5 困惑の夜
いろいろな意味で消耗した謁見を終えた後、キュールに行っている間の引き継ぎを部下達に行ったり、その他のやっておくべき雑務をこなしたりしていれば、空には既に星が輝くような刻限になってしまっていた。
出立の準備はとうに済ませてはいるものの、最終確認はしておいた方がいいだろう。そんな算段を頭の中でたてながら馬車停りへと歩を進めている時だった。
「アレッサ!君、やっぱりまだ仕事してるのか」
背後からかけられた声に振り返れば、そこに居たのは少し呆れた様子のエカードだ。両手で大きな箱を抱えたまま、彼はこちらへと足速にやってくる。
「そう言うあなたこそ仕事をしているじゃないの。その荷物は何なのよ」
「いや、これは道中に必要な回復薬とかだよ。備えはいくらでもあった方がいいだろう?城の薬師達に追加で依頼してた分がなんとか間に合ったっていうから取りに行ってたんだ」
彼が少しだけその箱を持ち上げれば、中に入っているであろう回復薬の瓶同士が微かにぶつかりあう音が響いた。
「僕の他にも治癒術が使える騎士は同行するけど、最優先はライナ王女殿下だ。緊急時には騎士全員になんて手が回らないし、そうなったら自分で回復薬を飲んでもらうしかないからな」
「それは……その通りだわ。元々十分な量は用意しておいたつもりだけれど、多くて困る事はないものね」
回復薬には怪我を治すものや魔力を回復させるもの、毒消しなど様々な種類がある。適性がなければ行使できない治癒術とは違い、回復薬は飲めばいいだけのお手軽なものだ。
ただ、その分効果は治癒術に比べれば劣るし、味もお世辞にも美味しいとは言えない代物だ。とはいえ軽い怪我を治すくらいなら問題はないし、酷い怪我でも何もしないよりは遥かに良い。
その中でも特に重宝するのは魔力を回復するというものだ。いくら治癒術が優れていても、魔力切れを起こしていればどうする事もできない。
だからこそ王城に務める薬師達に魔力の回復薬は多めに頼んではいたものの、どうやらエカードの目から見れば怪我の回復薬の量は少なかったのだろう。実際怪我をした騎士を治すのはエカード達で、回復薬が多ければ彼等の負担はその分減るのだから。
今回の随行は、私が第1騎士団の副団長に昇進してから初めての大きな任務だ。しかも随行者の中に団長はいないのだから、第1騎士団副団長でありライナ王女殿下の専属護衛騎士でもある私が今回の随行を率いる立場となる。
だからこそ全てを完璧にしておこうと気合を入れて準備をしていただけに、自分の考えの至らなさを実感して自然と頭が下がってしまった。
「要らない手間をかけさせてしまったわ。本当は私が気付いて手配しなくてはいけない事だったのに」
副団長に昇進して、私自身はよりいっそう気を引き締めていたつもりだったのだけれど、やはり私は騎士としてまだまだ未熟だ。
「……アレッサ、頼むからそんな顔しないでくれ」
「そんな顔ってどんな顔よ」
「今にも泣きそうな顔してるじゃないか。これは僕が心配症なだけで、アレッサが準備していた分だって問題なかったんだ。だから君が落ち込む必要は全くないよ」
頭上から聞こえるエカードの落ち着いた声音は、私を労わるような優しいものだ。それが余計に泣いてしまいそうになるのだけれど、私はぐっと奥歯を噛み締める。
泣く暇があれば、この失敗を次に活かすべきなのだから。
一呼吸置いて顔をあげれば、声と同じように優しい表情を浮かべてはいるけれど、少しだけ困ったように眉尻を下げた彼と視線が重なった。
「私は泣いたりしないわ。あまりに自分が不甲斐無くて、恥ずかしいだけよ」
「そうか?まぁ僕の主観はそうって事だ。しかも今は両手が塞がってるから、君の頭を撫でられないしな」
少し戯けた様子で肩をすくめる彼に合わせて、箱の中の瓶がかちゃりと揺れる。いつもなら私が彼を慰める為に頭を撫でていたというのに、これではいつもの反対だ。
その温かな優しさが心地良くて、私は少しだけ口元を緩めた。
「何それ……エカードは私を甘やかしすぎだわ」
「誰よりも君自身が自分に厳しいんだから、僕くらいは甘やかしたって構わないだろう?」
「とんでもない詭弁ね。……でもありがとう。本当、昔は私があなたを助けていたのに、最近は助けられてばかりな気がするわ」
ずっと私が彼を守っていると思っていたのだけれど、いつの間にこんなにも頼もしくなっていたのだろう。私よりも小さかった背がいつしか私を追い越しても、可愛らしい弟分だというのは変わらなかったというのに。
そんなエカードの成長が嬉しくもあり、なんだか少し寂しいとも思ってしまうのは私のエゴなのだろうか。
「そうじゃなかったら僕が困るな。君に頼ってもらえるような男になれるよう、これでも日々努力しているんだから」
「泣き虫エカードのくせに生意気ね!」
「おいおい、いつの話をしてるんだよ!?というか脇腹は、駄目だっていつも言ってるだろ……っ!」
両手が塞がっていてがら空きになっている彼の脇腹を軽く小突けば、びくりと彼が少しだけ体を震わせる。必死に隠しているようなのだけれど、脇腹は昔から変わらない彼の弱点なのだ。
そんな風に変わっていくものもあれば、変わらないものもある。
いつも通りの何気ないエカードとのやり取りは、自分でも思っていた以上に張り詰めていたらしい明日からの任務への緊張感を、良い意味で緩めてくれているようだった。
「あはは……!なんだかエカードと話していたら元気になってきたわ!もつべきものは頼りになる幼馴染ね!」
「……幼馴染、か。それだけでも満足してた筈だったんだけどな……」
「うん?何か言った?」
ぽつりと何事か呟かれた声は、私に届く前に風に揺れてかき消える。なんだったのだろうかと小首を傾げるものの、彼は少しだけ頭を振ると、そっと目元を緩めた。
「いや、何でもないよ。それよりもアレッサ、これからライナ王女殿下が乗られる馬車の最終確認に行く所だったんだろう?僕もこれを運びたいから一緒に行こう」
「えっ、どうしてそれを……」
「アレッサの行動なら大体解るよ。何年一緒にいると思ってるんだ」
確かに私は表情に出やすいし、行動も解りやすい方だとは自分でも自覚があるけれど、それにしてもエカードは私よりも私の事を理解しすぎではないかしら。
そんな事を考え、私は少しだけ苦笑を漏らした。
「それもそうね。それであなたは、ついでに確認を手伝ってくれるつもりなんでしょう?」
「はは、バレたか。けど2人でやれば、その分早く終わるだろう?」
そう言ってエカードは満面の笑みを浮かべているのだから、本当にこの幼馴染は優しすぎる。これでよく厳しい世の中を生きていけるものだわと思うのだけれど、その恩恵を一番受けているのは私だろうから何とも言えない。
「エカードは本当に人が良すぎるわね。こんな貧乏くじばかり進んで引くんだから相当よ」
「僕にとっては当たりくじだよ。さぁ、明日も早いんだから手分けして終わらせよう」
王城の一角にある馬車停まりには、王族が使用される馬車の他に賓客用の物、侍女や侍従が使用する物や荷物用の物まで様々な種類の馬車がずらりと並んでいる。
その中でも濃い赤に少し紫がかったローズマダーを基調としたライナ王女殿下専用の華やかな馬車を隅から隅まで確認し終えたところで、私は少しだけ息を吐き出した。
車輪のぐらつきもないし、車内にも不備は見られない。王女殿下の荷物は明日早朝に侍女たちが積み込む予定になっているから、あとはそれを待つばかりの状態だ。
「ふぅ……ここは問題はなさそうね。エカード、そっちはどう?」
ほっと胸を撫で下ろしながら騎士団の荷物を詰んだ馬車の確認をしているエカードの方へと顔を向ければ、既に確認を終えたらしい彼がこちらへと向かってきている所だった。
「こっちも問題ないよ。回復薬も十分だし、武器や他の備品も問題なさそうだ」
「そう。これで一安心ね。後は何事もなくライナ王女殿下をキュールまで護衛するだけだわ。エカードのおかげで早く終わったし、今夜は安心して眠れそうよ!」
見上げた星空には雲はほとんど見られない。この様子なら明日も雨の心配はなさそうだ。
もっとも、ここ最近は日照り続きで雨は全く降っていないのだから要らぬ心配だろう。
馬たちは多少の雨でも問題なく歩いてくれるけれど、地面がぬかるめば馬車での移動は困難になってくる。だからこそ移動時には晴れている事が望ましいものだから、その点は安心できるのだけれども。
(……でも、このまま日照り続きだと飢饉になりかねないのよね。そうなる前に暑さの原因が解ればいいのだけれど)
だからこそ今も文官達はそのために働き詰めなのだろうし、キルシュ宰相様やウルリック国王陛下も対策に頭を悩ませておられるのだから。
夜でも灯が消える事がない王城へと視線を向けた私は、小さく溜息を漏らす。剣を振るう事くらいしかできない私にはどうする事もできない問題なのだけれど、少しでもいいからキルシュ宰相様の力になれる事があればいいのに。
頬を撫でる風はこの時間になっても生温く、こういう時こそ彼のあの涼しげな姿を拝みたいものだわとぼんやり考えながら乱れた前髪を軽くかき上げる。一息ついて振り返ったところで、少しだけ眉尻を下げたエカードと視線が重なった。
「っ……あのさ、アレッサ。あの話、受けるつもりなのか?」
「あの話……?何の事?」
「ほら、昼間に謁見の間でウルリック国王陛下が仰っていた事だよ」
謁見の間で私に関わる話といえば、ライナ王女殿下が発端となった結婚話しかない。せっかく記憶の片隅に追いやろうとしていたというのに、エカードはどうしてまたこの話を蒸し返そうとしているのだろうか。
咄嗟に頭を抱えたくなる衝動を抑えながら、私はつい目の前の幼馴染をじとりとした目で睨みつけてしまった。
「結婚の事ならまだしないわよ!……それはまぁ王命だって仰るのなら、臣下として従わない訳にはいかないけれど、あの御方はライナ王女殿下に頼まれたからといってそこまで独善的な命令をされる御方ではないもの。私の意志は尊重してくださる筈よ」
実際、ライナ王女殿下は本気だったのかもしれないけれど、ウルリック国王陛下は日々公務に追われていらっしゃるし、今はご懐妊されたエルリカ王妃殿下を最優先にされている。
そんな中で一騎士の結婚相手を探している時間だなんてあろう筈もないし、キルシュ宰相様が言われた通りあれはあの場を和ませる為の冗談だったに違いない。
万が一本気だったとしても、無理矢理結婚させようなどとはなされない筈だ。
そうどこか楽観的に考える私とは裏腹に、私に向けられたエカードの表情はまるで自分の事のように痛みを堪えるようなそんな切実なものだった。
「……ならアレッサは、王命が下れば相手が誰であろうと結婚するっていうのか?ずっとキルシュ宰相様の事が好きなくせに?」
いつもよりも低く囁かれた声に、私はぐっと押し黙る事しかできず、彼の真剣な瞳から逃れるように視線を逸らしてしまう。酷く口の中が乾いていく感覚に眉を顰めた。
「それは……もし万が一そうなれば、私は婿に来てくれる方を尊重するつもりよ」
「自分の気持ちを隠してか?そんなの君も相手も不幸になるだけだ」
あまりの正論に、私は返す言葉もなく唇を噛み締める事しかできない。
貴族の結婚は家同士の利益のために結ばれる契約である事は少なくない。それでも恋愛結婚をする者も多いし、そうでなくても結婚後に絆を深める者も多くいる。
例え家のための結婚だったとしても、婿に来てくれる相手を尊重すると言いながら、実は他に想う相手がいたというのはあまりにも不誠実だろう。
そう頭では解っていても、私はずっとこの問題を深く考えないようにしてきたものだから、それを私の事を私よりも理解しているエカードから突きつけられるというのはかなりくるものがある。
しんとした重い沈黙が流れる中、彼は一つ呼吸を整えるとゆっくりと口を開いた。
「…………僕じゃ駄目か?」
「えっ?」
「僕なら君がキルシュ宰相様を想っていても構わない。あの方を好きな君も全部ひっくるめて君なんだから」
急に何を言い出すのだろうかと困惑しながらも彼の方を見やれば、その瞳は真っ直ぐに私だけを捉えている。
向けられた表情も、声も、冗談を言うようなものでは全くなくて、私は妙な居心地の悪さを感じながらも視線を逸らす事が出来なかった。
「エカード、あなたってばそれこそ貧乏くじよ。他の人を想っているのに結婚するのは不幸になるって、たった今あなたが言ったんじゃないの。ただの幼馴染のためにそこまでしなくても……」
いくらエカードが優しいからといって、最初から不幸になると解っている結婚に自ら立候補するだなんて、私を心配していたとしてもあまりにもお人好しがすぎる。
それに婿入りの条件的にはエカードは何の問題もないのだけれど、彼には私なんかよりももっと素敵なお嬢さんが引く手数多だろうし、大切な幼馴染にそこまで甘える訳にはいかない。
昔は背も小さくて泣き虫だった彼は、今や王立騎士団に所属する立派な騎士で、優れた治癒術の使い手だ。外見も整っているし、性格も良い。むしろこれで婚約者がいないのがおかしいくらいなのだから。
「幼馴染、か……君は僕をただの幼馴染の男友達だと思っているだろうけど、僕にとって君は友達じゃない」
「え……」
友達じゃない。
そう言われて、私の心はまるで冷や水を浴びせられたように突き刺すような痛みを感じ、そのあまりの息苦しさに思わず胸の辺りを掴んだ手に力が篭もる。
ずっと一番の友達だと思っていたというのに、エカードはそう思っていなかっただなんて、俄には信じられない。信じたくない。
そう戸惑う私を見詰めるエカードは、困ったように眉尻を下げると、少しだけ口元を緩めた。
「僕にとって君は、友達以上の――この世の誰よりも大切で大好きな女の子なんだよ。それこそ君が僕を助けてくれた子供の頃からずっとな」
一瞬、彼の言った言葉の意味が解らなくて、私はぽかんと呆けたように目を丸くしてしまう。
まず初めに感じたのは、嫌われていなくて良かったという安堵感だ。その事にはホッと胸を撫で下ろしたものの、ゆっくりと染み渡るように彼の言葉が私の中に落ちてくるのに比例して、妙に顔が熱く感じるのはどうしてだろう。
「……返事は急がないよ。君にとったら思ってもみなかった話だろうから。でも、そんな可愛い顔をしてくれるんだったら、もっと早く言えばよかったな」
「っ……!?か、かわいい……!?あなた本当にどうかしているんじゃないの!?」
どう考えても呆けて間抜けな顔をしていたというのに、それを可愛いだなんてエカードの目は相当悪くなっているに違いない。
地上で息のできない魚のように、ぱくぱくと口を開く事しかできなくなった私に対して、彼はふわりと嬉しそうに破顔したかと思えば、いつの間にこんなにも近付いていたのだろうか。彼の柔らかな髪が私の頬を擽った。
「僕から見たら君はいつだって可愛いよ。だからアレッサ、僕のことを一人の男として考えてみてくれ。君の婿に相応しいかどうか、ね」
そっと耳元で囁かれた声は、私が今まで知っていたエカードの声と同じだというのに、知らない人の声のように熱を帯びていた。
何か言わなくては。
そう思うのに言葉は全く出てこなくて、呆然としたまま立ち尽くしていた私が正気を取り戻した時には、既にエカードの姿はどこにも見えなくなっていた。
「……エカードが私を好き……?本当に……?」
ぽつりと漏れた声は誰に聞かれる事もなく虚空へと消えていく。夜だというのに一向に涼しくならない気温のせいなのか、顔からは一向に熱が引いていく様子がない。
エカードが仲の良い幼馴染だからというのもあるけれど、これまで告白された事もなければ縁談の話もさっぱりなかったものだから、まさか彼が私を恋愛対象だと思っていたとは夢にも思わなかったのだ。
「明日からどんな顔してエカードに会えばいいのよ……」
どうしたらいいのかも解らないまま、私はくしゃくしゃと髪をかき上げると我知らず大きな溜息を漏らした。
そもそも私が好きなのはキルシュ宰相様だ。でもそれは私の一方的な片想いだし、万が一にも私の想いが彼に届いたとしても、お互いがそれぞれの家の嫡子である以上、これ以上の関係になる望みは全くない。
その点、エカードは嫡子ではないから我が家に婿入りができるし、私の事を子供の頃からよく知っていて、しかも私を好き……だと言うのだ。私がキルシュ宰相様を好きなままでも構わないとまで言ってくれるのは、きっと世界中のどこを探してもエカードだけだろう。
(こんなの、誰が見てもエカードと結婚した方がいいのは解るわ。解るけれど……)
それでも人の心というのは、そう簡単に割り切れないものなのだ。
答えの出ない考えがぐるぐると頭の中を駆け巡る中、とぼとぼとあてもなく歩いていた私は、いつの間にか王城の正面にある庭園まで来ていた事にようやく気付く。
この庭園は王族専用の薔薇園と違い、誰でも立入が許可されてはいるものの、流石にこの時間では人もまばらだ。まばらとはいえ明らかに複数の人の気配があるのは、それというのもここは侍従や侍女など王城勤めの者達にとって逢瀬の場となっているのだ。
普段はあまり気に留めないというのに、先程のエカードの求婚のせいで、今夜はどうにもそわそわとしてこの雰囲気が落ち着かない。
恋人達の邪魔をするのも申し訳ないし、早く騎士宿舎に戻ろうと足を早めようとした時だった。
「あっ……シトラスの香り……」
風向きが変わり、ふわりと香ってきたのは爽やかなシトラスの香りだ。
ライナ王女殿下の私室からも庭園のオレンジがよく見えていたから、きっとその香りなのだろう。そう解ってはいても、この香りはどうしてもキルシュ宰相様を連想してしまうものだから、私は吸い寄せられるようにその香りを辿ってしまっていた。
香りだけを頼りに庭園を進んでいけば、その先には予想通りオレンジの木々が並んでいて、やっぱりと思いながらも少しだけがっかりとしてしまったのは、本当にほんの少しだけキルシュ宰相様に会えるかもしれないと期待していたのだろう。
先日の殺気めいた視線の事を考えれば直接会うのはまだ少し怖い気もするのだけれど、明日キュールへと向かってしまえば暫くその姿を拝めない。謁見の間では直接会話する事は叶わなかったし、一目だけでも会えれば良かったのに。
そうして小さく溜息を漏らしたその時だった。
「プリーメル卿……?」
今一番聞きたかったその声に、私はハッとして声のした方へと視線を向ければ、オレンジの木々の更に奥、庭園の端にひっそりと佇むガゼボにその人の姿はあった。
その人――キルシュ宰相様は珍しく少しだけ驚いた表情を浮かべていたのだけれど、それは一瞬の事で次の瞬間には眉間にぎゅっと皺を寄せたいつもの表情へと変わる。そうして小さく溜息を漏らしたかと思えば、こちらへと勢いよく歩を進めてくるものだから、私は驚きのあまりに視線を彷徨わせる事しか出来ず、あっという間に目の前には美しく整った御顔が迫っていた。
「貴女という人は……明日の出立は早朝ではなかったのですか?私の記憶が確かなら、貴女は今回の随行の責任者でしょう?」
「も、申し訳ありません……!今すぐ帰って寝ますのでどうかお許しください!!」
明らかに怒っている様子の彼のその言葉は本当にその通りで、心の中では地面に頭を擦り付ける気持ちで私はびしりと姿勢を正して騎士の礼をとると、そのまま踵を返そうとしたのだけれど、それを阻むように私の手首は彼に捕らわれてしまっていた。
「……お待ちなさい」
「ひっ!?」
私が小さく悲鳴を漏らすのと、彼のしなやかな手が私の額に触れるのはどちらが早かっただろう。
一体何が起きているのかと目を白黒させている私とは裏腹に、キルシュ宰相様は至極落ち着いた様子で私の顔を覗きこんだ。
「随分と顔が赤いですが、熱でもあるのではないですか?いつも元気すぎるくらいだというのに、これでは――」
「だっ……大丈夫です!これはその、熱のせいではなくて、初めて求婚されたせいだと思いますから、全く体調には問題ありません!だから、その……御顔が近いです!!」
ただでさえ彼の手が私の額に触れているというのに、その上こんな近くに美しい御顔があるのだから、これで平静でいろというのはあまりに無理な話だろう。
どうにか適切に眺められる距離を保ってもらいたい一心で必死に声をあげていた私は、自分がまた考えなしに口を滑らせた事に全く気付いていなかったのだ。
「……は?」
その地を這うような低い声に、私は思わずヒュッと息を呑む。私の手首を掴んでいる彼の手に僅かに力が篭り、反射的に振り払おうとするのだけれど、それを防ぐように彼のもう片方の手が更に重ねられた。
「求婚された?どこの命知らずが貴女に分不相応な想いを抱いているというのです」
「分不相応って、何を――」
続く言葉は、私の口を塞ぐように押し当てられた熱に溶かされてかき消える。爽やかな筈のシトラスの香りが、ぶわりと濃密な程に纏わりついてくる感覚は眩暈がする程だ。
驚く程近くにある彫刻のような御顔も、頬に触れる薄氷色の美しい髪も、唇に感じる熱さも。全てが現実離れしていて、何も考えられなくなってしまう。
「っ……んぅ……!?」
あまりの息苦しさに呼吸もままならず、必死に口を開こうとするのだけれど、僅かな隙間から侵入してきた彼の舌に私のそれも絡めとられ、余計に息ができなくなるばかりだった。
うるさいくらいに鳴り続ける心臓の音は、自分のものなのかそれとも彼のものなのか。吐息も、熱も、全てが混ざり合ってどちらのものなのか解らない、こんな狂おしい熱情を私は知らない。
「貴女が好きなのは、この私でしょう?今更他の男と結婚だなんて、許しませんよ」
オレンジの木々の隙間から、僅かに漏れる王城の灯りが彼の姿を仄かに照らす。その煌めきに浮かび上がる彼の薄氷色の瞳は、ゆらゆらと燃える炎のように私だけを映していた。
読んでくださってありがとうございます!
作者のやる気に繋がりますので、面白かったと思って頂けたら下にある☆を押して評価やブクマを宜しくお願いします!