遠い記憶
夜の湖のほとりにて、月の淡い光が差し込むなか3人の孤独な魂は、共に夢を語った。
1人は、誰にも負けない強さを持つことを
1人は、誰をも魅了する人望を持つことを
1人は、誰よりも優れた知恵を持つことを――
そして、彼らは互いに家族となる誓いを立てた。
序章
ノトス盆地に、白く長い花弁をつけたエルサ花が少しずつ咲き始めた。エルサ花は、ノトス盆地特有の高山植物で、他の地方ではほとんど目にすることができない、珍しい植物だった。
美しい花のフォルムに魅せられ、その種子を運び、ノトス盆地以外の場所で咲かせようと試みようとする者は後を絶たなかった。しかし、そのことごとくが花を開かせることなく、そのまま地中で腐った。理由は分からない。
ノトス盆地と同じような条件の場所で、エルサ花を植えても、そのことごとくが失敗に終わってしまう。美しいエルサ花を愛する人々は、途方に暮れながらも、諦めて毎年春になるとノトス盆地に足を運び、花の鑑賞を楽しんだ。
季節は3月。もうじき、この盆地の半分を覆うほどの、エルサ花が一斉に花開き、あたかも美しい純白の絨毯が敷き詰められたかのような光景が広がることだろう。今年は、例年と比べてもよく育っているため、そこに春風が吹けば、白鳥の羽毛を思わせる花びらが宙へ舞い上がり、天国のような光景が見られるかもしれない。
ノトス盆地は、エルサ花と、そこに集まってくる野生の動物たちを一目見るべく、気候が暖かくなると遠い国から来た旅人たちが集い、宴を開くような憩いの地でもあった。
時刻は朝の5時。季節はまだ春ではないので、ほんの少しだけ肌寒いものの、神秘的なノトス盆地に、日が少しずつ差し込み、陽気とともに、あたりが明るくなり始めるにつれ、草木の緑とエルサ花の白とが見事なコントラストを描いた、自然豊かな景観が写しだされていく。
しかし、そこに写しだされたものは、神秘的なノトスの姿だけではなく、およそ不釣合いな、剣と甲冑を携えた、物々しい雰囲気を帯びた兵士達の姿があった。
数は数10万にもおよび、その光景は、さながら岩に貼りついたフジツボのように、盆地から山あいにかけて、兵士達の黒い塊がビッシリと秩序正しく居並び、さらに合間を縫って大砲や武具といったものが備え付けられている。
「・・・開戦まであと一時間といったところだ」
一人の男が、床に片膝をつけ、うやうやしく頭を伏した臣下に対し、振り向くこともなく、立ったまま伝えた。臣下は、「はっ」とだけ短く返答をし、持ち場に戻っていく。
男は、ノトス盆地を一望できる高台の木に、猿のように身軽な動きでよじ登っていくと、見下ろし、全軍の配置を最後に観察した。薄い朝霧のなか、無数の旗印が、風ではためいているのが見える。味方と敵軍の数を合わせれば、数10万におよぶ人間と――兵の一員として、人間に飼い馴らされた魔獣とが、この盆地へ密集しているにも関わらず、その数に反して、辺りは不気味なほど静まり返っている。
魔獣のいななきが、遠くから、たまに聞こえてくる他は、風が静かに草花を撫でる音しかない。しかし、開戦を間近に控えた兵たちの緊張感からくる荒い息遣いが、時とともに少しずつ、静かな戦場へ響きはじめる。あらゆる目的のもと、生死をかけた戦いへ加わった数十万の兵たちの感覚が研ぎ澄まされていく。
男もまた、感情の高ぶりを押さえられないでいた。しかし、幾多の戦場を駆け抜けた経験からか、その男の心は高ぶっていると同時に、冷静でもあった。兵たちの汗の匂いや、あたりに漂っている空気の流れにいたるまで、平時では、考えられないような様々な情報を五感が拾いあげていく。
「開戦は朝霧が晴れる早朝6時」既に本陣より、14に分けられた各師団へ伝令が行き渡っていた。男が所属している軍の上官にして、総司令官の名前は、バラット同盟国家群の総司令官リゲル=マーモットという男だった。理由あって、男はリゲルに仕える直属の臣下ではなく、一時的にリゲルの一師団を預かる身として戦場にいた。
リゲルの年齢は46歳。朝霧が立ち込めたノトス盆地のように、不思議とどこか浮世離れした雰囲気をまとっている。しかしこの司令官は、華奢な身体と風采のあがらない見かけに反し、70余の戦場において、直接指揮をとった戦いで敗北したことは、ただの一度も無かった。
政略・戦術ともに、マグラード大陸が生んだ不世出の軍師として、まだ生きた身でありながら、命を預ける多くの者たちが、その名に対して、神格化したような畏敬の念と、数々の奇跡を噂しあうほどであり、明日の命も知れない兵たちにとって、存在そのものが戦意と希望に繋がる天才だった。
山の高台から見下ろしている男も例外なく、この厳格ながらも、公正な総司令官に好感を持っており、また、僅かな兵数ながらも、一師団を預かる師団長として、頼りに思っていた。
男もまた、幾多の戦場を駆け回ってきた経験から、この大陸に並はずれた軍略の才を持っている人物を何人も知っていたが、こと戦術面で言えば、リゲルを上回る采配を振れる者は、この世におそらく存在しない、そう考えている。
しかし―――自軍の総司令官が不敗の名将だからこそ、男はこの戦場において、ただ一人、複雑な事情を抱えていた。それは、対陣している敵の総大将が、一国の王にして、長年の間、生死を共にし、お互いのことを家族同然に思ってきた、かつての親友だからである。
この戦いに、もし勝って生き残ることができたらどうするか、男は決めていなかった。いや、そもそも天才リゲルをもってしても、かつての親友に勝てる可能性は、5割程度に見ていた。それだけ、この戦場におけるお互いの兵数や練度、兵器などの、勝利条件を満たす手札は拮抗していたし、何より相手方の大将もまた、不世出と言ってもいい将器を持つ男だからだ。
子供の時から、長い刻を経て、お互いの才覚をよく知り、人生のすべてをささげて信頼し、ともに道を切り開いてきた。相手の総大将のことを誰よりも知っている自分だからこそ、敵に回すことの恐ろしさも熟知している。
一たび開戦の火ぶたが切られれば、数十万の気迫に満ちた人と魔獣が、あたかも油で満たした床に火を投げ入れ、そこから立ち昇る炎のごとく、巨大なエネルギーの塊が盆地一帯を暴れ回ることだろう。この広いノトス盆地にて、お互いの居場所も正確に分からない状態で、どんなに奮戦したところで、かつての親友を目にすることもなく、戦いは終わっているにちがいない。
この戦いが終わった時に、俺とあいつ、どちらの命が無くなっているのか。そのことだけは、本当の神でなければ誰にも分からない。本音では、お互い捕虜の身に落ちたとしても、生きながらえればいい、男はそう思っていたが―――深い鍋のように窪んだ地形をし、退路が塞ぎやすいこの盆地での戦いにおいて、お互いが取り逃がすことは、100に1つも無いだろう。決着が完全に着くことは必定と思われた。
開戦予定時間の10分前、5時50分になろうとしていた。霧が少しずつ晴れていくなか、着陣している各師団の師団長が、兵の士気を高めるべく、叱咤とも怒声ともつかない、大声をあげはじめた。
その声に応えるように、兵士たちが一斉に何かを叫びながら、剣と槍を天高く突きあげ、地響きのような鬨の声をあげていく。
軍議の場において、総司令官リゲルは全師団長に向け「打って出ずに待機、必要とあらば応戦、後退はせずに半刻(1時間)持ち場を死守せよ」という、不可解な作戦指示を出していた。その意図を、その場に居合わせた誰もが理解しきれないでいたが、その発言を口にした当のリゲルが、理由は語らず「厳命である」とだけ言い残して、さっさと軍議の場から姿を消してしまった。
そんなリゲルの有り方に不満が無いでもない。しかし――
(知ったところで自分程度の頭では理解できまい)
幾度となく、駆け回って来た戦場同様、与えられた命令を全力でこなせばいい、それだけだ。男はそんなことを考えながら、高台の木から下り、ノトス盆地の底にあたる、平地よりやや高台に布陣している自軍の場所に戻ると、リゲルから預かったバラット同盟国家群直属の兵300人の元に戻った。
「われらの師団長殿は、今までどこに行っていたのか」
もとより、自分たちと同じ地に生まれたわけでもない、得体のしれない男の指揮に従うことだけでも不満だったというのに、開戦のギリギリまで姿を消していたかと思うと、唐突に現れた師団長を前に、兵たちは皮肉を隠そうともしなかった。
しかし、男は彼らの呆れ顔を一瞥するも、涼しい顔をしたまま、兵たちの後背ではなく、最前列にさっさと移動しはじめた。
男が、全兵士が見える位置まで移動するまでの間、兵士たちは不満ながらも、直立不動の姿勢で待機していた。そして、その男は最前列に到着すると、馬にまたがり、全員の顔を眺め回し始めた。
兵たちが一様に考えたことは、「我らの師団長殿も、戦意が上がるような、何か激励をかけてくれるのでは」という淡い期待が胸をよぎった。しかし、男は彼らの顔を一通り見終ると、手綱を引き、男が羽織っていたマントを大きくなびかせながら、馬の向きを反転させた。
男は味方に背中を向けた格好になっている。
まさか、このまま戦闘に赴くつもりでは―――師団長自ら、最前列に出て戦う軍隊など聞いたことがない。師団長が、全員を手足のように扱うがごとく、後方で指揮してくれるからこそ、軍という塊は一丸となって敵に当たれるというのに、その「脳」にあたる師団長自らが、会敵した際に、真っ先に死なれてしまったら、即座にその集団は霧散してしまい、敵に蹂躙されてしまう。
しかし、男は、戦歴だけで言えばリゲルに匹敵する場数を踏んできた戦場において、ただの一度も、兵たちを叱咤激励などしたことは無かったし、常に最前列に立ち続けてきた。
不安に思う兵士たちのことなど構うことなく、男はこの戦場において、もっとも遠くにいるであろう、かつての親友がいる丘の上を、目を細めたまま見上げた。
自然と、喜びや悲しみに満ちていた「宿敵」との想い出が、脳裏に浮かんできた。
―――他にベストのやり方があったのではないか? 今この瞬間まで、何百回も自らに問いかけてきた問いを、最後にもう一度だけ投げかけた。
しかし、過去に自問してきた答え同様、時間が経ち、完全に霧が晴れたこの盆地のように、己の心境は明らかだった。
(俺たちは、本当の家族だよな)
男は、長い年月を経たせいか、変色して黒ずんだリストバンドを左手に付けていた。その表情は、穏やかながらも、どこかもの悲しげであり、そのリストバンドを右手指先で所在無げにつまんでは離す。パチっと軽い音をたて、それが男の皮膚をはじいた。
今の俺に迷いはない。この場でヤツを倒さなければ、さらに多くの命が犠牲になる。その事実を前にすれば、自分と彼との思い出など、この大陸に住む人々全員の幸福を思えば、とるに足らないものなのだろう。その瞳に強い決意を乗せながら男は、剣を引き抜いた。
全軍に開戦を告げる、ドラムの音が響き渡ったのは、その時だった。