魔法使いのあの人を、僕は幸せにできるのだろうか
月の明るい夜だった。
森の奥深くにひっそりとたたずむこの家にも、月の灯りは落ちてくる。それは木々の葉の間を通り、天窓を抜け、部屋の空気をほんのりと青く染めた。
その部屋の窓辺で眠る彼女の頬も、いつもより少し青白く見えた。まるで壊れやすい陶器のようだった。
彼女が人の前に姿を現す時は、目立たぬように老婆の扮装をする。でも本当は、こんなにも美しい人なのだ。
カイは少し離れた所から、彼女の顔に見とれていた。もう少しだけ近づいてみたいと思う。でも、彼女を起こしてしまってはいけないのだ。彼女はとても疲れている。
今日はシンデレラという可愛そうな娘をお城の舞踏会に連れて行ってあげたのだという。魔法もたくさん使ったに違いない。彼女はいつでも、誰かのために一生懸命だ。そして夜も更けた頃、やっと倒れ込むようにしてベッドにもぐりこむ。
―もう少し、ご自分のために生きてください。
いつも自分の身を顧みない彼女のことを、カイはいつも心配していた。でもカイにできることは、あまりにも少なかった。
「おはよう、カイ」
その日彼女は、いつもより少し早く起き出した。まだ、窓辺で鳥が鳴いている時間だった。カイはかまどに火を入れていたが、驚いて後ろを振り返った。
「おはようございます、リリィさま。今日はお早いですね」
カイは彼女のことを、『リリィさま』と呼んだ。森で拾われた五歳の頃から、十四歳の今になるまでそれは変わらなかった。
『お姉さんの名前はなあに?』
『そうねえ……覚えにくい名前だから坊やの好きな名前で呼んでちょうだい』
彼女にそう言われた時、カイはとっさに百合の花を思い浮かべた。まっすぐで白くてきれいで……そんなところがそっくりだと思ったのだろう。
百合=リリィ。後になってほかの人が別の名前で呼んでいることは知ったが、カイが呼び方を変えることはなかった。
「今日はお城でシンデレラの結婚式があるのよ」
「シンデレラ?いつかリリィさまが、お城の舞踏会に連れて行ったというあの?」
「そうよ。城の王子はシンデレラが落としたガラスの靴を頼りに彼女を探し当てたの。素敵な話よね」
リリィは目を閉じてそう言うと、両手を胸に当てた。本当にうれしそうだった。
「そのガラスの靴は、もちろんリリィさまがお作りになったんですよね」
「そうよ。ガラスの靴を作るのはとても得意なの。でも、靴に魔力を込めてはいないわ。王子がシンデレラを探すことができたのは、王子の愛の力と、それからガラスそのものが持つ強い力ね」
「ガラスの力?」
「ガラスは元々、火の山から噴き出す溶岩が固まったものなの。それには土の神や火の神の力がそそがれている。華奢で美しいけれど、実は強さと激しさを秘めているのね。その力が、幸せを呼び込むのだと思うわ」
「幸せを……呼び込む……」
カイははっとしてリリィを見た。
「どうしたの、カイ」
「リリィさま。リリィさまは、まずご自分のためにガラスの靴をお作りになるべきです」
リリィは驚いたように目を丸くすると、かまどのそばまで来てカイの顔を覗き込んだ。
「ありがとう。でも残念ながら、魔法使いは自分のために魔法を使えないの」
「……ああ……そうでした……」
「それからね、カイ。わたしは今のままで十分幸せよ。何も心配いらないわ。さあ、朝餉をいただいたらすぐに出発しなきゃ。シンデレラにあげるプレゼントは、なにがいいかしら。シンデレラは今までつらい目にあったのだから、もっともっと喜んで貰わなくちゃね」
リリィが出発してからも、カイはガラスの靴のことを考えていた。リリィが作れないのなら、自分が作るしかない。でも、ガラスなんてどうやって手に入れればいいのだろう。
「カイ。なにを考え込んでいるんだい」
火を消したばかりのかまどから声が聞こえた。覗き込んでみると、丸くなっている小さな火鼠と目が合った。小さい頃リリィに魔法を掛けてもらったので、カイは動物と話すことができる。森で暮らすのにそれはとても便利だった。しかし、火鼠に話しかけられたのは、これが初めてだった。
「なにって……どうすればガラスを手に入れることができるのかと思ってさ」
「ガラスか……」
火鼠はしばらく小首を傾げていたが、やがてその丸い目でカイを見つめた。
「ガラスがあるところ、教えてあげてもいいよ」
「ほんとに?」
カイは思わずかまどに駆け寄った。
「ただし、かまどの火をもう少し強くしてくれればの話だがね。このところ、火のお山がちっとも噴火してくれなくってさ。俺たちはみんな、寒さに震えてるんだよ」
「わかった」
カイは薪を足して火を強めた。火鼠は頬を染めて、気持ち良さそうに目を細めた。
「で、ガラスってどこにあるの」
「まあ、そう急ぎなさんな。お前さん、覚えてるかい。この前、森に星の欠片が降ってきただろう」
「もちろん、覚えてるよ」
数日前の夜、森のどこかからずしんと大きな音が聞こえた。すぐ様子を見に行ったリリィが帰ってくると、『星の欠片が落ちて、森の木が何本も焼けてしまった』と嘆いていた。『魔法でも、なくなってしまったものは元に戻せないからねえ』彼女はとても悲しそうな顔をしていた。それを見ていると、自分も悲しくなった。
「俺たちは、しばらくあそこにすんでたのさ」
火鼠の方は、星の欠片の話になるとがぜん元気が出てきた。
「あったかくて素敵だったなあ。まるで火のお山に戻ったみたいだったよ。その時俺は見たんだ。星の欠片とこっちの岩がぶつかって、お互いに溶けて固まるのをさ。あれを天然ガラスって言うんだ。火のお山にあったのと同じやつだ」
「いいことを教えてくれたね。ありがとう」
カイは火鼠のために、もう一本薪をくべてやった。
そこに着いたのは、昼を少し過ぎた時分だった。森の木々が軒並み焼けているので、森とは思えないほど太陽の光が降り注いでいた。びっくりするほど明るいけれど、あまりいい気持ちはしなかった。
少し歩くと、焼け落ちている場所のちょうど真ん中に、ぽっかりと大きな穴が開いているのが見えた。カイはそろそろと近づいて覗き込む。その奥に、きらりと光るものが確かに見えた。
―あれだ!
ずいぶんと深い穴だ。カイは後ろ向きになってそろそろと降り始めた。しかし半分くらい降りたところで、急に強い風が吹いてきた。風は辺りに溜まっていた灰を遠慮なく巻き上げて、勢いよく飛ばした。
「うわっ」
灰が目に入って、カイは思わず手を離してしまった。体が宙で反転する。何かにすがろうとして伸ばした手は、空しく宙をかいた。
―リリィさま!
落ちて行く時、カイはリリィのことを思った。そしてそのまま、意識をなくしてしまった。
―……風……。
正面から風が吹いている。強くて、それでいて心地よい風だ。カイは重い瞼をゆっくりと開いた。
「カイ。わたしがどれだけ心配したと思っているのです」
すぐ耳元でリリィの声が聞こえた。カイはびくりとしたが、動くことはできなかった。
『ここは飛んでいる箒の上だ』少しして、カイはそのことに気づいた。箒はリリィとカイを乗せ、すさまじい速さで飛んでいる。でも、怖くはなかった。リリィがカイの体を、片手でしっかりと支えてくれていた。
「あんな危ない所に行くなんて……。火鼠が教えてくれなかったら、手遅れになる所でした。前に言ったでしょう?なくなったものは元に戻せないと。お前がいなくなったら、わたしはどうすればいいのです?」
リリィの声は震えていて、語尾がかすれた。
「……はい……申し訳……ありません」
カイは自分が泣いていることに気づいた。止めようと思っても、涙は後から後から流れ落ちた。
「……ガラスが……欲しかったのです……リリィさまを幸せにしたくて……」
「わたしは幸せだと言ったでしょう?カイが元気でいてくれれば、わたしはそれでいいのです。十分幸せなのですよ」
その時、カイは自分の手が何かを握りしめていることに気づいた。開いてみると、それは小さなガラスの欠片だった。
「まあ、カイ。お前そんなものを持っていたの?」
「僕はこのガラスで指輪を作ります。小さいから靴は無理ですけど、指輪ならきっと……。それができたら、リリィさま、もらってくださいますか」
一息にそれだけ言うと、リリィはカイを支える手にぎゅっと力を込めた。
「ありがとう。もちろんもらうわよ。どうしようかしら、わたし、もっと幸せになってしまうわね」
振り向かなくても、リリィの微笑む顔が見える気がした。
「リリィさま。大好きです」
「……カイ、なにか言った?」
カイの初めての告白を、意地悪な風がさらっていった。
「いえ……なにも……」
カイは一人で赤面しながら、手の中のガラスをぎゅっと握りしめた。カイの熱がガラスに伝わって、それは仄かに温かかった。