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3 夢のような思い出

 ――10年前――




「あぁ……どうして座学の試験なんてものがあるのかしら。騎士科で必要なのは剣術か魔術の腕前ではないの?」


 放課後のアカデミーの図書館。数日後に差し迫った座学の試験勉強のためにここにやってはきたものの、本を開いても眠くなるばかりで内容は少しも頭に入ってはこなかった。


 思わず頭を抱えながら呻いていれば、向かいに座っていたエカードがよしよしと私の頭を撫でる感触がする。


「大丈夫だよ、アレッサ。君は剣術の実技試験はぶっちぎりの首席なんだから、よっぽど悪い点数じゃなければなんとなかなるさ」

「そのよっぽどの点数になりそうだから頭を抱えているんじゃないの……エカードは座学も出来るからいいわよね」


 目の前でにこにこと微笑む幼馴染をじとりとした目で見てしまうのは、彼が剣術の成績は中の上といったところで、それでいて座学の試験はおそらく上位の成績をとれる安定さからに他ならない。


 私の残念な頭ではとてもいい点数をとれる気がしなくて、私は何度目かも解らない大きな溜息を漏らした。


「本当に頭の良い人って、一体どんな頭の構造をしてるのかしらね……キルシュ令息なんてきっとこんな問題一瞬で解いてしまうと思うのよ」

「最近の君は本当になんでもキルシュ令息を引き合いに出すんだな。まぁでもあの人は特別だと思うよ。入学時からずっと首席だそうだから。同期生にウルリック王太子殿下がいらっしゃるけど、一度もその座を譲られた事がないんだから()()()()()()()凄いな」

「何それ、どういう事?」


 いろんな意味でとはどうにも含みがある。首を傾げる私に対して、彼は少しだけ目を細めた。


「彼の実力は本物で、それでいて忖度する事もない高潔な人なんだろうって事。そんな人はなかなかいないものなんだ。きっと王太子殿下はキルシュ令息を最側近にされる筈さ。それに彼は『氷の公爵令息』と言われるくらい冷静な人だしな」

「ふぅん……」


 キルシュ令息を初めて見た入学式の時は、キラキラと輝く氷みたいに透き通るような美しさを持った人がこの世に存在するだなんてと本当に驚いたものだ。その上座学の試験は常に首席だというのだから、彼に苦手なものなんてきっと存在しないに違いない。


 そんな優秀な人なのだから、未来の国王陛下の最側近になるというのは当然なのではないだろうか。


(ただ、『氷』と言うのはあまり良い感じはしないのよね。氷は綺麗だし削ると美味しいから私は好きだけれど、皆の言い方は……なんだか冷たい人みたいに感じるんだもの)


 確かにあんなに綺麗な顔をしているのに、笑っている姿は一度も見た事がないけれど。


 そんな事をぼんやりと考えていれば、エカードはそれまで読んでいた本を閉じると、がたりと立ち上がってしまう。私がほんの少ししか復習できていない本を、彼は既に読み終えてしまったらしい。


「僕はちょっと他の参考書を探してくるから、アレッサはちゃんとそれを復習してて。それ一冊だけでも理解出来れば、ギリギリ大丈夫な筈だから。くれぐれも居眠りだけはしないようにな」

「うぅ……解ってるわよ」


 まるで私がすぐにでも居眠りをすると決めつけているエカードを恨めしげに見送ったものの、実際一人になってしまえばこの難しい本に催眠術をかけられたのではないかと疑いたくなる程に睡魔は襲ってくる。


 このままでは本当に居眠りをしてしまうと、私はふるふると首を横に振り、ばしんと強めに両頬を叩く。その音に周りにいた他の学生達がびくりと肩を震わせていたものだから、なんだか驚かせてしまったようで申し訳なくて、眠気覚ましがてら少し歩こうと席を立った。


 アカデミーの図書館には国中から集められたかなりの数の蔵書があり、一棟まるごと本に埋め尽くされているのだ。普段本をほとんど読む事がない私は、試験前でもなければここに近付く事すらないものだから、少し探検気分だったというのもある。


 本に興味はなかったけれども、蔵書が増えるたびに増改築を繰り返しているという入り組んだ構造は面白く、それに加えてオブジェとして飾られている珍しい置物や絵画を眺めていれば、気がついた時にはあまり人気がない辺りにまで入り込んでしまっていた。


(……うわ、この辺りは古語の本ばかりじゃないの。何が書いてあるのかもさっぱりだわ)


 適当に一冊手に取ってみれば、どうやらこの辺りは古語で書かれた昔々の本ばかりのようだ。きっとこんな難しい本を読む学生など殆どいないのだろう。


 だからこそこの辺りはしんとして静かなのかしらと納得していたところで、程近い所にあるテーブルに誰かがいる事に気付く。こんな場所にいるだなんて一体誰だろうかと気配を消してそっと本棚の陰から覗き込めば、見覚えのある美しい薄氷色の髪が揺れていた。


(あら、あれはキルシュ令息だわ。こんな人気のないところで勉強されていたのね)


 見れば彼の座っているテーブルにはたくさんの書物が積み上がっている。まさかあの量を全部読むつもりなのだろうか。


 どうやら書物に集中していて私には全く気付いていない様子の彼を驚かせないように、そろそろと音を立てずに近寄ってみるのだけれど、かなり近付いてみても彼の背中はぴくりとも動かなかった。


 これはもしや居眠りをしているのではないかしらと少しだけ湧き上がってくる悪戯心を抑えつつ、そっと彼の手元を後ろから覗き込む。


 ふわりと爽やかなシトラスの香りが香る中、キルシュ令息が読んでいたのは私には全く読めもしない古語の本だ。彼はそれを今の言語に訳しているようで、本の横に置かれた紙にはびっしりと文字が記されているのだけれど、その連なる文字があまりに美しくて思わず感嘆の息が漏れた。


「うわぁ……!物凄く綺麗な字だわ」

「っ!?」


 ついぽろりと口から漏れてしまった事で、ようやく私の存在に気付いたらしい彼は、がたりと音を立てて後退る。私へと向けられたその表情は、驚きに彩られていた。


 普段見かける彼は無表情な事が殆どだったものだから、こんな表情もできるのねと思う一方で、こんなにも驚かせてしまって申し訳なくもある。


「あ……その、急に御声がけしてしまって申し訳ありません。あまりに美しい字を書かれていたものですから驚いてしまって」

「っ……貴女がどうして……全く気配を感じませんでしたが……」


 驚いた表情は一瞬の事で、既に冷静さを取り戻したらしいキルシュ令息は、不審な者を見るような目で私の事をじっと見据えている。確かにいきなり背後に忍び寄られていては、完全に不審者だと思われてしまっても仕方ないだろう。


 私は一歩後退ると、その場で騎士の礼をとった。


「申し遅れました、私は騎士科1年に所属しているアレッサ・プリーメルです」

「……ガーラン・プリーメル騎士団長の御息女ですね。プリーメル伯爵家独特のその見事な赤毛を見間違う筈がありません。私は――」

「ライノア・キルシュ令息ですよね!勿論存じていますよ!入学式で初めてお見かけしましたが、間近で見ても本当にお美しくてすぐに解りました!」


 握手を交わそうとさっと手を差し出すものの、その手は握り返される事はなく、彼の眉間にはぎゅっと深い皺が刻まれてしまっていた。


 軽率だったかしらと、私は少し落ち込みながらも行き場のなくなった手をそろそろと引っ込める。彼はそれを見て小さく溜息を漏らした。


「プリーメル令嬢、男に対して『美しい』と評するのは如何なものでしょう。それに――」

「えっ!?美しいに男も女も関係ないと思います。キルシュ令息は誰が見ても美しいと思うでしょうし、私はあなた以上に美しい方を見た事がありません。それに実を言うと、入学式以来何かにつけてあなたの事ばかり考えてしまって、見かければつい目で追ってしまうのですよね」


 見た目で言えばエカードだってかなり整った顔をしているのだけれど、彼はどちらかというと可愛らしい部類だ。御令嬢にだって美しい方は大勢いるけれど、私は目の前にいるこの人以上に美しい人を知らない。


 幼い頃から剣術の訓練ばかりしていたせいだろうか。私自身は着飾る事よりもつい動きやすさを重視してしまうけれど、美しい人や物は見るだけで心が弾むし、たぶん一種の憧れなのだと思う。


 だからなのだろう。このとんでもなく美しい人の事ばかり目で追ってしまうのは。


 そう思ってつい本音を漏らしてしまったものの、キルシュ令息はふいと視線を逸らしてしまっているし、相変わらず眉間の皺は深まるばかりだ。私としては褒め言葉だったのだけれど、『美しい』と称されるのは嫌だったのだろうか。


(……でも、本当に美しいとしか表現できないのよね。だってどんな表情でも絵になるんだもの)


 とはいえキルシュ令息は眉間に皺を寄せるばかりで何も言わないものだから、私はどうしたものだろうかと頬を掻く。


 よく考えてみれば、私は一方的にキルシュ令息の事を見ていたけれど、彼にしてみれば私は初対面の怪しい女だ。それなのにずっと目で追っていただなんて、いい気はしないだろうし、この態度は仕方ないのかもしれない。


「あー……その、なんだかすみません。私ってば思った事をすぐ口にしてしまうので……それだけキルシュ令息が好きだって事を伝えたかっただけなのです」

「…………そう、ですか」


 たった一言、それだけ呟いた彼の視線はやはり逸らされたまま重なる事はない。本音はもっと話したいところなのだけれど、これ以上迷惑をかける訳にもいかず、私は勢いよく頭をさげた。


「本当に勉強の邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした。失礼致します!」

「っ……お待ちなさい」


 素早く立ち去ろうとしたものの、それは彼に腕を掴まれてしまった事で失敗に終わる。まさか引き留められるとは夢にも思わず、目を丸くして彼を見るのだけれど、真っ直ぐに私を見据える彼の表情はやはり眉間に皺が寄ったままだ。


 謝罪が足りなかったのだろうかと、私がもう一度頭を下げようとしたところで、掴まれた手に力が篭った。


「……ここまで来たという事は、古語の本を探していたのではないのですか?」

「へっ?」


 それは思ってもみなかった言葉で、私は間抜けな声を漏らしながら目を丸くしてしまう。


 どうやら彼は私が本を探してここまで来たというのに、何も持たずに立ち去ろうとしたから引き留めてくれたみたいだ。


 そんな事を気にしてくれるだなんて、なんて優しい人なのだろう。そう思えば、自然と笑みが溢れた。


「気にかけて頂いてありがとうございます。ですが、実はその……ここにはたまたま通りかかっただけでして、古語はさっぱりなんです。というか座学全般さっぱりなのですが……」

「剣術の実技試験は首席でしたよね?」

「えっ!?ご存知だったのですか!?」


 キルシュ令息は騎士科ではないし、学年も違う。だから公に試験結果が張り出されているとはいえ、まさか他科の1年の成績をご存知だとは思いもしなかったのだ。


 なんだかそれがとても嬉しくて、へにゃへにゃと顔が緩んでしまうのだけれど、彼はまた視線をさっと逸らしてしまった。


「今年入学したプリーメル騎士団長の御息女が、父君譲りの素晴らしい剣の使い手だというのは有名です。ですが、そうですか……座学が……」


 小声で何事か呟いていたキルシュ令息は、ややあって眉を顰めながら小さく息を吐き出した。


「貴女は将来有望な騎士候補なのですから、それが座学で落第などもってのほかです。私は大抵ここに居ますから、貴女がその気ならば試験に出そうな要点をお教えしましょう」

「えぇ!?そんな、よろしいのですか!?キルシュ令息も御自分の勉強がありますよね?」


 彼の後ろには積み上がった本の山がある。彼こそ古語の勉強中だったに違いないというのに、壊滅的な私の勉強を見てもらうだなんて申し訳なさすぎる。


「……実は、キルシュ令息は勉強なんてされなくても何でもできる完璧な方だと思っていたんです。ですがこれだけの本を読んで学ばれていただなんて本当に尊敬しますし、努力されている姿を見れば、ますます好きになってしまいます。ですから、私がそれを邪魔するだなんて出来ません」


 苦笑を漏らす私に対して、彼は真剣な表情で私を見据える。その瞳は吸い込まれそうな程美しく、澄んでいた。


「邪魔だなどと、そんな事は貴女が気にしなくとも良いのです。貴女を教えるくらい造作もありませんから」

「う……そう、ですか?それなら御言葉に甘えたいです」


 邪魔ではないときっぱりと言われてしまえば、私にはこの申し出を断る理由はない。寧ろキルシュ令息なら、私の落第を救う救世主となるのは間違いないのだから。


 私は深々と頭を下げると、ホッとした心地で息を吐き出した。


「あ、でしたら私の事は気軽にアレッサとお呼びください!教えて頂くのに、プリーメル令嬢ではなんだかむず痒くて……」

「解りました。それなら私の事もライノアと呼んで頂いて構いませんよ」

「はい!それでは暫くよろしくお願い致します、ライノア様!」


 今度こそと笑顔で差し出した手は、先程とは違ってぎゅっと握り返される。その手は涼しげな見た目とは裏腹に、とても温かかった。




 そう、出会った頃の彼は表情こそ険しかったけれど、『氷の公爵令息』だなんて言われているのが嘘のように優しかったのだ。


 それから座学の苦手な私に根気強く教えてくれたあの時間は、今では夢だったのではないかと思うくらい幸せな思い出だ。


 笑顔はなくても少しは打ち解けられているのだと、そう感じていたのは私だけだったのか、ある日を境に彼は私の事をまた『プリーメル令嬢』と呼ぶようになり、その表情は凍りついてしまったのだけれども。


 どうしてそうなってしまったのか、その理由は今も解らないままだ。






「……ッサ。アレッサ」


 ハッと顔をあげれば、訝しげに私の顔を覗き込むエカードと視線が重なる。どうやら物思いに耽りすぎていたみたいだ。


「大丈夫?僕の話、聞いてたか?」

「ごめんなさい、ちょっとぼんやりしていたわ。それで、何の話だったかしら?」


 小さく笑いながらそう言えば、彼は物言いたげな表情を浮かべながらも深くは聞かずに優しく目を細める。こういう思いやりができるところがエカードの良いところで、本当にいつも助けられていると思う。


「ライナ王女殿下がもうすぐ避暑のためにキュールに出掛けられるだろう?僕も随行を命じられたから宜しくな」

「あぁ、もう随行者の選定が終わったのね。エカードがいるなら安心だわ」


 キュールは王都より北部に位置した王家の直轄地内にある有名な避暑地だ。王都から馬車をゆっくり走らせて3日という近さでありながら、大きな湖もあり自然豊かで涼しい高原地帯なのだ。


 王家だけでなく貴族の別邸も多く建ち並び、比較的大きな街なのだが、ライナ王女殿下は毎年夏の1ヶ月程キュールに滞在されるのが恒例となっていた。


 随行者は基本的には第1騎士団から選定されるものの、魔術が得意な第6騎士団と治癒術が使える第5騎士団からも何名か選定されるのだ。


 エカードなら気心も知れているし、何よりライナ王女殿下は彼を気に入っている様子だから丁度良い人選だろう。笑顔を向ける私とは裏腹に、彼はじっと胡乱気な瞳を私へと向けた。


「安心って……大怪我は僕一人じゃ治せないんだから、くれぐれも無茶はしないでくれよ」

「キュールには何度も行ってるんだから大丈夫よ。あの辺りは魔獣の出現報告も少ないし、もし何かあってもライナ王女殿下だけは必ず護り抜くから」


 この時期キュールに向かう貴族は多いのだが、道中で危ない所といえばロイエの森くらいのものだ。時折魔獣は現れるものの、あの辺りは比較的弱い個体ばかりだから騎士団の精鋭達ならなんの問題もないだろう。


 むしろ毎年のこの機会は今年入団したばかりの新人騎士には良い実地訓練になるし、私たちが魔獣を討伐する事で周辺の人々にとっての安心にも繋がるのだから。


 そう思いながら私は彼を安心させるように笑顔で胸を張るのだけれど、彼からは呆れたような諦めにも似た溜息が漏れた。


「アレッサ、君が酷い怪我をしてもライナ王女殿下は悲しまれるという事だけは忘れないでくれ。勿論僕だってそうだ」

「でもいざという時にはこの身を盾にお護りするのが騎士というものだわ」

「はぁ……そうだな。そうならないように僕も頑張るよ」


 なんだかどっと疲れた表情のエカードに首を捻りつつも、今年も安全な旅路になるものだとこの時はそう思っていたのだ。






読んでくださってありがとうございます!


作者のやる気に繋がりますので、面白かったと思って頂けたら下にある☆を押して評価やブクマを宜しくお願いします!

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