その一
「ではそちらの入り口からお入りください」
受付嬢にそう告げられるとカフェインゼロのコーヒーをすすりながら半自動的に扉へと足を運んだ。廊下の奥にある全面が白い壁と天井で作られた診察室に入ると、仏のような顔をした医者が回転椅子に座っている。
「健康診断だね」
仏のような顔からわずかに覗く澄んだ瞳で、カルテなどの書類を見つめながら言った
「今の時代、国の監視下で栄養管理までされてるんだから健康診断なんていうのは時代遅れなもんでね」
喉の奥で相槌をうつと、医者に促されるまま席に着く。
「クリストファー・ミラーくんだね」
依然、書類から目を話そうとしない医者を見ながら聞いた。
「クリスと呼んでください。ところで、そんなに私のカルテには興味深いことが書かれているんですか」
そう答えると医者は、やっとクリスに目を向け答えた。
「まあそうだな。なんというか。何が君をマイノリティとしているのかさっぱりわからん。何か自覚はあるのかね?」
クリスは眉をひそめ疑わしげに答えた。
「今マイノリティとおっしゃいましたか?」
「何か心当たりでもあるのかね?だいいちこの歳になるまで何故露見しなかったのか…」
医者はブツブツと何かを唱えながら手元にある資料に再び目を通すと頬を吊り上げ答えた。
「理由はわからんが、じきに君の家に通達が届き当局が君を迎えに行く。そしたら」
「そのあとは知っています。ありがとうございました」
「まあまて。私から見れば君は普通だ。マジョリティなのだよ。きっと何かの間違いに違いない。私からも大統領に通達を出しておこう」
「通達を出したところで何も変わらない」
医者は仏のような顔に戻り答えた。
「しかしどちらにせよ間違いなく君は壁の外に追放だ。だったらまだ少しの希望にかけてはみないかね」
クリスは足取り重く妻のリサが待つ自宅へと帰りなが頭を回していた。何故だ?何故私がマイノリティに?普通に生きてきたというのになんだ。妻はどうする。何を間違えた。だいいち私はマイノリティに選ばれた人間の収容所の職員だぞ。きっと誰かの陰謀に違いない。すると誰の仕業だ。
「おかえりなさい。あなた。買い物にでも行くの?」
笑顔を浮かべる妻に呼び止められ我に帰る。危うく庭を通り過ぎスーパーの方へと行ってしまうところだった。
「牛乳がもう切れてるかと思ったんだ」
先ほどまで考えていたことも誤魔化すように笑顔で答えた。何もかもが今まで通りじゃないか。むしろ今まで何を間違えてしたというんだ。きっと何かの間違いだ。陰謀なんかじゃない。政府の下請業者の下っ端がデータ入力を間違えたのさ。だいいち南半球にクリストファー・ミラーなんてありふれた名前何人いると思う?玄関を開けるとグリルしたチキンのいい香りがした。
「今日はあなたの誕生日でしょ?だから本物の動物性たんぱく質の摂取が許されたのよ。私も久しぶりに肉なんか焼いたからドキドキだったわ」
くそ。あの医者め。あいつの話のせいで自分の誕生日も忘れていた。
「ねえ。早くスーツから着替えて夕飯を食べましょうよ」
リサの上ずった声にかきたてられ階段を登り寝室へと急いだ。スーツを脱ぎながら今日起きたことを一つ一つ思い出してみることにした。いつものように目が覚め、隣に寝ているリサを起こし、朝食を食べ、上司に指定された病院に健康診断に行って色々な機械の中を右往左往とたらい回しにされただけだ。少なくとも今日何かが突然起こったわけではない。俺が生まれてからずっと俺ですら知らなかったこと。
「ご飯冷めちゃうわよ」
リビングからリサが叫んでいる。正直なところグリルしたチキンを食べたいのは俺ではなくリサだとクリスは思った。
「ネクタイがほどけなかったんだ」
席に座りながらクリスが言った。
「嘘でしょ。何か考え事をしてたに違いないわ」
クリスは一度ためらってから不審げな目をしているがそれでも口元には笑みを残すリサの顔を見つめてから一呼吸を置いて言った。
「俺には何かマイノリティな部分があるかな」
リサは何を言っているのかわからないという顔をして答えた
「あなたは私にとって一人しかいないんだから、ある意味ではマイノリティよね」
言い終えてから機嫌よさげにチキンを盛り付けるとクリスの前に置いて付け加えた
「あなたはマイノリティなんかじゃないわ。少なくとも壁の外にいるような人たちとは違う」
俺もそうであって欲しいと思いながらサラダ味のレーションを口に運んだ。
「実は。健康診断でマイノリティと言われたんだ」
チキンを食べていたリサの口が止まり中身を喉に押し込んでいるのがわかった。
「きっと何かの間違いよ。国に確認をとって貰えばすぐにわかるわ。だってあなたは」
「マイノリティを確保する職員だ」
クリスはリサを遮って言った。自分が一番分かっている。何度もこのことについては考えてみた。だがしかしどこにもおかしいところはない。むしろおかしいほどに普通なのだ。
「明日は仕事を休んで一緒に確認を取りに行きましょう」
ナプキンで口元を拭き取りながらリサが言った。
「ダメだ。本来なら逃げる暇を与えないようにすでに同僚が来てるはずだ。ただ同僚は俺だとわかって少しばかり猶予をくれているのかもしれん」
しばらく沈黙が続きリサが口を開いた
「逃げられないの」
その声は少し震えていた。
「逃げる場所なんて壁の外しかない。所詮ここは狭い壁の中だ」
すると右腕につけていたデバイスから警告音が鳴り出す。体内に流れているナノマシンの登録が削除されたんだ。もうそんなに時間がないとクリスは察した。
「もう車すら運転できない。ナノマシンが切られた」
リサは泣きそうな声で
「私が運転するわ。だから一緒に逃げましょう?お願いだから一緒に逃げて。きっと何かいい方法があるはずよ」
言い終えるころには泣いていた。
「逃げたり抵抗すれば、もっと状況が悪くなるだけだ。君もよく知っているだろ?」
だいいちナノマシンがある時点で逃げ場はないのだ。壁の中はある程度の自由や平和と引き換えに厳しい監視と管理がある。逃げ場はない。すると家のベルが静かになった。その時が来たらしい。同僚が俺にくれた最後の時間が。
「俺が出るよ」
リサは半狂乱だった。俺も全てを受け入れられていたわけではない。ただそれ以上に抵抗した時のリサへの影響が心配だった。抵抗したマイノリティの親族が罰則を食らうことはないが巻き込まれることはある。そんなことを望んでいなかった。玄関を開けると同僚のジョージが立っていた。
「クリス。俺も今まで気がつかなかった。残念だよ」
クリスは両手を小さく上げて言った。
「抵抗する気はない。だから妻のことは頼む」
ジョージは小さく頷くと一緒に来いと車の方に向くとクリスが
「気が変わったよ」
クリスの声を聞いて振り返ったジョージに体当たりをして腰から吊るしている麻酔銃を手際よく取り外しジョージから距離をとった。
「何をしてるんだクリス。抵抗しても無駄だぞ。お前だってよくわかってるだろ。だいいち自分のマイノリティを隠して生きてたお前が悪い!」
興奮した声でジョージが言った。
「それはどうかな。わからんね。俺の何がマイノリティなんだ?お前と何が違う。リサだっているのに」
銃口をジョージに向けながらクリスが言った。
「なあクリス落ち着けって。お前みたいなタイプは珍しいだろ?この歳になってからマイノリティだなんて。普通は生まれてすぐか物心つく頃には俺らが確保して、それで一件落着だ。先祖の時代から壁を作ってからずっとそうしてきただろ?今やマイノリティが生まれてくる確率は果てしなくゼロに近い。なのにお前の存在だ。国がみすみすお前を壁の外に放り出すとは思えない。大統領が何を持ってお前をマイノリティとしたのか俺にもわからない」
ジョージは落ち着い口調に変えて言った。俺にだってわからない。生まれた時にはマジョリティと判断され去年の健康診断でもマジョリティだったというのに。
「だから頼む。今は一度捕まってくれ。銃を下げるんだ」
クリスが銃を下げるとジョンは少し前に出てクリスから銃を取り上げて言った。
「昨日までお前がマイノリティなんで知らなかった」
ジョンがクリスの首元に銃口を向けて言った。クリスは首元に麻酔銃を打ち込まれるとジョンを睨みつけリサの方へと振り返ろうとしたが、そのまま地面に崩れ落ちていった。
「信じられるか?ずっとマイノリティ野郎と仕事してたなんてよ」
ジョンの声だ。とクリスは思った。しばらく意識がまとまらなかったが、はっきりとしてくるにつれて明確なジョンへの怒りが湧いてきた。ジョンの運転するバンは法定速度をやや超えた速度で収容所へと向かっている。逃げなくてはと頭のどこかで考えてはみるが逃げられないことは当の本人が一番理解している。少なくともクリスは一度も捉えたマイノリティを逃したことはなかったしジョンも同じだった。
「いつも思うがマイノリティの近くにいると背筋がぞっとするね」
ジョンはマイノリティに対する考えを無線の向こうにいる友人にベラベラと話し続けている。確かにジョンはマイノリティに対する考え方が過激な男だったが昨日まで共に過ごした人間がマイノリティだったことがショックだったようで、いつもよりエスカレートしているようだ。バンが止まると後部ドアが開き光が差し込んだ。
「わかるよな。自分で歩け」
クリスはバンから降りると、毎日見ていた風景を、いつもと違う立場で眺めた。
「自由と平和」
クリスが呟いた
「お前にはもうないぞ」
ジョンがクリスの背中を押しながら言った。
「大統領の判断だ。変わることはない」
数時間前まで上司だったギレルモ所長が言った。
「しかしどこがマイノリティなんです?私にも自覚がないのに。それに私はS.M.B.(Seek Minorities and Banish them.)の職員ですよ?」
拘束具を脱がされ新品のシャツとズボンに手錠姿で椅子に座らされている。
「だから大統領の判断なんだよ」
ギレルモは無気力に目をこすりながら言った。
「だいいち大統領って誰なんですか。私は生まれてからずっと大統領の判断に従ってきました。我々の先祖も同じでしょう。一体大統領とは誰なんですか」
「大統領に疑問を抱くのは違法だ」
神経質に強い口調でギレルモが言った
「それがなんだ。俺はもう追放だ。もうすぐ法律なんて関係なくなる」
ギレルモが椅子から立ち上がりの方に歩いてくる。
「いいかクリス。私の判断で今すぐ壁の外に追放することもできる。ジョージからも聞いたぞ。少しは落ち着いたらどうなんだ」
クリスはギレルモに殴り掛かろうかとしたが手錠がそれを阻止した。
「明日だ。明日の今頃君は壁の外にいる」
部屋から出て行くギレルモにクリスが言った
「リサはどうなる。俺がいなきゃリサは」
たとえ俺がどうなろうとリサだけは無事でいてもらわなくては困る。
「彼女は…大統領の判断次第だが国の公共マンションで暮らすことになるだろう」
また大統領の判断だ。今に至るまで疑問に思ったことがなかったが大統領とは一体誰なんだ?リサは大統領の判断でどうなる。もし判断を下さなかったら?そんな思いがクリスの中を巡りながら、より深く冷たくなっていった。
「帰ろうなんて思うんじゃないぞ。マイノリティ野郎」
その時はすぐに来てしまった。リサとは一度も連絡を取れていない。今リサはどこにいるのだろうか。大統領はどんな判断を下すのだろうか。そもそも俺は二度と戻ることはできないのだろうか。
「俺の気持ちがわかるか?ジョージ。いいや、わからないだろうな。俺だってそうさ」
門を目の前にしてクリスが言った
「何言ってんだ。知りたくもない」
ジョージは無線で門を開けろと指示を出した。すると蝶番から悲鳴のような軋みが響き外の世界の風景が徐々に見えてくる。
「ジョージ。確かに俺はマイノリティにされちまったが、昨日まで一緒に仕事をしてきたじゃないか」
「昨日と作戦を変えたか?命乞いは効かないぜ」
クリスが門の外に足を踏み出すとジョージが無線で門を閉めるよう指示を出す。蝶番の音に負けないようにジョージが叫んだ
「外の世界でもせいぜい達者でな。お前ならやっていけると思うぜ」
そして門が閉まると静寂が訪れた。クリスは周りを見渡すが広がっているのは風化した家屋と交差点の跡だけ。
最初の一日は壁の周りをひたすら歩いた。自分の生きてきた世界がこんなにも狭い空間だったのかと、いささか信じられなかった。次の二日間ほどはひたすら東に向かった。特にあてもなく日の出て来る方へと歩いた。しかし四日目の朝。ついに脱水によりクリスの視界が歪み始めていた。水はないのか。何かを喉に流し込みたい。そんな衝動に襲われ続けていた。すると遠くの方に煙が上がり、わずかに人の住んでいる痕跡が見えた。最後の力を振り絞り
「誰か。助けてくれ。壁の中から出てきたんだ!」
とクリスは膝から崩れ落ちながら叫んだ。
「マイノリティだ」
「生きてるのかしら?」
「ドクターのところに運ぼう」
「敵だったらどうするの?」
「そんなこと言ってる場合か」
失われつつある意識の中で誰かの声がした。古い映画の中や音楽でも聞いたことのない不思議な訛りのある英語だった。
「水を飲ませてくれ」
息絶え絶えに喉を鳴らしながら辛うじてクリスが言った
「水か?ほら。これを飲め」
渡されるがままに水を飲むと少しずつ体が楽になり頭が回り出していく。ふやけていた視界も徐々に乾いていき目の前にいる二人の存在がはっきりとわかるようになっていった。目の前の二人は人の姿をしたハリネズミのような容貌で人類の髪の毛に当たる部分は太く硬いハリで覆われ顔も獣のような形をしている。背丈も150cmに満たない高さで、手足も中指を中心にクリスよりは長い指を持っているようだった。
「君たちは…マイノリティの子孫なのか?」
クリスが地面に座ったままで聞いた
「どちらかと言うとマイノリティは君だ」
二人のうち男と思しき方が答えた
「確かに私はマイノリティとして壁の中から出てきたが君たちの先祖はそうではないのかね?」
「俺らの先祖は一度も壁の中に入ったことがない。俺らみたいなアニマルはずっと外にいた連中だ。ミューティの先祖は壁の中にもいたかもな」
話の流れについていけないクリスが興味深そうに言った
「待ってくれ。アニマルとかミューティってのはなんのことなんだい?」
男が手際よく地面に穴を掘りながら言った
「俺みたいに自然と調和した体をしてるのがアニマルさ。周りの奴らからはハリネズミって呼ばれてる」
想像したこともない出来事が淡々と進んでいく目の前の光景を受け入れられず先ほどやっとのことで飲み込んだ水が胃から登ってくるのを感じた。そんな嗚咽を堪えながらクリスが言った。
「つまり君たちは進化したのか。この環境の中で」
掘った穴を跡形もなく埋めて腕を組みながらハリネズミの男が答えた
「そういうこったな。詳しくは俺らの村に来てから話さないか?もてなすぜ。壁の中の人間にしちゃ理解があるやつみたいだからな。俺はディグ」
「私はピック。ディグは村で一番穴を掘るのがうまいんだよ。だからディグって言うんだ。」
ディグと呼ばれた男は照れくさそうに鼻をこすった。
さっきクリスが見つけた煙はディグとピックのキャンプだった。クリスの知っている動物とは少しずつ形の違う自体が狩りの道具と一緒に並んでいた。恐らく彼ら動物たちもこの世界で独自の進化を遂げているのだろう。キャンプからディグとピックの村について行く途中、いくつか集落を抜けた。一つ目の集落にはディグがミューティと呼んでいた連中がいた。その中でもプレコグと呼ばれており未来予知が可能だという。ハリネズミは新たに穴を掘るときに、どこに穴を掘るべきか助言を求めに来るらしい。気の良い性格でクリスのことも笑顔で歓迎してくれた。なぜなら彼らはすべてを知っているからである。何が起こるかわかっているから恐れることもない。それゆえに気の良い連中なのだとディグは語っていた。しかしプレコグの中の一人がクリスに触れて言った。
「おお…恐ろしい。あなたの妻…リサ?まだ生きているのかしら。あなたが泣いている。復讐と調和」
そして、そのプレコグは何かわからぬ言葉をブツブツと続けた。リサがどうしたんだ。復讐?リサのための復讐なのか?リサに何が起こるんだ。恐怖と怒りに包まれたクリスはプレコグの方を掴み揺すった。
「リサに何が起こるんだ。私の妻は壁の中だ。どうなるんだ」
しかしプレコグはもう何も話さなかった。ディグ曰くプレコグの予知にはエネルギーを大量に消費するため必ずしも望み通りの答えが出るわけではないらしい。しかし何にせよ壁の中には絶対に戻らねばならぬとクリスは思った。