わたしのそっけない弟
わたしは液晶タブレット端末を、リビングでコーヒーを飲む日和に差し出した。
「日和、映画見に行かない?」
彼女の視線がタブレットの上を走り、首を横に振る。
「興味ない」
その間、約五秒。ほぼ即答状態だ。
「たまにはいいじゃない」
「映画なんて二時間もじっと座って面倒だもん。それなら眠っていたほうが有意義だよ。そもそもネットでネタバレ調べたら、わざわざ行かなくて一石二鳥じゃない。二時間もじっとしておくなんて時間の無駄」
日和は合理的なのか、冷めているのかわたしに反論の余地を与えない返答をする。
そうしたストーリーの流れだけではなく、映像や演技など細部を楽しめるものだと思うが、どうやら彼女にとっては違うらしい。
「お前さ、そんなことより勉強したほうがいいんじゃないか? 来年受験だよな。中間テストかなり悪かったらしいと聞いたけど」
その言葉と共にリビングに入ってきたのは樹だ。
彼は腕組みをすると、わたしの頭のてっぺんから足の先まで一瞥する。
「何で知っているの?」
「板橋先輩から聞いた」
わたしはそれを聞き、言葉を飲み込んだ。
樹の言うとおり、わたしはあまり中間テストの出来が良くなかった。そうはいっても一年の学期末テストよりは心なしか悪かった程度だ。だが、樹の成績と比べれば劣等生と言われてもおかしくない。彼は高校一年の最初のテストとはいえ、全科目満点を成し遂げていたのだ。彼であれば一年後の試験もそれなりの成績を収めてそうだ。
「この映画、ずっと見たかったから、楽しみにしていたのに」
わたしはタブレットをロックすると、肩を落とした。
「何の映画?」
わたしは映画のタイトルを告げる。前評判もよく、CMなども頻繁に目にする。
彼が興味を持ってくれたのだろうかと心を躍らせ、期待の眼差しを向けた。
だが、わたしの期待を裏切るかのように、彼はわざとらしいため息を吐いたのだ。
「つまんなそうな映画だな。あとでDVDでも借りれば?」
一瞬でも、期待したわたしがバカだったと思った時、樹が言葉を続ける。
「お前の勉強がはかどったら、ついていってやってもいいよ」
「本当に?」
「俺は誰かさんと違って、成績がいいから余裕あるし」
樹の言葉が心に刺さるが、映画を見に行けるという喜びの心がそんな些細なことを気にしないようにしてくれた。
「ありがとう。頑張る」
「樹、最近お姉ちゃんに優しくなったね」
日和がにんまりと笑う。
「バカなこと言うなよ」
樹は大声を出し反論するが、日和の勝ち誇った顔の前に沈黙する。
わたしと樹、日和の三人兄弟は、わたしが一番年上で、誕生日まで考えると二月生まれの日和が一番年下だ。だが、樹は日和と仲がいいからか、なぜか日和にからかわれると、こうして反論できなくなるところがある。彼女は頭の回転が速く、口が達者なので、巻き込まれたくないと思っている可能性もあるが。
だが、あの公園の日の出来事から少しの間、樹の浮かべた悲しげな表情が気にかかっていた。だが、それから彼はほんの少しだけ変わった。わたしをバカだ、お前だというのはやめないが、以前よりももっと分かりやすい優しさを見せてくれるようになった。わたしの理想とする兄弟関係に一歩ずつ着実に近づいているのかもしれない。
だから、わたしも頑張ろうと決めたのだ。
数学の問題を解いていると、机の上に影がかかる。
すると、席を外していた利香が自分の席に戻ってきたところだ。
彼女はわたしの机の上を見ると、苦笑いを浮かべた。
「最近、勉強頑張っているね」
「利香が樹にわたしのテストのことをばらすからだよ」
「樹君が気にしていたのよ。結果を教えてくれないけど、どうだったのかってね」
だからって教えなくてもいいが、良いこともあった。
「樹が勉強頑張ったら映画に一緒に行ってくれるって言っていたの」
わたしの言葉に利香は目を細める。
「最近、仲よさそうだね。何かあった?」
きっかけは公園で彼を待っていたことだと思うが、樹との時間を親友と言えどあまり語る気にはなれなかったのだ。大事な思い出はどこかむず痒く、自分で独占したいというある種の独占欲が働いたのだろうか。
「たいしたことじゃないよ」
だから、そう言葉を濁す。
彼女はわたしの気持ちを見透かしたかのように、深くは追及してこず、「よかったね」と肩を叩いた。
そのとき、わたしの机に影がかかる。亜子が目を輝かせ、わたしの机に手を伸ばす。
「何の映画いくの?」
わたしは行く予定になっている映画のタイトルを告げる。すると、彼女は顔の前で手を組む。
「その映画のチケット、ただ券があるんだけど、一緒に行かない? もちろん、樹君の分もあるよ」
彼女は映画のチケットを差し出す。
それはわたしが見たいと思っていた映画のチケットだ。
だが、枚数が八枚ある。
「いいの?」
「いいよ。他にも何人か誘うけど、いい? もちろん利香も来てよ」
「もしかして、岡部君を誘うの?」
利香の言葉に亜子の頬が赤く染まる。
岡部君は騒がしいわけではないが、誰とでも卒なく接するタイプだ。
彼女は岡部君に惚れているのだろうか。
要は岡部君を誘いたいが二人きりだと気を使うため、複数人を誘おうと思っているのだろう。
樹も行くならただのほうがいいだろう。
「このチケット、まさか亜子が買ったの?」
「違う。知り合いからもらったんだ。だからお金は気にしなくていいの。でも、ほかの男の子も来るけど、いい?」
「別に平気だよね」
利香の言葉にわたしも頷く。
「樹に聞いてみるね」
利香は面識があるが、わたしのクラスメイトはほとんど知らないだろう。岡部君とも面識がないはずだ。だから、まず樹に聞いてみようと決めたのだ。
「岡部君だったら、半田君と野間君辺りが来るよね」
利香が教室内を見渡して、そう言葉を漏らす。
樹に言いやすくするために誰が来るか具体的に聞いてくれたのだろう。
半田君が来るのは樹にとってどうなんだろう。
わたしは何とも言えない気持ちで、その日の帰りがけに聞いてみることにした。
帰りがけ、樹に映画の話を持ちかける。
彼は怒る様子もなく意外そうな顔をした。
「映画? 誰と?」
「亜子と利香と……」
男子の名前を続けようとしたわたしの言葉に、樹は言葉を重ねてきた。
「俺は見たかったわけじゃないし、板橋先輩たちと行って来たら?」
「でも、樹と約束をしたから、樹も一緒に行かない? わたしのクラスの男子生徒も何人か来るの」
「誰?」
声のトーンが心なしか下がった気がする。
「岡部君に半田君、野間君」
あからさまに樹が顔を引きつらせる。
やっぱり半田君と顔を合わせるのは気まずいのだろうか。
「亜子が岡部君と一緒に映画に行きたいんだって。でも、なかなか誘えないから集団で行こうという話になったの。チケットに余裕があるから、樹の友達も一人誘いたい人がいれば誘っていいって」
他の男子二人は今日中に誘い済みだ。
まくしたてるように語ったことで、何かやましい言い訳をしているかのような気分になってきた。
まっとうな理由だとは思うが、樹の目はどことなく冷たい。
「行きたいって言っている奴もいないし、俺が行かないほうがいいと思うよ。クラスメイトで楽しんで来たらいい」
彼はそう笑うと、家への帰路を急いだ。
人数的に偶数になるようにと、あまり面識のない自分がいないほうが思ったのかもしれない。
「そんなことないよ」
「だから気にしていない」
彼はそう言ったが、その声がいつもより弱々しく感じられた。
だが、それ以上繰り返すのもしつこい気がして、何も言えなかった。