第六章 風雲メリーゴーランド
第六章 風雲メリーゴーランド
変態将棋を終えて、下校する俺の肩を後ろから掴む者がいた。
握力から考えて男性だと思い振り返ると、本能寺先生だった。
「小牧ちょっと付き合え」
俺に拒否権は無かった。
学校に連れ戻されると思いきや、そのまま校門の外に歩かされる。
気分的には治外法権の外に連行されている。学校以外は無法国家なのだ。それは世紀末の世界観。
陰鬱な俺を無視して、本能寺先生は学校近くの蕎麦屋に入る。
そこで俺は少し安心した。『居酒屋じゃなくて良かった』 と。
その安心感は席に座って三十秒で終わった。店主が無言で蕎麦焼酎の一升瓶を持って来たのだ。
ご丁寧にも一升瓶には『本能寺様』 と書かれてあった。蕎麦湯もセットで置かれていった。
「何でも好きな物を奢ってやる。注文しろ」
「じゃ、カツ丼でお願いします」 ここは取調室では無いのだが、それ以外の選択肢は考えられない。
本能寺先生の前には、すでにお摘みセット的な小鉢が並んでいる。
先生はコップに焼酎を注ぐと、蕎麦湯で割った。
俺は思った。『コイツは只者じゃねえ』 動物的危機管理センターの警報音が最大級で木霊する!
そして大きなミスを犯していたのにも気付く。カツ丼ではいけなかった。
注文すべきは蕎麦粉。蕎麦では無い。蕎麦粉が必要だ! 蕎麦粉なら注文して直ぐに来る。
俺は蕎麦粉を鼻から吸って「ひゃっはー! これは上物だ! これでトリップしてくるぜ!」 の一言と共に蕎麦屋を立ち去るべきだったのだ。別に蕎麦の実そのままでも問題無かったのに。大きなミスだ!
次の手段は「これから禁断の蕎麦の実を栽培に行かないと!」 と言って逃走するか? だがカツ丼はまだ来ていない。最低限食べ終わるまでこの手は使えないのだ。
他の逃走手段を考えてると、本能寺先生はまだコップを手にしたまま、飲んでもいない様子だった。
「先生?」 お酒を前にしてお預け状態なのは、俺としては助かるのだが、どうも様子がおかしい。
「ん? ああすまん。ちょっと考え事に気を取られてた。今日は小牧に話があってな」
「どうぞいつまでも気を取られていても大丈夫です。その方が先生の身体にも良いのでは?」
俺の精神面にも良い作用が期待できる。
「話というのあたしの武勇伝だ。あたしは子供の頃から沢山の武勇伝を作ってきた」
「今も生徒の中で武勇伝が作られてますよ。夜の居酒屋でも数々の武勇伝を作成中と、噂に聞いてます」
俺もこれから、その武勇伝の犠牲者の一人になるのだ。
「それは武勇伝にもならん話だ。今から話すのが本当の武勇伝だ、それも最近まで自分でも忘れていた武勇伝」
「では、慎んで拝聴します」 この武勇伝を聞き終わったら、生き延びれていられるのか? 不安だ。
「あたしは幼少期から走るのが異常に速くて有名だった。鬼ごっこで一度も鬼になった事が無いのだ。あたしは鬼の子供が捕まえる事が不可能な速さで走っていたんだな。しかしその速さ故に『鬼走りの萌ちゃん』 の異名を戴いた。鬼になってないのに。武勇伝だろ?」
「本物の武勇伝ですね」 たぶんその異名の由来は、萌ちゃんの走っている時の形相が鬼だったからに違いない。
「その異常な速さは高校生になっても変わらなかった。あたしは二年生の時にインターハイに出場して二位になった。一位になれなかったのは無念だったが、武勇伝の一つにしても構わんだろ?」
「この学校にそんな事出来る生徒はいないです。武勇伝ですね」
「うむ。そのインターハイで別種目で一位になった同級生がいたんだ。彼女は走高跳びの選手で、あたしの親友だった。全国優勝の親友を持つ。武勇伝だ」
「そうですね」
「百メートル走と、走高跳び。全く違う種目だからライバル心も起きない。彼女が跳ぶ時のフォームは綺麗だったものだ。全力疾走しているあたしのフォームとは正反対だったが、相性が良かったんだ。彼女と親友として過ごした時間が、あたしの青春だった」
「はい」 本能寺先生はまだお酒を飲んでいなかった。
「だが三年生のインターハイの直前に、彼女とは親友ではなくなった」
「喧嘩でもしたんですか?」
「いや、喧嘩ではない。彼女は亡くなった。死亡だ。死んだ相手と親友で居続ける事は物理的に不可能だろ」
「事故か病気で?」
「彼女はビルの屋上から柵を飛び越えて亡くなった。彼女らしい亡くなり方だ。彼女なりの武勇伝的な最期だ」
「平凡な俺としては武勇が勝り過ぎてるように感じます」
「小牧はそう思うか? あたしは最近そう思うようになった。なってしまった」
やっとカツ丼が来た。でも食欲は湧かない。先生もお酒を飲んでいなかった。
「熱いうちに食べろ。あたしの武勇伝にはまだ続きがある」
とりあえず箸を割ってカツ丼を食べた。取調室でもきっと同じ感想を持つはずだ。『味がしない』
「彼女が亡くなって、あたしは青春が終わったと自覚した。競技に真剣に取り組めなくなったからな。あたしには、彼女が何であんな最期を迎えたのか分からなかった。あたしがそれを分かるような人間だったら、きっと彼女も親友のあたしに伝えたはずなんだ。だから親友でも理解出来ない事を抱えたまま、彼女は跳んだ」
「もっと武勇伝的な話を聞きたいですね。本能寺先生らしくないです」
「問題無い。続きがあると言ったろ。あたしはそれで先生になる事にした。親友でなくても先生だったら、彼女のような最期を迎える人を減らせると思った。そして見事、あたしは先生になって生徒指導の担当になった。どうだ、武勇伝だろ?」
「文字通りの武勇伝ですね。凡人には出来ないです」
心がしんみりするが、武勇伝と言っても良いはずだ。
「そうか? しかし武勇を持ちすぎると弊害もあってな、先生とは文字通りの先生だということに気付くのが遅すぎた。これは蛮勇という弊害だ」
「蛮勇ですか?」
「そうだ。先生というのはただ先に生まれている人間ということだ。そして教師というのも教えるだけの人間だ。人を救うには救世主を目指さなければいけなかった。馬鹿で蛮勇なあたしはそれに気付いてなかった」
「救世主なんて目指す方が蛮勇ですよ。それに本能寺先生はそれでも平凡な俺を指導しようとしてくれてます。立派な先生ですよ」
桶狭間先生の事は伏せておいた方が良いだろう。
「お前と長久手に関しては、男女交際をしろと指示はしたが、指導はしとらん。お前たちは指導不可能だからな」
「何でですか?」
「お前たちの世界が終わっているからだ」
「酷い言い方!」
「酷くも何ともないぞ。世界が終わってる人間なんて腐るほどいる。指導する人はいない。世界が終わってる人間は指導も必要無いからな」
「先生、これから救世主を目指してみればどうですか? 本能寺先生なら可能ですよ!」
出来る事なら俺も救って欲しい。長久手さんは手出し無用な気もするが。
「それにはあたしはもう歳を取り過ぎた。世界が終わってるというのは言い過ぎたな。要は青春が終わって、自己完結しているんだな。小牧と長久手は」
「それは悪い事ですか?」
「大いに結構な事だぞ。あたしも青春が終わって先生を目指した。青春したままだったら、今頃地下アイドルをやっている可能性もある。青春とは恐ろしい物でもあるからな」
『なまはげアイドル萌子ちゃん』コールをしてあげたほうが良いのだろうか? お返しにコップごとお酒を浴びそうなので遠慮しよう。
「だからあたしは先生をやっている。そして生徒指導の担当だ。相手は青春真っ最中の生徒だ。あたしが青春のしっかりした終わらせ方を指導してやる。悪くない仕事だろ?」
「そうですね。凡人の俺には無理ですが、良い仕事だと思います」
「しかし青春というのは、とても取り扱いに注意が必要でな。あたしにも手に負えない場合があるのだ」
本能寺先生は一気にコップのお酒を飲み込んだ!
「あたしは武勇伝で話したように、短距離を一気に走るのが得意なのだ。そして思考タイプも同じで短距離を駆け抜ける。生徒相手にも、首を掴んで一緒に走る事しか出来ん。だが生徒の中にあたしの走りに付いて来れない者がいる。そうなるとあたしはお手上げだ」
「そうですね。走ろうともしない奴だっているでしょうしね」
「ああ、青春というのは短距離もあるし長距離もある。ハンマー投げみたいに回転して放り投げないといけないタイプもあるんだな。それで気付けた。親友があたしに何も言わずに跳んだ理由が」
「別種目の悩みは理解出来ない」
「そういう事だ。お手上げになったあたしは、走ってしまった」
「どこにですか?」
「酒だ。酒に走った。逃走だな。だがそれでもあたしは幸せだ。親友のように跳べないからな。跳んだらお仕舞いだろ? それに酒のお陰で青春相手に立ち向かえる」
「ちょっと健康には良くない走り方ですね。先生は武勇伝を俺に聞かせるはずですよ?」
「そうだったな! でも最後にはあたしの武勇伝で終わるから心配するな。で、今は二十八歳。独身だがお前に先生として、絶対の真実を教えてやる」
「有り難く教えて頂きます!」
「人間は歳を取ると忘れる、という絶対の真実だ」
「何それ平凡!」 ちょっとシリアスになってた俺を返せ!
「世界一の凡人を目指す小牧にちょうど良いだろ。だがあたしはお前より十年以上先に生きてきた、先生だ。教師として教えられる最大で絶対の真実だ」
「先生、十年以上前に百メートルダッシュした方が良いですよ!」
「酒を飲んでしまったから、途中で虹色シャワーを噴射してしまう。だからそんな事はしない。そんな姿、桶狭間先生に見せられん」
「一度見られてるから大丈夫です。それに介抱もして貰えますよ」
「その手があったか! いや、話がずれたな。忘れるという部分で大事なのはな、人間は自分に都合の良いように忘れるんだ。記憶を綺麗にダイエットする。ついでに補正もする」
「桶狭間先生向けに、ピッタリなお見合い写真ですね」
「百メートルダッシュ、百本やってこい! だが小牧の言葉が真実だ。あたしは十年近く掛けて、親友の記憶を綺麗にして、無駄な部分も綺麗に隠した。だから彼女の最期も武勇伝として記憶出来ている」
「最近似た話を聞きました。『新情報によって、人の記憶は修正される、都合良く』 哀しい言葉ですよね」
その時の長久手さんの表情を思い出す。笑っていた気がする。
「そんな台詞言えるのは長久手だろ。だからお前たちの世界は終わってるんだ」
「先生も一緒じゃないですか」
「全然一緒じゃないぞ! あたしは忘れる事が哀しいなんて考えないからな。逆だ逆! 忘れるから楽しく生きていける。美味しい酒が飲める。この話も明日には忘れてる。どうだ?」
「ここだけの話、こんな酷い教師は初めて見ました。今忘れて下さい」
「そうだ! 酷いだろ? 酷いついでに、三方原を見るまで親友の笑顔も忘れてた話をしておこう。
本能寺先生はまた一息で、コップのお酒を飲み干した。
「親友はあたしの中で跳んだままの状態だ。彼女は綺麗なフォームで最期を迎えた。そう記憶する事があたしに都合の良い弔い方だ。それで良いと確信してる」
「ええ、たぶん親友の方も陰気な先生は見たくないでしょうね」
「不味い酒にしかならんしな。ただ、あたしは親友の笑顔まで補正して記憶していた」
「でも三方原を見て、補正前の笑顔を思い出したんですね。良かったじゃないですか」
「良かったかもしれん。でもあたしは自分に都合良く記憶していたんだぞ。だから疑問に思った」
「何をですか?」
「彼女はそもそも笑っていたのか? という疑問だ」
こんな真剣な表情の本能寺先生を見たのは初めてだった。
「それを俺に言われても答える事は不可能ですよ。その笑顔は先生の中にしかない。それこそモナリザの微笑じゃないんですから」
「モナリザの微笑?」
「ついさっき、そんな話をしていたんですよ。モナリザの微笑は観る人によって解釈が別れるって」
「それも長久手だな。もう少し健全な交際を期待していたが、世界が終わった者同士では無理があったか」
「でも長久手さんにはお世話にもなりましたし、感謝もしてます。今大事なのは、先生の親友と三方原だと思いますよ」
「そうだ。あたしの親友については、後であたしが考えれば良い。今考えるのは三方原ミカだ。あたしは三方原を見て、親友を思い出した。だから不安なんだ」
「三方原を生徒指導室に呼び出したらどうですか? それで話をすれば良いと思いますけど」
「それだけだったら簡単だ。だがあたしは短距離的な対応しか出来ん。三方原の表情を見ただけで、あたしには指導出来る自信は無くなった。親友を救えなかった自分も思い出したからな。先生失格だろ。あたしが三方原を勘違いしているだけなら良いんだが」
「それで俺をここに連れてきたんですね。でも俺は三方原とは友達でも無いです。三方原が何か悩み事を抱えていても、それを話してくれる訳がないですよ。三方原の友達を連れてくるべきですね」
「青春は取り扱いが難しいのだ。三方原もその友達もたぶん青春の中にいる。話をさせても慰めにはなるかもしれん。だが救えるのは世界が終わった人間だけだ」
「だったら適任者は長久手さんです。彼女なら可能かもしれません」
奇想天外な手法かもしれないが、俺も長久手さんに助けられた。だったら三方原にも通用できる可能性がある。
「いや、ここは小牧以外には無理だ」
「理由を教えて下さい」
「それはお前が笑わない人間だからだ」
「その言い方、容赦無さ過ぎ!」
本能寺先生は俺の言葉を聞いて爆笑した。酷い先生だった。
「そうだな。でもお前は世界が終わって、笑わなくなったんだな。だからこそ、笑っている人間を客観的に観れる。モナリザの微笑もお前なら解明出来るぞ」
解明出来たところで、何か意味があるのか? 凡人には意味不明だ。
「先生は俺に、三方原の救世主になれって言ってるんですか?」
「なってやってくれないか?」
世界一の凡人へ道は現在暗礁に乗り上げている。
だからといって救世主への道なんて、平凡な俺に行けるはずが無いのだ。
依頼主も酔っ払いの指導者。虹色シャワーの道を通れる自信は、湧いて来なかった。
「なれそうに無いと思ってるな? だが問題ない。これも先生だから断言出来るぞ」
「また酷い事を言うつもりですね?」
「これもまた真実だ。凡人だって人を救える」
「凡人には無理ですよ」
「真実だ。ニュースを見てみろ。事故や災害で人を救った救出者がいるだろ? 彼らだって平凡な人々だ。それに救っている相手は、親でも友達でも親友でも無い。赤の他人を救ってさえいる」
「三方原は事故にも災害にも遭ってないです」
「青春というのは、ある種の事故で災害だ。だが普通はそれで死ぬ事はない。稀に大きな事故や天災を起こして、当人を殺す事があるから危険なんだ」
「先生の親友みたいに?」
「そうだ。だからこそ小牧なんだ。親でも友達でも親友でも無い、笑わない他人のお前なら、三方原を救える、力になってやれる」
「平凡な俺には、三方原が何を抱え込んでいるのか分かりません」
「それも分かっている。凡人には無理かもしれん。だが世界一の凡人を目指しているお前なら、出来るかもしれんのだ」
「『困っている人がいたら出来る範囲でお手伝いする』 これは平凡な事だからやりますよ。でも凡人には、三方原が困ってるように見えないんですけどね」
「あたしもそれが理解できたら、親友を救えた。青春とは本当に面倒な代物だろ?」
「カツ丼のお礼に、三方原には平凡な対応を続けますよ。もしそれで彼女の青春を見つけたら、それも平凡に処理します。俺にはそれしか出来ないですから」
「それで良い。お前が成人だったら一杯奢ってやるぞ」
「平凡にお断りします!」
「では代わりに武勇伝をもう一つ奢ってやろう。あたしの青春は高校時代に終わったが、ところがどっこい、あたしは今、青春真っ最中だ。花盛りだ。凄いだろ?」
「青春の正体は桶狭間先生ですね?」
「分かってるな小牧! カツ丼もう一杯いくか?」
「もう勘弁して!」
「いらんのか? でもそういう事だ。困った事に青春は何度でもやって来る。これも先生としての真実の教えだ。困った、困った」
全然困って無い表情だ。
「それは武勇伝になってないですね。『オケタンと萌ちゃん』 の関係になって武勇伝になります」
「では、その武勇伝完成のために作戦会議を始めるぞ」
「禁酒しろ! それで作戦成功だ!」
「酷い!」
「酷いのはそっちだ! 生徒に絡み酒すんなや!」
いつの間にか来ていた盛り蕎麦を、本能寺先生が平らげてから俺は帰る事を許された。
俺は鬼走りで帰った。
日曜日の午前十時を過ぎた時、スマホの着信音が音を立てて俺は目を覚まされた。
フリーダイヤルからの着信。たぶん携帯会社かどこかの勧誘電話だろう。
「もしもし?」 事務的な声で対応してみる。
「あら変態さん。平凡な電話の出方をするのね」
こんな電話の話し方をするのは一人だけ。長久手さんだ。
「起きたばかりなんだ。変態行動をするのには早すぎる。ところで今回は何の電話かな? スマホ新プランの提案?」
白いお父さん小牧犬が目に浮かぶ。たしか月額一メガバイト、一億円。丁重に断ろう。
「提案なんてご丁寧な話ではないわ。取り立てのお電話よ。小牧君はわたしに借金をしてるでしょ。返して頂戴」
「身に覚えが無い。架空請求だろ!」 長久手さんからは一円も借りた記憶も無い。借用書も無い。
「いいえ。小牧君はわたしに借りがある。傭兵代を貰って無いもの。踏み倒しは許せないわ」
「ああ。そうだった。俺は長久手さんを雇ったんだった。一億円は無理だけど、偉人の野口さんは何人かいる。返済は明日で良いかな?」
俺は傭兵の長久手さんの活躍によって、静かな土曜日を過ごせた。お礼として借金王の野口を差し出すのに、何の躊躇いも無かった。
「そんなに待てないわよ。返済は今日。受け渡しは葛西臨海公園で。待ってるから」
通話は途絶えた。一方的な通告だった。債務者に拒否権は無いようだ。
俺は身支度を整えて、最寄り駅に向かった。駅にある立ち食い蕎麦屋で蕎麦ブランチを決め込む。蕎麦粉はオーダーしなかった。
目的地の葛西臨海公園の最寄り駅までは一時間位掛かる。電車に乗りながら、改めてスーパーコンピューターの恐ろしさを感じた。
長久手さんはどこかの会社のフリーダイヤルを、一時的に乗っ取ったのだろう。
それに俺の電話番号。俺は長久手さんに番号を教えていないのだ。そして長久手さんの番号も知らない。
きっとそれは、俺の情報殺しと虫余けの時には把握されていたはずだ。
しかし葛西臨海公園で受け渡しとはどういう事だ? 内陸部に住んでいる俺には馴染みの無い場所だ。
駅を降りて葛西臨海公園の入口に着いたが長久手さんはいなかった。
彼女は待っていなかった。でもそんな事では、俺はもう驚きもしない。
それに公園に着いた瞬間に長久手さんがどこにいるのかも分かってしまった。
大きな目印があったからだ。
俺はその目印に向かって歩く。海が近いからなのか季節の変わり目なのか分からないが、風が強く吹いていた。
雲も風に乗って、勢い良く走り抜けていく。鬼走りのスピードもあれくらいだったのだろうか?
推定時速を計算していると小さく肩を叩かれた。
「どうしたの変態さん? 変態丸出しの顔してるわよ?」
「なまはげが世界最速で走れる存在だって解明されたんだ。驚きで変態顔になるのは我慢してくれ」
「そんな事考えてるなんて小牧君、変態末期症状よ」
「長久手さんに変態と言われたのは今日は四回。自覚してるから末期じゃない」
「末恐ろしい変態ね」
今日も平常運転の長久手さん。平時と違うのは服装だけ。無地のライトグリーンのワンピースに、薄手のグレーのカーディガンを羽織っている。
柄も何も入っていないが美しいと平凡に思った。
この強風でワンピースが捲れてくれないかな、とも思った。
末恐ろしい変態だった。
「待ちくたびれたからランチは済ませて貰ったわ。悪いわね」
「悪く思う必要は全く無いよ」 そもそも絶対に悪いと思って無い。
「それで傭兵代だけど、野口さんは何人必要なのかな?」 樋口一葉にならない事を祈るのみだ。福沢さんは残念ながら俺の財布にいない。
「野口さんは必要ないわ。今日は小牧君にメリーゴーランドに一緒に乗って貰う。それで傭兵代にするわ」
そう言って、長久手さんは大きい目印を指差した。
「長久手さん、平凡に言わせて貰うとあれはメリーゴーランドじゃない、観覧車だ」
大きな目印は観覧車だ。メリーゴーランドでは決して無い。
「わたしから見たらあれはメリーゴーランド。縦回転と横回転、方向が九十度傾いてるだけよ」
「遊園地業界にピカソ的発想を持ち込んだ!」
「わたしはメリーゴーランドが大好きなの。ただ回転しているだけ。浮遊感も恐怖感もスピード感も無い。それでもマスターピースとして遊園地に存在している。偉大な乗り物よ」
「だったらメリーゴーランドに乗れば良い」
「小牧君は高校生にもなってメリーゴーランドに乗りたい?」
「乗りたくない」
「そう。絵面として寒いのよ。メリーゴーランドは親子で楽しむべきなのね。だからこれに乗るの。ここは遊園地と違って入園料も必要ないし」
言い切るとピカソ的メリーゴーランドにすたすたと歩き出す長久手さん。無茶苦茶な理論に妙に納得してしまった俺はその後を付いて行く。
「観覧...メリーゴーランドの料金は俺が払う。それで良いよね?」
「ありがとう。傭兵代として上乗せさせて貰うわ」
料金所に行ってみると、一人当たりの料金は野口以下だった。これで借金王にならずに済む。
並んで待っている間、俺たちは話す事も無かった。無言だ。
案内されて座席に座る。並んで座らずに対面で座った。
出発して間もなくしてこの巨大メリーゴーランドについての解説が始まった。
「日本最大級の観覧車、いや、メリーゴーランドとして考えれば世界最大だ。長久手さんの世界観は偉大だな」
「そうでしょ? わたしのお気に入りスポット。最初のデートにちょうど良いと思って」
「それに最後のデートにもしっくり来るね」
「別れ話は下りになってからと思ってたのに。小牧君は変態ね」
「六回目だよ! 変態のペースが早い!」
長久手さんは笑った。
「でも不思議。何で別れ話になると分かってたの?」
「何でだろう? 長久手さんから電話が掛かって来た時に分かってたんだ」
「変態的な感を持っているのね。悪寒がするわ」
「それは高所恐怖症のせいにしておいて! でもそうだ、その前から分かってたからだよ」
「いつからかしら?」
「俺が長久手さんを見つけた時。将棋部の部室で。平凡な話だよ」
「変態話よ!」
「超ハイペース! でも当たってるはずだろ?」
「変態的な解説をお願い出来る?」
「それは長久手さんが神出鬼没だから」
巨大メリーゴーランドの解説ナレーションは、まだ終わっていなかった。
「神出鬼没?」 長久手さんは眉をひそめた。
「そう。長久手さん本人は知らないかもしれないけど、君は神出鬼没で有名なんだ。どこにいるのか分からない人。それを俺が見つけてしまった。だから恋人関係ではいられないんだ」
「変態的な解説で支離滅裂に聞こえるわ」
「もう! 平凡な俺にはここまでが限界! これ以上の解説は変態でないと無理だ!」
「構わないわよ」
「変態になると、今回はスカート捲りで済まない。それで良いの?」
「どうせこれは別れ話なのよ。別れ際に何を捲られても許してあげるから」
「じゃあ遠慮無く捲ってやるよ! 普通の凡人は他人の『核心』 を突いてはいけない。『核心的』 な部分は許される場合がある。でも核心本体を突いてはダメだ。相手を大ケガさせる可能性があるんだ」
「続けて頂戴」
「神出鬼没が長久手さんの核心の一つだった。神出鬼没はどこにも存在が無いから出来る本当の神業だ。でも俺は発見方法を解明した。核心を突いたんだ。それでは神業を発揮出来なく無くなる。誰にも見付けられたく無い長久手さんは、だから別れたいんだ。別の言い方でを突くとすれば、残念ながら、この世界に長久手さんの居場所が無いんだよ」
「酷い指摘ね」
「酷いだろ? だから凡人は言いたく無かったんだ。でも俺は凡人的な配慮をしてたよ。長久手さんは遠慮無く俺の核心を突いただろ? 俺は大ケガをする前にスカートを捲って逃げた。お陰でブルマを見れたから許してる」
「変態的な配慮じゃない。わたしは小牧君のどんな核心を突いたのかしら?」
「『なぜ世界一の凡人を目指そうとしたのか?』 あれが俺の核心の一つだ。俺は長久手さんに何をして世界一の偉人になりたいのか、どうしたいのかは聞いたけど、『なぜ』 世界一の偉人を目指そうとしたのかは聞かなかった。凡人的な配慮だ」
「そうだったわね。そして小牧君は『なぜ』 か、の理由も解明出来てる。変態さんね」
「それが長久手さんの核心のもう一つだから触れなかった。変態でも配慮はする」
「ならいっそのこと、もう一つの核心も突いて頂戴。変態らしく」
「長久手さんはこの世界で誰よりも小さいからだよ。世界一の偉人を目指しているのそのためだ」
平凡で哀しい答えだ。
「何があったのかは知らない。でも何かを経験して、長久手さんは自分の小ささを自覚したんだ。それに居場所が無い事も。だからこその世界一の偉業であって偉人なんだ。平凡な答えだけど俺には目指せない。尊敬するよ」
「尊敬? 馬鹿しているようにも聞こえるけど」
「馬鹿になんかして無い。俺と違って長久手さんは戦っている」
「そう? あと、わたしたちが別れる理由、まだ有るわよね。小牧君はわたしの事を好きでは無いから」
「平凡だけど当たってる。長久手さんは美しい。こんな美しい女子高生に恋をしないなんて変態だ。でも俺は、失恋して二ヶ月で新たな恋に落ちる程の変態でもない、平凡な変態なんだ」
「なんだか平凡だけど興味深いわ。聞いても良い?」
「話しても良いけど、このメリーゴーランドもそろそろ終了だ。時間切れだね」
地上が近くなって来た。このメリーゴーランドを降りれば俺たちの関係も終了だ。
誘導員がやって来て俺たちに降車するように声を掛けてきた。
「悪いけど、片面の景色しか見れて無いの。もう一周させて貰うわ」
呆気にとられた誘導員は「あ、はい」 の一言で俺たちを見送った。美人の押しきりに反論の余地が無かったのだろう。
「小牧君、席を交替しましょ。もう片面の景色も綺麗だから」
「長久手さんは、本当に平凡な手段を使わないね。俺も呆気にとられた。美人特約だな」
席を交替しながら感心するしかない俺。
「変態特約も付いたから無料でもう一周。良かったわね。それで小牧君の平凡話が気になるわ」
「今となっては滅茶苦茶平凡な話だよ。結果俺は笑わなくなったけど、笑い話だ」
「概要だけで最高の変態話。悪寒がするわ」
地上間もないのに美人を悪寒させる、俺の変態は天井知らずの有り様だった。
「失恋の話の前に、まずは部活の話かな。今は平凡を目指す変態をやってるけど、昔の俺は凄く良く笑う人間だった」
「笑う変態?」
「いや、良く笑う凡人だった。良く笑う人間ってどうなるか知ってる?」
「良く笑う変態になる」
「違う! 笑う人間の元には人が寄ってくる。別に笑わせる必要も無いんだ。笑いが起きてる所は楽しいからね。自然と人が引寄せられる」
「小牧君から初めてまともな話を聞いたわ!」
「俺も長久手さんからまともな話を聞いてみたいわ! でも昔はそんな感じで楽しくやってた。普通に友達もいた」
「そこに変態がやって来た」
「まだ来てない! でもまあ、一年生の時は部活にしっかり励んでいたよ。笑いながらね。でも二年生になって新キャプテンの先輩になってから、部活の雰囲気に少し変化があった。でも最初は気付かなかったんだ」
「小牧君は気付かずにキャプテンへ変態行為に及んだのね?」
「及んだのは変態行為以上の最低な行為だった!」
「最低な行為? 小牧君は何を捲ったの?」
「捲って無い! でも最低な行為の結果、キャプテンは部活を辞めてしまった。俺はキャプテンが辞めてから暫くしても、それを理解して無かった。笑って部活をしてた」
「何をしてしまったの?」
「言った通り、笑ってた。笑ってた事に問題があった。笑いの質だよ。部活の雰囲気の変化は笑いの質の違いにあったんだ」
「変な話をするのねぇ」
「そうだろ? 変な話だよ。最初はくだらない練習内容とかで笑ってた。でも笑いはどんどん変わっていった。最後にはキャプテンのしている事で笑ってしまう事になった。俺は大いに笑っていた結果、人を嗤う人間になっていた」
「そしてキャプテンは辞めたのね」
「正解だ。俺はその正解に笑いながら気付いた。最低だろ? 人を嗤う中心地にいて、知らずに人を傷つけても嗤ってたんだ。だから俺は部活を辞めた。先輩に申し訳無かった気持ちと、人を嗤う部活の雰囲気に嫌気が差したから」
「小牧君が笑わなくなった原因ね」
「そうだね。この世の一番の悲劇ってさ、悲劇が起きてるのに喜劇だと思って笑って観賞する事だよ。センスが無いんだ。悲劇で無様その物だろ。俺は無様に生きるのが嫌だった。でも俺は恋をして無様を繰り返した」
俺は正直に話す事にした。
「別に振られた彼女に今は恋をしてはいないし、逆恨みもしてない。しっかりと告白してしっかりと振られたからね。さっぱりした気分でさえいる。ああ嘘だ。やっぱり少し引きずってるな」
「彼女のスカートを捲れなかった事が後悔なのね?」
「何で分かるの? どうせなら振られた時に捲っておけば良かった!」
「そこが駄目ね。恋愛なんて病気だもの。病気を治すには荒療治くらい必要よ」
「凡人はそこに気付けないもんだよ。俺は彼女の笑ってる所が好きだった。部活を辞めて笑わなくなったから、自然と笑ってる人に惹かれていたのかも知れないな」
「変態らしく無いわね」
「そこは凡人らしく恋してたんだよ! 無様だったのは友達に恋愛相談したんだ。好きな彼女の名前を隠して相談した。友達は『好きなら告白すれば良い』 という平凡なアドバイスを貰ったよ。そして振られた」
「平凡な話よ。無様ではない」
「これが実に無様な笑い話だった。俺が告白した彼女と友達は、実は付き合っていたんだ」
「あらら」
「俺は友達に、友達の恋人の事が好きだから相談に乗ってくれと頼むという、実に無様な事をしてた! 俺マジ変態! それに二人とも同じクラスメイト!」
話していても悶える衝動が込み上げてくる!
「小牧君はお二人が交際してるのを知っていたの?」
「二人は周りに隠れて交際してたんだな。だから知らなかった。今のところそれが俺の一番の黒歴史。二ヶ月前だ」
「友達とはそこで縁を切ったのね」
「そこが長久手さんが突いた、もう一つの俺の核心だったんだよ。君は俺が『逃亡者』 だと言った。それに俺が『何と』 戦おうとしていたのかも聞いた。俺は恋と部活の青春に敗れて敗者になった、と自分を都合良く錯覚させて記憶してたんだな。でも長久手さんに、俺はズバリと核心を突かれて逃げた。俺は本当は『人間関係』 から逃げた『逃亡者』 だった。だから部活の連中と友達からも逃げて一人になった」
「小牧君が世界一の凡人を目指すようになった出来事だったのね」
「滅茶苦茶平凡な笑い話。きっと俺は凡人以下なんだ。だからこそ凡人を目指している。そして世界一を目指せば無様にはならないと思ってる。長久手さんも似たようなもんだろ?」
「なぜ分かるのかしら?」
「これは変態話になってしまうけど、長久手さんに二回殴られて分かった」
「超変態!」
「そうだ変態的に分かった! 一発目は拒絶のパンチだ。痛かった。でも二発目は全然痛くなかった。普通は二発目の時にもっと強烈なパンチで拒絶すべきだったよ。でも長久手さんは俺の核心を突いたと同時に自分の核心も突いたんだ。だから力の入ったパンチが出せなかった」
「変態探偵小牧君の真骨頂を見たわ!」
「変態の名に懸けて解明してやったわ! ただ長久手さんは『人間関係』 から逃げてない。戦って、相手を傷つけて遠ざけている『容疑者』 だね。逃げてないんだから君は偉いよ」
「本当に偉いと思ってる?」
「本当に偉いと思ってる。凡人には出来ない。でも少し、長久手さんの事を哀しく思うよ」
「酷い言葉ね」
「そうだ、酷い言葉だ。だからこの辺で別れ話の締めにしとこう」
メリーゴーランドが地上に到着するまで、もう時間が無かった。
今度は平凡に下車出来た。誘導員は話しかけてこない。俺たちの平凡ならざる空気を、敏感に感じ取ったらしい。
先に下車していた長久手さんは振り返ると言った。
「どう? なかなか綺麗な景色だったでしょ?」
「良かったよ。俺も変態らしく、長久手さんを散々捲らせて貰えて楽しめたし」
「別れ際の出血大サービスの大盤振る舞い。これで未練無くお別れ出来るわよね」
「大丈夫! ストーカーになる事も無いから安心してくれ」
「それでも小牧君の変態は変わらないわ。安心して頂戴」
「俺が安心して良いの? 長久手さんはこれからどうする?」
「もう一周メリーゴーランドに乗ってくるわ。一緒にいかが?」
「遠慮しておく」
「それではさよなら」
「さよなら」
という事で俺と長久手さんは平凡に男女交際に終止符を打ったのであった。