ゴースト
アッガートの駐在所には、資料室がある。
室内は狭く、カビ臭い匂いが立ち込め、蜘蛛の巣がいくつも張りめぐらされているような、古びた場所ではあるが、アッガートに過去で起きた事件のすべてが、無数に立ち並ぶ本棚の中に、すべて収納されていた。
そこにジョンは、コーヒーを片手に、背中を丸めた姿勢で椅子に座り、デスクの上に置いてある資料に目を通していた。
時刻は21時。あたりは暗く、マテックで灯された淡い室内灯の光を頼りに、資料のページをめくっては目を通し、コーヒーカップを口に運んだ。カップの口は、ところどころが欠けており、ソーサーも無いが、ジョンはまったく気にしない。
これから夜勤でも無い者は、とっくに家へ帰り着いている時間だけあって、表からは、たまに誰かの咳払いや、馬の蹄が地面を鳴らす音以外は、物音ひとつせず、静かだった。
「失礼します」
不意に、資料室のドアの向こう側から、涼やかな風のような、若い男の声が聞こえて来た。
「おう」
ドアが木材特有の音をきしませ、やがて閉じる音がかすかに聞こえた。音がなるべく鳴らないよう、気遣っているのだろう。
ジョンは、資料に目を向けたまま、一瞥もしない。入室してきた男が部下のセッコ兵長だと知っているからだ。
「珍しいですね、少尉が3時間も資料室に籠りっきりになるなんて」
「おっと」
ジョンは、入口のドア上にかかっているマテックの時計に目をやった。円形の皿のような形状に数字が、1から12まで描かれているが、短針と長針が重なる丁度真ん中には、忌法石が埋め込まれ、薄く明滅していた。
「もうこんな時間になっていたのか、夢中で気づかなかった」
「分かります、私もその犯人のことは気になって、何時間も資料を見ていましたから」
その資料というのは、二か月前に起きた「ゴースト」と呼ばれる惨殺事件の犯人に関するものだった。犯人は、4件にわたってアッガートのマルア地区とカスト地区等を転々とし、家人を一人残らず殺して金品を奪っては、姿をくらますことを続けている。
4件目の事件が起きてから、既に8日が経過しており、次の事件はいつ起きてもおかしくない。現に2件目と3件目の事件の間は、7日しか空いてなったからだ。
次にやつがどこに現れるのか。その尻尾を掴みたいという想いは、アッガートの憲兵全員が持っていたが、なにせ、犯人が必ず現れるのは、日が沈んでからということと、犯人を目撃した者と思われる人間は、必ず殺されていることから、過去の憲兵隊員の話から、やはり犯人の容貌に関してだけは、大した情報を掴めていないことが資料で分かった。
「なあセッコ、普通の人間にとって最も強いストレスを感じることは、何だか知ってるか?」
ジョンは、立ったままでいるセッコに向かって、椅子の背もたれに大きく寄りかかりながら、顔だけ向けて尋ねた。
「なんですか?急に」
とは、尋ね返さない。ジョンはセッコにとって上官であるとともに、メンターであり、その深い洞察力から、セッコでは到底及ばないような思慮深さを何度も思い知らされてきたからだ。まだ20代そこそこのセッコは、まだ、どんなことも自分で判断するには早すぎると感じているので、先入観を持たず、ジョンの何気ない問いかけも真剣に考える癖がついていた。
「人が最も強いストレスに感じることですか・・・それって、どんな人にとっても一番嫌なことってことですよね、それなら・・・自分が病気になり、余命がわずかしか残されていない状態になってしまうとか、これから誰かに殺されるのが分かっている時とかですかね」
「あとは?」
「あとは自分にとって大事な人が・・・子供や奥さんとかが、やっぱり病気になって、余命がわずかしか残されてないことを知った時とか、これから誰かに殺されることが分かっている時・・・もしくは、実際に殺された時でしょうか」
ジョンは目を閉じたまま、セッコの答えを頷きながら聞いている。
「その通り。人間にとって強いストレスに感じることの中には、必ず死がからむ。どんだけ積み上げて来た財産も名誉も死んでしまえば、すべて無くなってしまうからな・・・そして、他の人間を何より大事にしている人間にとっては、その人を永久に失うのは、死んだときだけだ」
「正解でしょうか?」
そう尋ねたセッコに対し、ジョンは首を左右に振った。そして、この事件が起きる前は、ぐうたらで、ろくに事件現場にもいかず、カードゲームばかりに興じていていたような、いつものジョンの姿とは異なる、真剣なまなざしで、セッコの顔を見上げた。
「セッコ、一つ覚えておけ・・・人の死に関しちゃ、医者と同じくらい目にする俺たち憲兵にとって、犯人を辿るには、死の本質から逆算して物事を見ていくことが鍵になる」
「はい、以前も教えていただきました」
「さっきのお前の答えは、正解ではないが、点数で言えば70点といったところだな」
「70点・・・自分の死や、愛する人の死より大きなストレスが、この世にあるというんですか?」
ジョンは、セッコのことを見上げたままコーヒーを一口すすった。室内はやや冷えているので、湯気が立ち昇っていてもおかしくないはずなのだが、とっくに冷めているのだろう。
ジョンは、コーヒーをデスクに置くと、おもむろに、そばに置いてあった、本棚の最上段の資料を取るための台を自分の前に引きずりだし、セッコに座るよう顎で促した。セッコは大人しく、それに従った。
「ある・・・それは誰か他の人間の命を奪うことだ」
「え」
「俺がもともと、軍属あがりだということは知ってるな?ある戦場で、こういうことが起きた・・・そこでは、北の軍と南の軍で戦いあって、いずれも民衆同士の戦いだった。数は1000対1100と、ほぼ同数だったこともあって、長時間にわたって、お互いの兵を少しずつ削り合うような、泥沼の戦いになったんだ。まだ新兵に近い俺らが駆けつけた頃は、決着はとっくに着いていて、南の軍の勝利に終わっていた。そして、いろいろ戦場を調べたところ、面白いものが見つかったんだ」
「面白いもの?」
セッコは、戦場に行った経験は今まで無かった。好奇心から思わず、身を乗り出して聞き返す。
「長銃を知ってるか?最近じゃ、マテックやら忌法師の活躍もあって、すっかりナリをひそめてるが、装填に時間がかかるものの、銀を火力で飛ばし、うまく命中すれば、人間の頭くらい軽く吹っ飛ばせる威力を持っているものだ」
「はい、自分も少しだけマトに当てることについては、腕に自信がありましたから」
「それが、北の軍が陣を張っていた場所に、200丁も見つかった、南軍が奪っていったものもあるだろうから、実際はもっとあったに違いない。そして不思議なことに、それらの長銃は、ほとんど弾がこめられた状態で見つかったんだ・・・中には、2発分が装填されていたものも見つかった」
「未発泡の銃ってことですか・・・それにしても、2発分が装填された銃と言うのは変ですね。長銃は1度に1発の装填が限度です。2発分も込めたら、暴発してしまって使い物にならなくなりますよ」
「そこで、北軍の生き残りを何人か保護して話を聞いた。そしたら、意外なことが明らかになったよ・・・当たれば必ず相手を殺害できるほどの威力を持つ武器を手にし、狙いを定めた瞬間、引き金を最後まで引けなくなったこと、そして、長銃に2発装填した者からは、その理由について聞いたら、何のことは無い。2発分装填していれば、装填し直す作業が必要になるため、その間は、上官に咎められることもなく、引き金を引かなくてすむからだ、と」
ジョンは、淡々と続けた。
「あまつさえ、仲間が敵兵からの危機に見舞われても、自分がたとえ腕一本切り落とされ、命を脅かされそうになっても、引き金を最後まで引くことができず、気づいたら、長銃を逆さまに持ちかえ、敵兵を殴りかかりに行っていたと言ったんだ」
「そんなことが・・・」
「俺も最初は信じられなかった。こいつらはしょせん民兵で、腰抜けの集団だ。引き金をひく度胸も覚悟もないやつに違いない、だからそんなことになったんだ、いざとなれば俺はそんな真似はしない、とな」
セッコは、思わず喉を飲み込んだ。もともと憲兵になるには不向きなほど、性根が優しいセッコには、刺激が強い話だった。
ジョンはセッコのそんな様子を見ると、おもむろにデスクの引き出しから、ウイスキーのボトルとグラスを二つ取り出した。そして、にやりと笑うと、片方をセッコに差し出した。
「いつの間にそんなところへ・・・いくらジョン少尉でも、職務中に飲酒を認めるわけにはいきませんよ」
「かてぇこというなよ、1杯だけだ・・・付き合わねえと、この先を話さねえぞ」
「まったく」
セッコが呆れつつも、グラスを手に取ると、ジョンの持っているビンからウイスキーを注がれた。小気味よくビンから流れ出る音ともに、茶色い液体がグラスに満ちていく。
「ちょっと、こんなに・・・!」
セッコが狼狽するさまを、ジョンは豪快に笑い、そして、自分のグラスにも注ぎこんだ。そして、杯をわずかにかざし、形だけの乾杯を済ませると、ジョンは話を再開した。
「そう・・・その時俺はまだ、戦場というのを経験したことがなかったんだ。そして嫌ってほど思い知らされた。こんなクソみたいな場所が、この世に本当に存在するってことが信じられなかった。略奪、窃盗、強姦なんか日常茶飯事で、人間の醜さってやつをさんざん見てきた・・・俺は、いよいよ敵兵を殺さなければならない状況に追い込まれた時、なぜかふと、その腰抜け北軍兵士のツラが浮かんだんだよ。そして、敵軍の矢が飛び交うなか、俺は、奇しくも手にしていた長銃で、敵兵めがけて狙いを定めることになった」
ジョンは手にしていた、ウイスキーのグラスを、一気に半分まで飲み干した。セッコは、一口だけを口に含め、グラスを置いた。
「引き金をかけている指がな、まるで、自分の指じゃないみてぇに動かなかったんだよ・・・訓練の時は、何万回も発泡してきたっていうにも関わらず、だ・・・それこそ、引き金をひくためだけの物体になるくらいまで、訓練をしたっていうのにな。しょうがねぇから、目をつぶって引き金を引いた。当然ながら弾は当たらず、打ち終わったあと、装填の準備をした時、俺の心が安堵していることにきづいちまったんだよ、これで数秒の間、誰かの命を奪わなくてすむってな、その時俺は、あの北軍兵の気持ちが嫌ってほどわかったんだ」
「それじゃ・・・少尉は、一度も人を殺したことが無いんですか?」
「その話をするには」
といって、ジョンは、今持っているグラスのウイスキーを飲みほした。
「もう一杯必要だな」
「・・・それなら、もういいですよ、そんな無茶な飲み方を何杯もされたら、あとで絶対に居眠りするに決まってるじゃないですか」
「ばぁか、昔はこれくらい飲んだ状態で、普通に仕事できて一人前と呼ばれていた時期もあったんだぞ」
「今は、そんな時代じゃないですよ。それで、人を殺すことが人間にとって一番のストレスだなんて、そもそもなぜそんな答えの問いを出したんです?」
「この資料を見ろ」
ジョンは、そう言って、先ほど目を通していた、駐在所には似つかわしくない、ピンク色のピンで止められた10枚くらいの束になっている紙を何枚かめくった状態で、セッコの方に差し出した。それは、ゴーストがおこした事件の全容が、ペンで詳細に書かれている資料だった。
「そのページは2件目の事件に関するものだ。殺されたのは、家人と使用人含めて7人、ケチな憲兵やってる俺らからは想像もつかないくらい、裕福な家らしく、使用人は3人いたらしい。買い物帰りで、事件に巻き込まれなかった別の使用人が、家に着いた時、全員殺されているのを確認したのが、20時と書いてある。だが、追記では、目撃した使用人が買い物で家を出たのは、20分前だという話だ・・・つまり、たった20分以下の時間で、犯人を目撃した7人が殺され、金品を奪われている」
「信じられない早さだと、私も思いました」
「奇しくも、その邸宅は繁華街にも近い・・・下見なんていう目立つことをすれば、誰かしらその片鱗くらいは目撃することはあるだろう、だが、不審な男の姿など、その周りで見たという聞き込みは結局得られなかったとも書いてある、ということは、やつは周到な計画なもと、家人を殺したのではなく、たまたま通りかかった邸宅に上がり込んで7人を20分以下での時間で殺し、姿をくらましたということになる」
ジョンは、セッコの方に向いたまま、両腕の肘を、自分の膝に乗せ、両手を拝むように組んだ。
「もし・・・この資料に書かれてあることが全てだとしたら、お前の言う通り、犯行までの早さが示しているとおり、俺がヤツを恐ろしいと思うのは、人の命を奪うことへの迷いの無さだ。俺が4件目の事件で、ゴーストによって、切り殺された中年男女の死体を見た時、唖然としたのは、まさにそれだ。俺は実際に、身体を切られた死体を戦場でいくつも見てきたが、あんな迷いのない切り方は、見たことが無い・・・さっきも言ったが、人は人の命を奪うことに本能的に強いストレスを感じる生き物だからな・・・わずかなためらいから、切創に深浅がついていたり、ついていても、すぐに刃物を引いた後があったりすることも決して珍しくない。憎いと感じてるわけでもない、生きてる人間をあれほど深く突き刺したまま、切り殺す迷いの無さは、普通の人間には持ち合わせちゃいねえんだよ」
セッコは黙ったまま、グラスを手にし、また一口だけ舐めるようにして飲んだ。
「あの傷のつき方から、ゴーストはおそらく、人を切り殺す時、罪悪感や猟奇殺人者のように快楽も感じていない。邪魔な雑草を引き抜く時に、いちいち憐れみを感じないように、呼吸も乱すことなく、無感覚のまま人の命を奪えるようなヤツだよ」
「人の命を奪うことに罪悪感が無いというのであれば、目撃情報が極端に少ない、というのも頷けますね。犯人の足取りを追うとき、必ず尻尾を掴むのは、わざわざ犯人が捕まることを望むかのような、つまらないミスを残すのも、罪悪感から来ていると思ってましたから」
「その通り、性善説じゃあないが、人の命を奪って何も感じない人間などこの世には存在しない・・・そこには、いっそ憲兵に捕まって自らの心身を痛めつけられることで、犯した罪の意識を軽くしたい、という矛盾が少しでも心の深いところにあるかぎり、そこに付け入る隙が生まれ、足跡を辿ることもできるはずなんだが・・・」
ジョンは、セッコから手渡された資料を受け取り、デスクの上に置いた。
「資料や実際に現場を見て、ヤツのことを考えれば考えるほど、そんな人間的な感覚を欠けらも持ち合わせちゃいない・・・怪物のような姿しか俺には思い浮かばない」
話を聞き終えた、セッコの顔色は良くなかった。優秀な憲兵ではあるが、アッガートでは、誰かが殺されるような事件はほとんど起きないような平和な街だけに、人間の負の部分を見る耐性が無いからだろう。ジョンの話を聞き終り、セッコは、両手を膝の上で強く握りしめ、震えた。
「くそ、人の命をなんだと思っているんだ・・・俺は、この犯人を絶対にこの手で捕まえてやりますよ!」
ジョンは、それを聞くとにやりと笑い、椅子から立ち上がると、セッコの胸を拳で軽く突いた。
「あまり熱くなりすぎるなよ、ここだけは氷のように冷静でいなきゃ、重要なことも見過ごしちまうぜ」
ジョンが資料室の入り口に向かって歩く。その右手には、セッコにとって見慣れない、靴が一足分入るような大きさの黒い箱を脇に抱えていた。
「それは?」
思わず、セッコはその黒い箱を指さし、尋ねた。
「ん・・・こいつはまあ」
ジョンは、そう言って、セッコの目に視線を向けた。その視線はセッコ本人を見ているというより、もっと遠くの何かを見ているようだった。
「お前さんが、1人前になったら中身を見せてやるよ」
そう言って、ジョンは資料室の入り口の方へ向きを変え、ドアを開けて退室していった。
マテックの淡い光が室内を照らすなか、デスクに残されたゴーストに関する資料を、セッコは青い大きな瞳で、睨みつけた。