わたしを見送る弟
その週末、映画に行くことになった。わたしはピンクのワンピースを着て部屋を出る。その時、隣の部屋から樹が出てきたのだ。
彼は上下のスウエットを着ていて、わずかに寝癖のついた髪の毛をかきあげる。
「今日、出かけるんだ」
わたしは頷く。
樹との関係はいつも通りだ。だが、彼は映画に行かないといったことを気にしている気がした。
何か言いようのない壁を彼との間に感じていたのだ。
「楽しんでくるといいよ」
樹ははにかんだ笑みを浮かべると、階段を下りていく。
わたしは樹を見送ると、階段を下りる。リビングにいた母親と樹に声をかけ、家を出た。
わたしのどこかよどんだ気持ちとは対照的に、初夏の空は青々としていて澄んでいる。
わたしは空を仰ぐと短く息を吐いた。
亜子からは樹の気がかわれば連れてきてほしいと言われていたが、そんな態度の変化を彼が見せることはなかった。
このまま何事もなかったかのように日々を過ごしても樹は文句は言わないだろう。
わたしからそう望んだのに、樹との約束を自分からダメにしてしまった。
気にするなといっても難しい話だ。
何か樹にそれとなく埋め合わせができればいいが、何がいいかは思いつかない。
あまり時間があくと、こっちも行動を起こしにくなってしまうため、早めに何かしたいと考えていた。
食べ物をおごったり、樹の好きな場所に連れて行ったりといくつかシュミレーションをしてみるが、これだというものが思いつかない。
それに樹にお詫びだと言えば、彼は気にしなくていいと返すだろう。
そう考えると、余計にややこしく感じていた。
今日行く映画館は、ショッピングセンター内に併設され、いくつもの映画が上映される大型の映画館だ。建物の中に入ると人ごみがわたしを出迎えた。
わたしは人にぶつからないように気をつかかいながら、待ち合わせ場所となるチケット売り場へと急ぐ。
エスカレーターを降りると、チケット売り場が視界に入ってくる。そこにはすでに他のメンバーがそろっている。
五分前についたのにも関わらず、みんな早い。
「遅くなってごめんね」
わたしはみんなの前に来ると、頭を下げた。
「まだ待ち合わせ時間になっていないんだもん。行こうか」
亜子は持っていたチケットをわたしに渡し、残りのチケットを鞄の中に入れる。
もうすでにほかのメンバーはチケットを受け取っていた。
わたし達は映画館の中に入ることにした。
亜子と利香が歩き出し、わたしが二人の後を追おうとしたとき、半田君と目が合う。
彼はわずかに頬を赤らめると、その赤味をなぞるように指先を顔で滑らせた。
「いつも制服姿だから変な感じだな」
「そうだね」
利香や亜子はともかく、男子のほうはみんな私服を始めて見るので変な感じだ。
半田君はシャツにズボンというシンプルな服装だが、それでも何か違和感はある。
「千波、半田君」
利香に呼ばれて、わたし達は足が止まっていたのに気付いた。そして、四人のもとに駆け寄った。
映画館の中はかなり早めに集合したのにも関わらず人が多く、入るのにも並ぶことになった。さすがに六つもの席が並んで開いているところはなく、前後で三つずつ開いている席を前のほうに見つけたため、そこに座ることになった。
近くに座れてよかったとは思うが、亜子は名残惜しそうに前方を見つめている。
このままでは岡部君と仲良くなる機会がないままだと思ったのだろう。
「わたしが場所を変わろうか?」
利香がそう囁くと、亜子は顔を真っ赤にして首を横に振る。
利香がそう聞いたのは、彼女はたまたま岡部君の後ろに座ったためだ。
「このままでいいよ。それだと映画どころじゃないと思う」
仲良くなりたいという気持ちと、行動は別問題のようで、恋をするってこういうことなんだろう。
そんな友人を見ていると、微笑ましい気持ちになる。
わたしには今まで誰かに恋する経験が皆無だったから、想像でしか彼女の気持ちを補うことはできないけれど。
「亜子、飲み物を買ってきて。コーヒーがいい」
利香がわたしをみて含みのある笑みを浮かべた。
一方の亜子は事情が呑み込めないのか、戸惑いを露わに利香を見ている。
わたしはなんとなく利香の思惑に気付いてしまった。
「わたしはオレンジジュースかな」
「いいけど……」
亜子は釈然としない様子だ。
半田君は不思議そうにこちらを振り返るが、わたしと利香を見て苦笑いを浮かべていた。
「なら、俺もコーヒー」
そう言いかけた岡部君の動きが止まる。
「つうか、新橋一人じゃ持てないよな。俺も行くよ」
そう言うと彼が立ち上がる。
そこでやっと亜子は利香の笑みの意味を悟ったようだ。
彼女の顔があっという間に真っ赤に染まる。
亜子の動きが壊れかけのロボットのようなぎこちないものへと変わる。
「お前は?」
「俺はコーラ」
野間君はそう岡部君に告げる。
岡部君はわたしたちの飲み物を確認して、亜子と一緒にホールを出て行った。
「かなり強引すぎない?」
半田君は呆れた顔で利香を見る。
「あれくらいならいいんじゃない? 岡部君も変には思わないでしょう」
利香はそう言いながら、亜子がさっきまで座っていた席に座り、亜子の席に荷物を置く。
「そうだろうけど。あいつはかなり鈍いからね」
「もともとそうしようって打ち合わせしていたの?」
わたしは規定事項のように話をする二人の会話に戸惑いを露わに問いかける。
「話す機会を作ってあげてと頼まれたんだよ。岡部が誰を好きかは分からないし、協力はできないけど、あいつは嫌なら嫌だと言えるやつだから、それくらいならってことで」
半田君の言葉に野間君も頷く。
「全然気づかなかった」
わたしは今日まで樹のことで頭がいっぱいで、全く周りに目が行き届いていなかった。
そもそも今日の本当の目的は亜子と岡部君が親しくなることだったのだ。
「わたしが勝手にやったことだからね。あとどうするかは亜子次第だとは思うけど」
利香がホールの入り口に目を運ぶ。
二人は飲み物を買って戻ってきて、女子の分は亜子が、男子の分は岡部君がそれぞれ配る。
亜子は不思議そうに利香が自分がさっきまで座っていた席に座っているのを見ていたが、前をちらりと見て目を伏せる。彼女の口元がわずかに緩んでいた。
上映までの短い間だが、岡部君が振り返ると亜子に話しかけていた。亜子の表情から緊張しているのは感じ取れたが、頬を赤らめ楽しそうだ。利香のもくろみは一応成功したのだろうか。
上映開始のサイレンのあと、亜子は利香と目を合わせると、照れながら会釈していた。
映画が終わるとわたし達は外に出る。
今まで暗い場所にいたためか、いつも以上に眩い日差しが瞼の裏を叩き、腕を後方に投げると凝り固まった体を伸ばす。
「お茶でもしようか」
亜子の提案でわたしたちは近くのカフェに入ることになった。
亜子一押しの店で、店内に食べる場所はあるが、カウンターにはケーキが並び、持ち帰りにも対応しているらしい。
わたしたちの入れ違いになるように、ケーキの箱を持った人が出て行く。
おみやげというのもいいかもしれない。
幸い、樹は甘いものが好きだし、これだったら普通に渡せそうだ。
何がいいだろう。
ケーキもよさそうだし、シュークリームもよさそうだ。
ちょうど店員がやってきて、わたしたちを店の奥の、六人掛けの席に案内してくれた。
だが、頭の切り替えがすんなrできず、わたしはメニューを見ながら、樹に何を買うかを真剣に考えていた。
「千波はどうする?」
「え?」
利香の問いかけに自分でも間抜けと思うような声を出してしまっていた。
いけない。
とりあえず食べてみてから決めよう。
そう考え、わたしは本日のおすすめケーキとコーヒーがセットになったケーキセットを注文することにした。