わたしをからかう弟
樹は一足先に弁当を食べ終わると、辺りをぼんやりと見渡していた。
その間、何度か他の人に目撃され、指差す人もいたが、樹は涼しい顔をしている。
わたしは昼食を食べ終わり、お弁当を片付け立ち上がろうとする。
彼は再びわたしの手をつかんだ。
「まだ時間があるよ」
「昼休み中、一緒に過ごすつもりなの?」
わたしは顔を引きつらせながら、問いかけた。
「それもいいかもね」
彼は愉快そうに笑う。
きっとその行動に意味などない。
彼は自由気ままに行動を起こし、言葉を綴っているのだろう。そんな彼を理解しようとするのが間違っている気もする。
もっと彼にも新しい友人関係ができれば、少しは変わってくれるんだろうか。
その誘いも彼にはいくつかあったのだ。
「樹は部活、入らないの?」
「また、その話か。興味ないよ」
「でも、もったいなくない?」
「もったいなくない」
せっかくのチャンスだからと話を切り出すが、彼にあっさりと一蹴された。
樹は中学の時、陸上部に入っていた。大会でもいいところに行っていたため、それを知るクラスメイトから樹を部活に誘ってくれと頼まれていたのだ。一週間ほど前に拒まれたことは伝えたが、わたしも惜しいという気持ちがあったため、思わず樹に聞いてしまっていた。
「部活に入らないし、姉さんが卒業するまで一緒に登下校する気から、安心していいよ」
彼はこともあろうにわたしの頭を撫でだした。
わたしが彼の腕を持ち上げようとしても、大きくついてしまった力の差はなかなか弾き返せない。
彼はわたしの頭をわしづかみする。
わたしは観念して、樹から手を離した。
「もっと高校生活を楽しもうとは思わないの? 仲良い友達を作ったり、彼女を」
と言いかけて言葉を噤む。
今はわたしにべったりな彼も、いつか女の子を好きになり、その子と一緒にいたいと思うようになるのだろうか。
それが当たり前だと分かっているのに、体の内部にさっき発そうとした言葉が絡みつく。
「友達はいるし、彼女には興味がないかな。こうして姉さんと楽しい時間を過ごせるだけで満足だよ」
「シスコン」
「褒めてくれて嬉しいよ」
わたしの最大限の嫌味でさえ、さらっと流してしまう。
「そろそろ戻ろうか。姉さんを教室まで送らないといけないから」
「送らなくていい」
樹は少年のような笑みを浮かべると、わたしを手から解放した。
携帯を確認すると、次の授業が十分後に迫っていた。
だが、ベンチから立ち上がった時、わたしと樹に複数の細長い影がかかる。樹の友人たちだろうか。そう思ったのは一人、顔と名前が一致する姿があったためだ。
男子生徒たちはわたし達に気づいたのか、足を止め、わたしと樹を交互に見つめた。
「お姉さんこんにちは」
髪の毛をスポーツ刈りにした少年は愛嬌のある笑みを浮かべる。
彼は樹と中学生時代の友人の木崎俊太だ。
樹とは仲が良く、彼がわたしにべったりというか、何かとちょっかいをだしているのを知る数少ない人間だ。
もっとも木崎君は樹のそんなところにドン引きするどころか、愛情表現の一つだと発言をし、樹のそんなところを認めているという広い心の持ち主だ。
「久しぶりだね。学校はどう?」
わたしの下級生に対する問いかけは、他の生徒の言葉に飲み込まれた。
「藤宮のお姉さん? 噂通り可愛いね」
そういったのは顔が一致しない二人の生徒だ。一人は木崎君と同じくらいで、比較的長身だろう。もう一人はわたしより少し高いくらいだ。恐らく日和と同じくらいだろう。
可愛いと言われたことより、わたしは噂のほうが気になった。さっき樹を好きであろう女子生徒が流していた噂だろうか。
自己紹介しようとしたわたしの背中を樹が叩く。
「姉の藤宮千波だよ。友達と約束があるなら、早く戻ったほうがいいよ」
彼は適当なことを言うと、わたしの背中を軽く押す。
樹の友人は残念そうな笑みを浮かべるが、木崎君は苦笑いを浮かべている。
樹の言葉が嘘だと気付いたのだろう。
わたしも見世物のような状態を持続するつもりはなく、樹の友人から解放され、教室に戻ることにした。
彼がわたしを追い返したのは、どんな意図があるのかは分からないが、友達にわたしを見られたくなかったのだろうと考えるのが自然だ。
それなら近寄ってこなければいいと思うが、それでも近寄ってくるのが樹だ。
彼の気まぐれな行動に振り回されるのを、二年と思うべきか、まだ二年あると思うべきだろうか。わたしは後者だと思っていた。
樹が自分の学力に見合った高校に行ってくれれば、こんなややこしいことに巻き込まれずに済んだのにと心から思う。
樹たちから離れ校舎へ戻りかけた時、今度はわたしを呼び止める声が響いた。
髪の毛をスポーツ刈りにした、長身の男性。クラスメイトの半田君だ。
樹を陸上部に誘ったクラスメイトでもある。
一年のときは同じクラスだったのにほとんど話をしたことはなかった。だが、樹つながりで、最近は日常会話をする程度の仲にはなっていた。
「相変わらず仲がいいんだね。君と弟さん」
「仲がいいのか悪いのか」
わたしは大げさに肩をすくめる。
もっと口を聞かない。罵声ばかり浴びせられるといった分かりやすい仲の悪さであれば、仲が悪いと断言出来るのに、難しさはある。
「一緒に登校しているし、ごはんだって一緒に食べるなら悪くはないんじゃない? 俺は妹と一緒に住んでいるけど滅多に口も利かないからね」
「そうなの? 意外」
クラスメイトとして彼を知っているが、彼は明るく誰とでも話をするタイプだと思う。彼の妹を直接は知らないが、そんな彼が家族と親しく話をしているといわれたほうが違和感がない。
「兄弟なんて結構極端だと思うよ。藤宮さんの家は血がつながってないってのもあるのかもしれないけどね。用事があるときだけ話す感じだからな」
不必要にべたべたせずに、必要な時だけ接する関係。
ある意味、理想とする兄妹関係かもしれない。
だが、彼の好意をむげにしない為に、その言葉は伏せておく。
「わたしは本当の兄弟みたいになりたいと思っていたんだけどね。少し距離を感じてしまうかな」
「そんなふうに特別に思われている弟さんに、少しだけ嫉妬する」
「嫉妬って」
半田君は髪の毛をかくと、わずかに頬を赤らめた。
そのとき、彼の背後に樹が見えた。辺りを見渡しながらやってくる樹の足がわたしと目があった瞬間に止まる。
「そのままの意味だよ」
わたしはその言葉にドキッとする。
まるで彼から告白されたようだと感じていたためだ。
樹の目が見開かれ、彼にもその言葉が聞こえていたのだと理解した。
放課後、学校を出てからも樹は無言でわたしの前を歩いている。
迎えに来てからずっとこんな調子だ。
憎まれ口をたたかれるのはむかつくが、こうして黙られると調子が狂う。
十分のカウントダウンはあっという間にゼロを告げ、わたし達は家に到着する。
玄関を開け、さっさと中に入ってしまう。リビングに入った彼の後を追った。
「怒っているの?」
わたしはやっと勇気を絞り出し、問いかける。
「何で俺がわざわざ怒らないといけないんだよ」
「そうは思うけど、今日の昼休みと全然違うじゃない」
「千波こそ、あいつと話をして楽しかった? しつこく陸上部に誘ったりして、あいつに惚れているわけ?」
わたしは驚きの声をあげ、樹を見る。
まさかやきもちでも妬いているのだろうか。
彼はすねた子供の用にわたしとは目線を合わせようとはしなかった。
彼はずかずかと歩いてくると、手首を握る。
「そんなにあいつの部活に入ってほしい?」
「だから違うと言っているじゃない。そうじゃなくて、樹も本当は入りたいのかなって思ったんだよ。中学の時は楽しそうだったじゃない」
彼はいつもより強いまなざしでわたしの姿を捉える。いつもと違う表情に、あの幼いとき、わたしを姉だと思っていないと言い放った記憶がよみがえる。
彼は右手の親指でわたしの顎をぐいっと持ち上げた。
「千波がキスしてくれたら考えてもいいよ」
彼はそういうと悪戯っぽく笑う。
「キスって何を言っているの? わたしと樹は姉弟じゃない」
「兄弟なんかじゃない」
彼はそう冷たく言い放ち、左手で壁を押した。
部屋に入ってすぐだったため、壁とわたしの位置も近く、少し後退しただけでわたしの背中と壁が衝突する。
「樹?」
わたしは状況に困惑しながら、彼を見る。
彼は射抜くような眼差しでわたしの姿を捉えていた。
冗談には見えなかった。
彼の言葉と状況を真に受けるのなら、彼にキスを迫られているのだろう。
不思議と怖い気持ちは湧いてこなかった。嫌だと思わないのは、わたしの彼の姉になりたいという気持ちが足りないのかもしれない。
わたしはここで樹とキスをするのだろうか。
そう思った直後、胸が高鳴り、何が何だか分からなくなる。
彼の顔が近付いてきて、わたしは目を強く閉じて、顎を床に向ける。
だからといってキスをするわけにもいかない。
樹が何と言おうと、わたしと彼は兄弟なのだ。
わたしの頬がつねられ、目を開けると、笑いをこらえた樹の顔がある。
「するわけないじゃん。お前なんかとさ」
彼にとってわたしはそういう扱いだと分かっていたはずなのに、この数秒の時間に利息をつけて返してもらいたくなる。
わたしは樹の手首をつかむと、振り払う。
「分かっているよ。ただ、目に埃が入りそうになっただけだもん」
とっさに自分でも無理があると言いたくなる言い訳を紡ぎ出し、そのバカさ加減も相成り、深いため息を吐く。
樹はわたしから離れると、心を見透かしたような笑みを浮かべる。
「埃をとってあげようか?」
「近寄らないでください」
わたしは睫毛を払う仕草をする。
「昔は可愛かったのに、何でこんなになったんだろう」
頬を膨らませ、わたしは自分の部屋に戻ろうとした。
「大人になったんじゃない?」
その言葉に反発して振り返ると、樹は涼しい顔でこちらを見ている。
義理とはいえ姉にキスを迫る振りをして、こうやっておちょっくることのどこが大人になったんだろう。
わたしは彼の態度に苛立ち、彼を睨むと、部屋を出た。
その時、玄関が開き、日和が入ってきた。
わたしは思わず体をびくつかせる。
「どうかしたの?」
「何もない」
わたしは慌てて階段に飛び乗り、駆け上がる。だいたいあんな場所であんなことをしてきて誰かに見られたらどうするつもりだったんだろう。
女の子にはもてるのにわざわざわたしにしなくてもいいじゃない。
階段を上りきったわたしは、拳を作り胸を叩くが、乱れた胸の鼓動はどうすることもできなかった。