微笑みの君へ 三の国の一の姫
連載のほうにも、間話として投稿しております。
よろしくお願いします。
わたくしが婚約者と出会ったのは、五つの頃でした。弟はまだ生まれておらず、わたくしは王家唯一の子。婚約者は、わたくしが女王になるとき、支えになるために選ばれたのだと言います。支え合い、愛し愛される。そんな夫婦になれればよいと思っていたものです。意外、ですか。わたくしとて女ですもの。少しは夢見ていたのですよ。
はじめて会った日は、冬でした。
トリェーチィでは毎日冬のようなものですけれども、そのうちとりわけ寒い季節のことでしたの。暖炉はあかあか燃えているのに、婚約者はとても青ざめていて、不思議に思ったのを覚えています。
美しいひとでしたわ。いいえ。ひとではないようでした。冬が人の形になったように、肌は真っ白で髪は銀色。瞳も氷のように澄んだ青でした。公爵家の次男だと言う話でしたが、公爵家の誰ともあまり似ておりません。身体が弱くて、生まれて以来ずっと遠くの別荘で静養していたのだと公爵は言いました。確かに顔色はよくありませんでした。けれどきっと、そんな身で王配などつとまるのかしらって、わたくしは不思議に思うべきだったのね。婚約者があまりに美しいから、すっかり舞い上がってしまって。何も聞くことができませんでしたわ。恥ずかしいこと。
「はじめまして。我が姫」
婚約者はわたくしを見つめて微笑みました。口数の多いひとではなかったのですけれど、それでも短すぎる挨拶です。わたくしは何も言えず、ただうなずきました。義父や他に同席していた者たちは、少し怖い顔をしていたように思います。理由ですか? 名も名乗らず、許しも得ずに話しかけるなど、目上の者への態度ではないからでしょうか。
けれどわたくしはね、嬉しかったのです。
婚約者は、姫とは呼びかけても、対等かそれ以上の視点でわたくしを見ていました。わたくしにそういう態度をとれるのは父上しかおられなかったものですから。母上さえ、公式の場ではわたくしより一歩下がらなければなりません。王とはそんなもの。孤独と隣り合わせで立っていなければいけないのだと、父上から教わりました。
今思えばおかしなことですわ。かつてすべての国は昼の王と夜の王が従えていたのです。神話によれば、神は大地を十二に分けて、昼と夜でさらに分けました。昼の一の王と夜の一の王が結ばれて、一の国を治めるようになった。それがこの国。北のトリェーチィなのです。代々伝わる冠は、神との約束の証であるとか。
まあ古いお話ですし、貴族の中でさえ、王に連なる血筋でなければ縁のないものではありますけれどね。
話が逸れてしまいました。わたくしが言いたかったのは、つまり、昼と夜は一対で、優劣などないのだということです。それなのに、わたくしたちはいつの間に冠をひとつにしてしまったのでしょうね? ええ、ええそうですわね。確かに王と王妃は、あるいは女王と王配は、揃いの冠を戴きますもの。それがほんとうに、神とともに語られる対の冠ならよいのですけれど。よかったのですけれど、ね。
弟が生まれたことも、わたくしには確かに喜びだったのです。
たとえ冠を戴かなくても、わたくしの隣には婚約者がいてくれるものと信じておりましたから。しあわせな未来を脅かされるなんてまるで思いませんでした。トリェーチィでは男女の別なく長子継承の習わしがありますから、弟が王になるとすれば、それはわたくしが死んでしまうか、あるいはよほどのことをしでかして、かしずくに値せぬと皆に思われてしまうか。そのどちらかになるでしょう。滅多に起こることではありません。……わたくしは楽観的でした。夢見がちでした。
「今日もあなたは楽しそうだね? 我が姫」
婚約者は公の場であっても、わたくしには対等な口調を使いました。父や義父や、他の重鎮たちが誰も止めず、わたくしがその態度を喜ぶものだから、責めるひとなどいません。いえ、もちろんいたのでしょう。けれどわたくしの耳にそれが届くことはありませんでしたの。
「あなたが隣にいるからだわ」
「それは光栄だね」
思い返せば、婚約者はいつもわたくしの先にいたのに。隣だなんて思い上がり、恥ずかしい限りだわ! 学問も政も娯楽のひとつも、わたくしが彼に優るところなどありません。
とても誇らしかった。劣等感なんてなかったの。だって、彼は特別ですもの。
完璧な伴侶を得る自分は誰より恵まれているものと信じておりました。事実、婚約してからたくさんの茶会や夜会に出席しましたが、わたくしにはいつも嫉妬の視線が降り注ぎました。わたくしは特別美しくありませんし、賢くもありません。ただ、生まれがよかった。こればかりは変えようのないものですから、どんな乙女もあるいは貴婦人も、わたくしの恋敵にはなり得ませんでした。
わたくしの世界は本当に小さく、それ故に完璧でした。……幼い頃の話ですわ。
婚約者のことを、わたくしは「微笑みの君」と呼びました。
彼は名前を呼んでも答えないことが多くって。いじわるではありませんわ。ただあんまりにも呼ばれないでいたから、それが自分だと気がつくのに時間がかかってしまうのです。幼い頃から、たった一人で静養の日々を送っていたのですものね。
正直に申し上げて、わたくしは義父にあたる公爵をあまり好みませんでした。よい家臣でしたわ。けれど、父親としては……。どうなのでしょうね。もちろんわたくしには普通の、健全な親子関係というものを実感する機会はありませんでしたが、それでも公爵家はいびつだと感じておりました。公爵の冷ややかで事務的な態度はもちろんのこと、婚約者は、公爵のことを「公爵」とか「閣下」とか呼んでおりましたもの。わたくしでさえ、非公式ならば国王陛下を「父上」と呼べるのですよ。それなのに……。
「ねえ、寂しくないのかしら」
侍女に尋ねたことがあります。
「彼はあんなに優しいのに、公爵はなぜ冷たいの?」
この侍女は公爵家に縁のある生まれだそうで、婚約者のことも昔から知っていたらしいのです。ほんとうはどうだったのでしょう。愚かなわたくしにはわかりませんが、少なくとも親しい間柄ではありませんでしたわ。
「冷たいのではありませんよ。わきまえていらっしゃるのです」
「わきまえる?」
呆れないでくださいな。わたくし、まだ八つかそこらだったのです。難しい言葉は勉強している最中でしたの。ね、お伝えしたでしょう。わたくしは頭がよくないもので、学問がやや遅れていたのです。
「身分を知っていらっしゃるのですわ」
侍女はわたくしよりたくさんのことを知っていたと思います。わたくしの影を務めたくらいですから。国の後ろ暗いところは大抵学んでいたのでしょう。少なくとも、公爵と婚約者に血縁などないのはわかっていたはずですわ。そう。彼は公爵家の人間ではありませんでした。公爵家は、時々先祖返りが生まれることで知られておりました。当代とは似ていなくても、遠い血縁者の色を受け継いでいれば、不義密通の子だと断言する者はおりません。彼だけがそうなのでしょうか。もしかすると代々の「先祖返り」も……。そこまで探れていたら、わたくしはこの世にいなかったかもしれません。あなたがこの話をどう利用するつもりか知りませんが、お気をつけて。相当うまくやらないと、危ういと思いますわ。公爵家ならやりかねません。国のために尽くす家柄ですもの。そうです。国のため。侍女さえ、わたくし個人ではなく肩書を見ていました。王家の姫というのは、わたくしの誇りでありました。けれどそれがすべてであると思われるのは、少し、疲れます。少しだけね。
「お前がうまくやらないから!!」
見たのは偶然です。うまく進められない課題から、ほんの少し逃げたくなって図書室の隅で物語を読んでいたところに、二人は来ました。婚約者は侍女に腕を掴まれ引きずられていました。
「姫様に疑問に思われることなど、あってはならぬと! お前、自分の役目を何と心得ているの!? 名前も持たぬ人形風情が……」
ああだめ。これ以上は口にできませんわ。とにかく侍女は婚約者をひどく罵り、青白くて痩せた背中を鞭で何度も叩きました。
わたくしは彼女のその……醜い……いわゆる、暴力。を見てはじめて、この世界の醜さやいびつさを意識しました。公爵家のことだけなら見えないふりもできたはずなのに、あの婚約者の微笑みが、どうしても目に焼きついて。
笑っていたのです。侍女は気づいていませんでした。彼の背中ばかり見て、そこに傷を残すことに熱中していました。けれどわたくしは、婚約者と目があってしまった。
婚約者は物陰のわたくしを見つけると、ほんの少し目を丸くして、背中の傷などまるでないようにいつもの表情を見せました。歳上ぶった、仕方がないなぁ、なんて声が聞こえてくるような微笑みです。
とても恐ろしかった。
とてもうつくしかった。
「今日はあまり楽しそうじゃないんだね」
次に会った日、心の底から不思議そうに婚約者は首をかしげました。周りには護衛やあの侍女もいて、わたくしは何もこたえられなかった。
「我が姫を悲しませるなんて、実に罪深いことだね」
彼はいつも楽しくて笑うのだと思っていましたの。でもひどい真似をされてなお笑えるのなら、あの微笑に本当の感情なんてあるでしょうか。
被虐趣味ですって? まるでわかってらっしゃらないのね。違うわ。全然違う。わたくしの婚約者はね、ずっと仮面をつけているの。微笑むことで他のすべての感情を隠してしまうの。わたくしには、それを剥ぎ取ることがどうしてもできなかった!
そこからはあなたがたの知るとおり。
わたくし、色々なことをしたわ。冷たくして、優しくした。課題の邪魔をした。たくさんお菓子をあげた。わたくしの失敗を彼のせいにした。あとでこっそり謝った。いじわるな噂を広めた。わたくし自ら庇ってさしあげた。夜会のエスコートを断った。お見舞いも断ったし贈られたドレスも捨ててしまった。わたくしの色を身につけるよう命じた。階段から突き飛ばした。怪我を手当した。他の男性を褒めそやした。彼のよいところを数えてみた。わたくしの行いを止める者はいませんでした。だって、婚約者が受け入れてしまうのだもの。歯止めがきかなかったのね。戯曲や昔話でできそうなことはほとんど試しました。傑作だったのは、ほら。あの最後の茶番ですわ。わたくしを時の人にしてしまった……もちろん悪い意味で。
「ねえあなた、いつもいつも笑っていて気味が悪いわ。あなたと愛を誓うなんて、想像するだけでもおぞましい。わからないの? 微笑みの君。これって皮肉よ? 伝わらなかったかしら? わたくし、あなたが大嫌いなの。婚約なんて今すぐに破棄してしまいませんこと?」
こんな具合で、大勢の前で婚約を破棄したの。夜会の音楽が止まってしまって、だから、こたえた婚約者の台詞はやけに響きました。
「今日もあなたは楽しそうだね。我が姫」
隣にいたのですよ。ずっと。でもそれだけ。婚約者はいつまでも婚約者で、夫になることもなく、恋人どころか友とさえ呼べない二人でした。
あれがせめて皮肉ならよかったのに。楽しそう。婚約者はわたくしを哀れんでくれました。ひとりで玉座に取り残される、片翼の王を。 「何ということをしたのだ」
国王陛下はひどく青ざめていました。婚約者より顔色が悪かったのだから相当です。公爵はあの日、わたくしに見切りをつけたのでしょうね。怒りさえしなかった。黙ってあの侍女を自分の手元に戻しました。
笑ってください。
わたくしは愚かな女でした。
そうすることでしか、愛するひとを逃がす方法を見つけられなかった。家臣となるはずの貴族たちに愛想を尽かされるのも仕方がない。
成人も間近になっていた頃の、この醜態ですもの。父上はとうとうわたくしから王位継承権をとりあげることに決めました。
わたくしは、婚約者をうしなった。
彼の行方ですか? 存じませんわ。自害したとか殺されたとかこつ然と消えてしまったとか、噂はたくさんありましたけれど、わたくしのために耳をふさぐような者は残りませんでしたから。
弟は立派に王位を継いだと聞きます。わたくしはそれを案じることも祝うことも、もう許されません。一介の修道女ですものね。
驚きましたか? 稀代の悪女が同時期に二人いるなんて、まったくおかしな話です。アル・ラベェの狂王、そしてトリェーチィの愚かな姫。このわたくし。うふふ。わたくしのやったことなど子どもの癇癪みたいなものですのに、身分があるだけで同列に語られるだなんて。
ねえ、わたくしは確かに愚か者ですが、何にも気づかないほど鈍感ではありませんの。
婚約者は、必要があるから用意されたのでしょう。冠は王を選ぶと言います。弟が戴いたのはきっとまがい物だわ。だってわたくしには婚約者がいました。真の王が真の冠を戴くための、手段としての姫でした。でも弟には、きっと支えは見つかっていないはず。未だに王妃が決まらないのは、そういうことでしょう? 違いますか? 父上はもういらっしゃらない。母上は弟を産み落とすと同時に力尽きました。それが王家の呪いというもの。まさか! 弟のせいだなんて! わたくしが呪うだなんて! とんでもないことですわ。ええ、神とわたくしのただひとりの婚約者に誓って、王家を恨んでなどおりません。信じられないのならば結構。でも今さらの調査なのですね。だってそれが運命なのでしょう? トリェーチィに限らず、王の伴侶はほとんどすべて短命です。魂だけになって王家の礎となるのが、伴侶のお役目だと侍女は言いましたわ。違うのですか? あらまあ。わたくし、ほんとうに色々なことを知らないまま生きてきたのだわ。
「まったくこれだから薄汚いけだものは! 国に命を捧げるべく生まれたものを……恥を知りなさい」
侍女には感謝しています。ほんの少しだけですけれど、気がついたのは間違いなく彼女の折檻を見てしまったせいですもの。
「冠さえなければお前など! ああおぞましい! 誉れ高き第一の国が、まさかこんな気味の悪い生き物を受け入れなければならないなんて。いいこと? 役目を終えたらお前はさっさと姫様の前から消えるのよ!」
身体の弱い婚約者は、はじめから死ぬために用意されたのでした。
わたくしに捧げられた生け贄。それが、彼。あの微笑みの裏側に、一体どれだけの恨みを隠していたことでしょう。望んだわけでもない地位のせいで鞭打たれ、玩具のようにもてあそばれる。わたくしは己の罪深さを知ったのです。あの美しいひとから命を奪うなんて、とても耐えられません。だから突き放しました。どこかで生きていてくれたら、いいと思います。微笑みなど無理に浮かべなくてもいい。そういう自由のもとで、どうか。
ふふ。言ったでしょう? わたくしは王になれなくてもよかった。弟が無事やっていけているのなら、安心しました。もちろん弟の伴侶となる方には感謝をお伝えくださいな。その方が怯えたから、弟はあなたがたに調査を命じた。そうしてわたくしは、わたくしなりに見つけた真実のようなものをお話する機会を得ました。
わたくしには彼しかいなかったのです。彼さえいてくれればよかった。たとえ自身が飾り物の女王になってしまっても、彼が手に入るなら構いませんでした。でも心の欠片さえもらえないのに、そばにいてもしあわせなのはわたくしだけでしょう? 支え合い、愛し愛される。わたくしが思い描いたのは、そういう一対の姿なのです。わたくしは彼の対にはなれなかった。ならばせめて、永遠に彼の婚約者でありたい。
あら、まだ何かお話が? 冠、ですか。銀でできていて、輝石を嵌めてあるものでしょう。ええ。見たことがあります。これでもかつては、次代の王になるはずでしたもの。でも一度だけですわ。当たり前です。わたくしの手元にはありません。たくさんお話をきいていただいたのに、手がかりになれなくてすみません。それともまさか……あ、いいえ。いえそんな。ふと思いついただけですわ。あの、根拠はないのですよ? わたくしだってなぜそんな憶測が浮かんだのかまるでわからないのですけれど……わたくしの婚約者が盗んだ、なんてことありますかしら。いえ、一緒に見たものですから。そうです。わたくしたちが婚約して、五年目の誕生祝いにね。厳重に保管されているものを父上にねだって見せていただいたの。婚約者はとても大人で、物静かなひとだったから、その時の横顔だけはよく覚えているの。いつもの微笑みではなくて、ちょっと苦笑していたような。
「これが冠なのですか?」
父上にこう聞いていました。いろいろ不敬ではありますけれど、思ったより洗練された意匠でなかったのは事実でしたわ。わたくしもちょっとがっかりしましたもの。それだけです。ね、明確な根拠なんてありませんでしょう。
都に戻るつもりはありませんわ。ここは厳しいところですけれど、わたくしには王城より向いているみたいです。
だから、ね。
あなたはあなたの場所で生きていくといいわ。冠がまがい物だから何だと言うの。あなたは王で、しかももうすぐ一人じゃなくなる。自信を持って立ちなさい。貴族たちは必ずしもあなたの味方ではないけれど、国のためなら何でもしてくれるから。愚かな姉でごめんなさい。後始末をさせてごめんなさい。さようなら。あなたはわたくしの、この世界で二番目に大切な男性よ。ふふ。だってきっと最後だもの。嘘で終わらせたくなかったの。……愛しているわ。
姉が死んだ。墓碑に名前は刻まれなかった。本人の遺志だと聞いている。
「恋に殉じた愚か者、ここへ眠る」
それだけで誰のことだかわかるくらい、姉は婚約者に恋をしていた。最初からいなかったみたいに消えてしまった、うつくしい男。姉の心を奪った稀代の大悪党を、私は未だ見つけられていない。
単独では伝わらない部分も多いと思いますので、ご指摘等いただけると助かります!
ありがとうございました。