わたしを避ける弟
部屋から漏れてくる日差しに額を抱えた。重い体を起こし、辺りを見渡した。
今日の寝起きはあまり芳しくない。昨日、あまり寝つけなかったのだ。
冗談として片づけられたのにも関わらず、わたしは昨日のあの出来事を意識してしまっていたようだ。目を閉じれば樹の真剣な眼差しと、間近で見た顔を思いだし、心拍数が速くなり、眠るどころではなかった。
眠気が戸惑う心を追い抜いた時やっと眠れたが、既に十二時を大きく回っていたような気がする。
両手で頬を抓り、こんなことではいけないと気持ちを入れ替える。
ぼさぼさの髪の毛をかきあげると、制服に手を伸ばした。
昨夜は夕食のとき以外、樹と顔を合わせずに済んだが、今日はそういうわけにはいかないだろう。学校に行く準備を手早く整え、部屋を出た。廊下で制服姿の日和に会う。
「樹は用事があるから先に行くらしいよ。というか、さっき家を出ていったよ」
「まだ随分早いのに」
「だから用事があるんじゃないの?」
日和は呆れたような表情を浮かべる。
わたしと一樹が普段学校にいくよりも三十分も早い時間だ。放課後なら買いものに出かけたりと多種多様な選択肢があるが、こんな朝早くに何があるんだろう。
「気になるなら、本人に直接聞けば?」
日和はわたしの表情から疑問に思っているのを察したのだろう。彼女はあっさりと言葉を紡ぐと、大げさに肩をすくめ、自分の部屋に戻っていく。
顔に不可思議に思う気持ちが出ていたのだろう。
「別に一緒に行かないといけないわけじゃないから」
わたしは誰に聞かせるわけでもない言い訳じみた言葉を残すと、リビングまで行くことにした。
ふと、昨日のことが頭を過ぎる。彼なりに昨日のことを気にしていたのだろうかという気持ちが生じるが、自身でその気持ちを打ち消した。あいつに限ってそんなことはないだろう。
昨日も普通にしていて、今日になって気にするなど繊細な神経があいつにあるわけがない。
わたしはリビングに入ると、母親の用意した朝食にを食べる。それでもいつもより十五分も早い。
ただ、部屋で時間を潰せるほどの余裕もなかったため、その足で家を出ることにした。
だが、何か物足りない。その理由はここ一か月ほど一緒にいた樹がいないからだろう。
彼との時間を望んでいたわけではないが、慣れというものがわたしに寂しさを与えているのだろう。
今日の放課後はどうするのだろう。
そう思った時、背後から腕をつかまれた。
振り返ると、利香が屈託のない笑みを浮かべていたのだ。
「今日は樹君は一緒じゃないの?」
「一緒じゃないよ。用事があるんだって」
「珍しいね。いつも樹君がべったりだったのに」
「そんな気分もあるんじゃない?」
利香は付き合いの長さもあり、昔から樹がわたしにべったりだと主張する。
「つかみどころがないというか、分かりやすいというか」
「何の話?」
利香の言葉の意味が分からず、問いかけると、彼女は何でもないと首を横に振る。
わたしが利香と他愛ない話をしながら学校についた時、体育館に繋がる道に半田君と樹が一緒にいるのが目についたのだ。
昨日の樹の様子から半田君にあまり良くない感情を持っているのは感じ取った。だが、今半田君と話をしている樹が険しい表情をしていなかったこともあり、あえて彼らのことを気にしないようにはした。
教室に入ると、机の上にテキストを広げる。二人は何の話をしていたのだろうと考えをめぐらせようとしたとき、半田君が教室に入ってきた。
彼は廊下側にある自分の席ではなく、わたしの席に直行してきたのだ。
彼は大げさに肩をすくめる。
「昨日、弟さんと部活の話をした?」
「した」
「そっか。今日、学校に行く時に君の弟に偶然会ったんだ。その時に、高校で陸上をする気はないと断言されたよ」
「そんなことを言ったの? ごめんね。昨日、たまたまそういう話になったからだと思う」
「気にしないで。本人からはっきり言われて、俺も諦めがついた。今でも未練はあったからね。さっき、俺たちを見ていたみたいだから、一応伝えておこうと思った」
「わざわざごめんね」
彼は首を横に振る。
「俺がしつこく話をしたのが元凶なんだから、気にしないでくれると助かる。でも、もったいないって思ったんだよな。あれだけ走れるのに、止めてしまうのは」
わたしの脳裏に中学生時代の樹が蘇る。
「わたしもそう思って誘ったんだけど、逆効果だったみたいだね」
「大学受験があるからかもしれないな。でも、あれだけ成績よかったら妹さんの通う高校も入れたんじゃないの?」
受かっていたとは思う。だが、受験に百パーセントはない。
「受験は水ものだから分からないけど、家族は樹がそこを受けるものだと思っていたんだ。近いって理由だけで、この高校を選んだから、いい大学に行かないとというプレッシャーがあるのかもね」
そう言ったのは、素直な気持ちだった。
彼は今でも優等生に見合う勉強量をこなしていたのだ。
「妹さんと同じ年だから、ライバルなのかもしれないな」
半田君は納得したようだs。
日和と樹はライバルというよりは親友のように見えるが、それは直接関係ない話だったので伏せておく。
「じゃあな」
わたしは首を横に振る。
放課後になり、教室がざわめきに包まれる。
わたしは教室の前の扉を見て、鞄から携帯を取り出した。確認してもメールも届いていない。
半田君と樹がそれらしい会話を交わしていたとしても、わたしは昨日から樹と一言も言葉を交わしていない。
いつもなら彼が迎えに来るが、今日はその気配も全くない。
先に帰っていいんだろうか。
一か月続いた習慣はわたしの判断を鈍らせる。
だが、状況を改めて考え直し、そもそも約束しているわけでもないと言い聞かせた。
「利香、一緒に帰ろう」
鞄を持ち、帰り支度を整えている利香に声をかける。
彼女は苦笑いを浮かべた。
「いいけど、樹君と喧嘩でもした?」
「してないけど」
わたしは口ごもる。そもそも彼にキスをされそうになり、今のような状況になっているとはいくら友人でも言いだせない。
「喧嘩したら仲直りしたほうがいいよ」
わたしの沈黙をイエスと勘違いしたのか、利香はそう短く返した。
わたしと利香は教室を出る。その間背丈の高い男性とすれ違うたびに、その人の顔を確認してしまってた。
並んで歩く利香が苦笑いを浮かべる。
「一年の教室に行く?」
「行かない」
わたしは頬を膨らませる。
わたしが樹を気にしてしまうのは、習慣のせいだと思う。彼と一緒に帰りたいなんて思えば、それはまさしくブラコンそのものだ。ブラコンでないわたしはそんなことを気にしたらいけない。
結局、その間も樹と顔を合わせることなく、無事に学校の外に出た。
「今日、何か食べて帰らない?」
「ダメ。今日は早く帰りなさい」
わたしの迷いを見透かしたかのように、利香はわたしの背中を押す。
わたしは頷くと、彼女と帰宅の途に就いた。
彼女とは少し先の横断歩道を渡ったところで別れことになっていた。彼女はそこから右手に行った一軒家に住んでいるのだ。わたしはその道をまっすぐ進む。
「樹君があれだけ歩み寄ろうとしているんだから、千波ももう少し頑張ってみなさい。千波が思っているより、樹君は千波のことを考えているよ」
別れ際に利香はそうわたしを後押しする。
「歩み寄りか」
遠ざかっていく利香の後姿を見て、そう言葉を漏らした。
言われてみるとそうだったかもしれない。
樹がどんどん前に押してくるから、わたしはどことなく距離を取ろうとしていた。
樹はわたしと朝、軽い言い合いになっても、普通に放課後迎えに来てくれた。
でも、わたしは樹と言い争えば、口を堅く閉ざそうとする。
今日も授業終了後に彼の教室に直行したら間に合っていただろう。
わたしの傍を同じ高校の制服をきた生徒が自転車で通り過ぎていく。
いつからわたしは樹に歩み寄らなくなっただろう。
そう考えて、すぐに答えが分かってしまうのが、悩ましい面もある。
両親が再婚してからだと思う。
わたしを慕ってくれていると思っていた、樹が嫌悪感を示したときから、わたしは距離を取り始めた。子供の言う事だからと片づけていたらわたしと樹の関係は変わったのだろうか。