ピアノの彼
「 201B室…202B室…あった、203B室」
扉の前からひっそりと中の様子を覗くと、何やら涼しげなメロディが聴こえてきた。
誰かいるのだろうか。目を凝らして見ると、ダークブラウンの髪の男の子のシルエットが見えた。
(え?ピアノ?)
もっとよく見ようと目を細めると丁度こちら側に振り向いたその子と目が合った。
(あ、やばい。どうしよ)
慌てて会釈をするとその人は躊躇いがちに目を泳がせ、小走りでこちら側に走ってきた。
「使いますか?」
「あっ、えっと、はい…。14:00から使う予定です」
「ああ、そうなんですね。」
その人はそういうと、白いシャツの袖を軽くめくり、時計を見た。思いの外白くきめ細かい肌が覗き、私は思わず目を背ける。
「14:00まで使わせてもらってもいいですか?」
「えっ、あっ、た、多分大丈夫だと思います…」
14:00からの稽古だから、それまでは大丈夫だよね。
「ありがとうございます。もし14:00を過ぎてしまっていても僕が気付かないようだったら声をかけてもらってもいいですか?そんなことがないように気をつけますが」
「あ、はい、え」
バタン、と扉が閉まる。思いがけないタイミングで扉をしめられ思わず心臓のあたりがヒヤッとする。何なんだ、あの人。
段々と彼のその態度が無礼なものに思えてきて腹が立った。
すみませんくらい言ってから扉を閉めなさいよ、だとか、もう少し申し訳なさそうな顔くらいしなさいよとか、笑顔くらい見せなさいよとか。
変な人。
若干引きずりながら近くの自動販売機で120円の水を買いソファに座って台本を開く。
今日の稽古、ちゃんと気持ち入るかな…。
不安で心臓がギュッとする。
「ここは失敗する場所なんだから。稽古で失敗しなくてどうするの。自分を守っていてもしょうがないよ」
昨日の演出家の言葉を繰り返しなぞり、その通りだと思いながらも、やはりまだまだ殻に閉じこもっている自分がいる。
どうすればいいんだろう…。
体が鉛のように重くなっていく。自分の弱点はそこだと知っているが、そんな簡単には克服できない。
ため息をつくと203B室から穏やかなメロディが溢れてきた。
(これ、さっきの人が弾いてるのかな?)
思わず立ち上がりメロディに耳を傾ける。
「これねえ。またあいつかな」
「えっ」
振り向くと、今回の舞台の共演者がいた。4つ年上の女性。真っ赤なリップにおおぶりなピアス、濃く太いまつ毛が綺麗にカーブして上がっている。そのハッキリした顔立ちに思わず見とれる。
「ここの名物なのよ、あいつ。いつも203Bでピアノ弾いてんの。部屋を予約しないでさ、予約団体と予約団体の間の時間にピアノ弾いてんのよ。ここ、3時間2500円ですごいお得なんだけど。それすらも払えないのかなあ」
「そうなんですか?」
「そうそう。何もこの建物の経営者の息子だかで払わなくてもいいって噂もあるんだけどさ。払えよって話よね。」
何だか不安な話に私は力なく笑った。
壁にかかっている簡易な時計を見上げる。時計の針ははもう13:58を指していた。