれ程の美男はこの世に2人といない!それよりも筋肉美の方が良くはないか!?』とよく父に諭されていた覚えがある。
その後、更に美しいキルシュ宰相様に出会って、私の中の美の基準は完全にキルシュ宰相様に塗り替えられてしまったのだけれども。
「そういえばそんな事も言っていたね。私がモデルの絵本が多すぎてどれの事なのか解らなかったんだよ。まぁ君はどうせ変わりはないのだろう?」
「アレッサは相変わらずあの腹黒宰相の事しか目に入っておらんのじゃ。どう見ても叔父様の方が格好良いというに……」
はぁぁと大きな溜息を漏らされる王女殿下に対して、ワーレン様は可笑しそうな様子で王女殿下の額を軽く小突かれる。
「私から見れば君がこの世で一番可愛いお姫様なように、美醜の好みは人それぞれだからね。そもそもライノアは私の目から見てもかなり美しいと思うよ。……ね、アレッサ?」
「へっ!?あ、そ……そうですね!」
揺らめく大神殿の灯りのせいか、キルシュ宰相様の名前が出た事でつい昨夜の熱さを思い出してぼんやりとしてしまっていた私は、ワーレン様の問いかけに対する反応が一瞬遅れてしまう。その些細な動揺に、彼は驚いた様子で目を丸くされた。
「おや、いつもならライノアがいかに素晴らしいかという事をとうとうと語り出す所だというのに、その反応は彼と何かあったのかな?」
「い、いえ!そのような事は……」
「なんじゃ、まさか謁見の後に何かあったのか!?そなた、今日はずっと様子がおかしかったが一体――」
「た、倒れた騎士達の様子を見てこなくてはなりませんので、これにて御前を失礼させて頂きます!」
このままではまた根掘り葉掘り尋問されかねないと、私は慌てて騎士の礼をとると、脱兎の如くその場を後にする。後ろから「アレッサーー!!後で絶対に言うんじゃぞーー!!」という声が聞こえたのはきっと気のせいに違いない。
そのまま後ろを振り返る事なく、いつも大神殿に滞在する時に騎士達に割り当てられる区画へと向かおうとした時だった。
「……プリーメル卿。お急ぎの所申し訳ないのですが、少しだけよろしいでしょうか?」
声をかけてきたのは、まだ年若いながらも高い神聖力を有しているというミラン大神官様だ。毎年、ライナ王女殿下の避暑に随行するようになってからお会いするようになった方で、顔見知りではあるもののそこまで親しい仲でもない。
一体何の用事なのだろうかと首を傾げつつも、その表情が妙に強張っているのを見ると、余程の事情があるのだろう。
私が一つ頷くと、彼は両手を組み何事かを唱える。と、私達を包み込むように薄い膜が展開された。
「――それで、ミラン大神官様。わざわざ防音の結界までされるだなんて、それ程の重大事が発生しているのでしょうか?」
そう問いかければ、ぎゅっと組まれた彼の手が微かに震えている事に気付く。どうやら相当緊張しているみたいだ。
彼は少しだけ逡巡するように視線を彷徨わせると、意を決した様子で口を開いた。
「私も実際にこの目で見た訳ではありませんので、確かな事だとは申し上げられないのですが……このひと月程、ロイエの森で見た事がない魔獣の目撃情報が信徒から相次いでいるのです」
「見た事がない……それは新種、という事でしょうか?特徴などはお解りですか?」
魔獣と一括りに言っても、その種類は様々だ。未だその生態は謎が多く、普通の動物がなんらかの原因で変異し、凶暴化したとも、最初から魔獣の姿で生じるのだとも様々な議論が繰り返されている。
それ故に、魔獣の討伐にあたる騎士でさえも未知の個体はいるだろうし、それが一般の信徒なら更に未知のものばかりだろう。だからこそ目撃した信徒が知らないだけで、私達騎士は知っている魔獣かもしれないのだ。
「新種、なのかは解りません。その姿を全て見た訳ではなく、断片的なようで……ただ、共通しているのは、燃えるような炎がとても熱かったというのです」
「炎、ですか?ロイエの森で?あの森には炎系の魔獣はいない筈なんですが……」
ロイエの森は比較的弱い個体が多い森で、殆どが植物系や動物系のものだ。魔獣も生息地によって現れる系統があり、炎系の魔獣は火山の近くでの目撃が非常に多い。
この辺りに火山はないし、森の中で炎系の魔獣がいるとは考え難いのだけれども。
「っ……実は、私の知人が……!いえ、正直に申します。私の大切な女性が数日前にロイエの森に薬草を摘みに行ってから戻ってきていないのです……!」
「そ、れは……」
ヒメル教において、象徴的な存在である聖人、聖女は婚姻が許されているが、神に仕える神官は世俗から離れるために婚姻が許されていない。恐らく、その為にミラン大神官様は防音の結界までされたのだろう。
それであれ程に強張った表情をしていたのかしらとようやく得心がいった私は、少しだけ息を吐き出した。
「ミラン大神官様の御事情は解りました。私達に魔獣の討伐をしてほしいという事ですよね?ついでにあなたの大切な女性を探してほしいと」
「皆様はライナ王女殿下の護衛が任務で、この様なお願いができる立場ではない事も十分に解っております……!ですが彼女は……本当に心優しい女性なのです。困った者に進んで手を差し伸べられる人で、私は……彼女が笑顔で生きてさえいてくれれば、それだけで幸せで……この想いは生涯胸に抱えていようと思っておりました。それが、こんな――」
最後の方は嗚咽混じりとなり、ミラン大神官様はそれ以上言葉にできずに顔を覆ってしまわれる。どうやら両想いなのではなく、ミラン大神官様の片想いらしい。
けれどその気持ちは、私には痛い程に見覚えがあるもので、知らず知らずのうちに握り込んでいた手に力が篭っている事に気付く。
「……キュールに向かうには、どのみちロイエの森を通るしかありません。ライナ王女殿下にはこちらに残って頂き、明日、私達騎士のみで偵察に向かいましょう」
「っ……!あぁ……感謝致します……!」
「あなただけの為ではありません。魔獣から民を護る事は騎士の本分ですから」
そう告げれば、ミラン大神官様は涙をぽろぽろと零しながら私の手を縋るように握り締め続けていた。
読んでくださってありがとうございます!
作者のやる気に繋がりますので、面白かったと思って頂けたら下にある☆を押して評価やブクマを宜しくお願いします!