廊下の向こうからパレードがやってくる
寝込んだ。熱が下がらない。熱が出るなんて、もう何年ぶりだろう。目を閉じると瞼が熱い。眼球が熱を放っているようだ。
仕事は休んだ。基本的に在宅ワークなので、なんとかできると思ったがダメだった。少し座っただけで椅子の座面は熱くなり、視界もぼやけてきた。
「風邪をひきました。休みます」
会社のノートパソコンで上司にチャットをすると、すぐに「お大事に」と返信が来た。私は少し悩んでから「ありがとうございます」とだけ送って、パソコンの電源を切った。
寒い。とにかく寒い。熱を測ると39.5度。平熱よりも4度も高い。頭の中で誰かがお湯を沸かしているみたいだ。
私は押し入れから毛布を引っ張り出して、ばたりと布団に横になった。古い木造アパートの小さな部屋で、私はせんべい布団の上で毛布にくるまれる。
看病してくれる人なんていない。心配してくれる人もいない。彼氏なんて、もう何年いないだろう。彼氏の作り方ももう忘れてしまった。
実家も遠いし、他に頼るあてもない。私は布団の上で、熱とはまた別のなにかに押し殺されそうな気持ちになった。私は逃げるように考えるのをやめた。
そういえば実家、もう何年帰ってないんだろう。電話をすることもないので、親の声もずっと聞いていない。連絡を取らなくなってかなり時間が経つし、今更どう接すればいいのかもわからない。
思い切って立ち上がると、ぐらりと体がよろけた。私はふらふらと体を引きずりながらなんとか台所へ向かい、いつか買った風邪薬を引き出しから取り出す。そして流し台に置いてあったガラスのコップに水道水を注いで、一気に薬を体内に流し込んだ。
ガラスコップの水を飲み干しても体は熱いままだった。薬がそんなに早く効くわけがない、そんなことわかっていたのにがっかりした。私は肩を落としながら、再びせんべい布団へ戻った。
目を閉じる。やっぱり目が熱い。じんわりと涙が出て、そして溢れた。熱い涙が頬をつたう。それを無視して寝ていると私の涙を何かが拭った。びっくりして目を開けると、目の前にうさぎがいた。
迷彩柄の服を着たベージュ色のうさぎが、後ろ足2本で直立していた。そして前足2本でハンカチを持って私の涙を拭いていた。ハンカチも迷彩柄だった。私は何度か瞬きをしてみたがうさぎは消えなかった。夢ではないようだ。
「どうも、涙が流れる音がしたので来ちゃいました」
うさぎは私の涙を拭き終えると、私に敬礼しながら話し出した。うさぎって話せたっけ? そんな疑問が頭に浮かんだが、うさぎは私の疑問なんてお構い無しに話し続けた。
「私、女性の涙にめっぽう弱くってほっとけないんですよねー。あのよかったらパレード見ません? パレード」
「パレード?」
「はい、パレードです。うん、それがいい、そうしましょう。じゃあ早速始めますね。お願いしまーす」
うさぎは私を無視してそう言うと、パチパチと2回前足で手を叩くように音を鳴らした。意味不明だが、私は寝転がったまま様子を見ることにした。何が始まるんだろうとぼんやりしていると、廊下の向こうの方から声が聞こえてきた。私は起き上がり廊下の方に向かって目を凝らす。
『□■はんたーい!』
『■○□を許すなー!』
『□◆の※□を守れー!』
廊下の奥から15cmぐらいの小さな人たちが、色とりどりのプラカードや拡声器を手に行進してきた。1人2人じゃない、かなりの人数だ。廊下の奥の方までみっしりと並んで歩いてくる。反対とか許すなとか守れとか言っているが、肝心なところが聞き取れない。
「あの、これはなに?」
私は思わず聞いてしまった。
「これは、あれですあれ。えっと、デモですね」
「デモ?」
「はい、たくさんの人が集まって行進していて、なんだかパレードみたいでしょう?」
「行進と言えば行進だけど、内容がなかなかヘビーじゃない?」
「そうですかね? よく聞いてみてください」
少しずつ近づいてくるデモ隊の声に耳をそばだててみる。
『生乾き臭はんたーい!』
『飯テロを許すなー!』
『ゴミ箱の分別ルールを守れー!』
「なにこの主張……」
「この町内の人たちの主張ですね。普段困っていることが叫ばれています。いかがですか? なんだか微笑ましいでしょう?」
「いや、微笑ましいというか何というか……そもそもデモの時点で物騒な感じがするんだけど」
「あら、お気に召しませんか。個人的にお気に入りなんですけどね。じゃあこれはなしで次にいきましょっか」
うさぎはそう言ってデモ隊に大きく手を振った。するとデモ隊は進行をやめて、そそくさと廊下の奥へ戻っていった。そして入れ違いでまた廊下の向こうから何かがやってきた。
ドンドンドン ドドドドドドド……
ドンドンドン ドドドドドドド……
リズミカルな太鼓の音が床から響いてくる。なんだかさっきよりも軽快な雰囲気が近づいてきた。瞬きするのも忘れて廊下を眺めていると、今度はタータンチェックの民族衣装を身にまとったたくさんの黒ねこたちが行進してきた。
バグパイプを持つねこたちが前、太鼓を抱えるねこたちが後ろに並んでいる。赤いタータンチェックのスカートがみんなよく似合っている。乱れることなく、歩幅を揃えて行進してくる彼らはとってもかわいらしい。
ドンドンドン ドドドドドドド……
ドンドンドン ドドドドドドド……
リズミカルな太鼓の音がどんどん私に迫ってくる。しかし、何か変だ。いや、そもそもねこがマーチングしている時点で変なんだけれど、それはこの際置いておこう。何が変ってバグパイプを持つねこがたくさんいるのに、誰も演奏しようとしないのだ。
「ねえ、聞きたいことがたくさんあるんだけど……」
「一つに絞ってもらえますか? 私、不器用なもので」
「ああそう……じゃあどうしてバグパイプを持っている子たちは演奏しないの?」
「いやー、いつもなら演奏しているんですが、今日は演奏メンバーが休みでして」
「休み?」
「五日前に新入りの歓迎会をしたそうなんですが、その時に行った居酒屋で食中毒が出ちゃって」
「食中毒?」
「はい、みんな寝込んじゃってます。保健所に連絡したり、検査を受けたり、かなり大変だったそうです。で、本日は急遽他のチームから演奏担当を補充したんですよ」
「他のチームって?」
「マーチングのイベント企画チームに、イベントチケットの販売チーム、あとそれから広報チームです」
「で、いろんなチームから補充した結果がこれ?」
「はい、頭数はなんとかなったんですが演奏ができるねこがいなくて」
「…………ねこたちも大変ね」
「そうなんですよ。演奏はありませんがどうです? かわいくて癒されませんか?」
「……そうね、でもできるなら次をお願いしてもいい?」
「かしこまりましたー」
うさぎはねこたちに向かって大きく手を振った。するとねこたちは行進をやめて廊下の向こうへ引っ込んでいった。気のせいかもしれないが、バグパイプを持ったねこたちの顔が少しホッとしているようにも見えた。
「次はどうしましょう? 趣向を変えて百鬼夜行なんていかがですか?」
うさぎが腕組みをしながら私に聞いてきた。
「百鬼夜行? 妖怪がたくさんの?」
「そうですそうです。廊下に収まるようにサイズはミニチュアですが、行進するのはみんな本物の妖怪ですよ」
「……いや、遠慮しておくわ」
本物の妖怪がいるということは偽物の妖怪もいるのだろうか? 少し気になったが私には聞く勇気がなかった。
「じゃあそうですね。これなんてどうでしょう」
うさぎがそう言うと突然部屋の中が暗くなった。電気は消え、仕組みはわからないが窓の外も真っ暗になった。私はびっくりして体が固まり身動きが取れなくなった。不安になり、うさぎに声をかけようとしたその時だ。廊下の向こうから明るい何かがやってくるのが見えた。
「これは……」
私は言葉を失った。
鮮やかに光り輝く汽車や船、ドラゴンの形をしたステージが一列に並びながらゆっくりと進んできた。よく見えないがドラゴンの後ろにもたくさんの輝くステージが並んでいるのが見える。
ステージの上には何人かのパフォーマーがいた。彼、彼女らはそれぞれのステージのテーマにぴったりな色鮮やかな衣装を着ていて笑顔で踊っている。
ステージの周りにもたくさんのパフォーマーがいて、キラキラと光る衣装をはためかせ、踊りながら行進している。ああ、これは知っている。私はこのパレードを見たことがある。
「このパレード、ご覧になったことがあるでしょう?」
うさぎがうっとりとパレードを眺めながら言った。
「ええ、見たことがあるわ。子どもの頃に親にせがんで連れて行ってもらったの。行ったのはその一度きりだけど大切な思い出よ……まあ、今の今まで忘れていたけれど」
「でも今こうして思い出したのならいいんじゃないですか? 生きていたら忘れることもありますよ」
「そうね。でも、まさかうさぎに慰めてもらう日がくるとは考えたことなかったな」
「人生何が起こるかわからないものです」
「そうね」
そう言ったところまでは覚えているが、私の記憶はここで途切れた。
気がつけば夕方になっていた。窓から赤い夕日が差し込んでいる。私はせんべい布団に横になって、毛布にくるまっていた。見渡したがうさぎはいなかった。どうやら夢を見ていたようだ。
私は半日ほど寝ていた。時間を無駄にしてしまったような残念な気持ちになった。でも、そのおかげか風邪はすっかり治っていた。体のだるさもない。
私はゆっくり起き上がり台所に行って水を飲んだ。それにしても変な夢を見たな。いつもなら夢なんてほとんど忘れているのに、うさぎとの会話もしっかり覚えている。妙なこともあるもんだ。
元気になったし買い物に行こうと思った。冷蔵庫が空っぽなのを思い出したのだ。私は布団を片付けて、出かける用意をした。
「……あ」
さっきまで布団があった場所に一枚の小さなハンカチが落ちていた。私は思わず頬が緩んだ。
そうだ、週末に実家に電話をかけてみよう。それで次の連休に遊びに行ってもいいか聞いてみよう。理由を聞かれたらどうしよう、恥ずかしいけれど顔が見たくなったとしか言いようがない……
私はそんなことを考えながら床に落ちていた迷彩柄のハンカチを拾った。