わたしと姉弟になりたくなかった弟
背中越しに樹の温かさが伝わってくる。
「何で抱き付くのよ。離して」
わたしは混乱しながらも、現状を理解してもがくが、彼は抱きしめる力を強める。
わたしが動いただけではびくともしなくなっていた。
「話が終わったら離す。だからそれまで我慢して」
樹は聞いているだけで切なくなりそうな言葉を綴った。
わたしは今から彼に振られるのだろう。その瞬間を覚悟して、唇を噛んだ。
だが、言葉より先に、首筋に暖かい感触が触れる。
わたしの勘違いでなければ、樹にキスをされたのだ。
「何するのよ」
わたしはもがくが、わたしの体に回された樹の力は弱まらない。
「嫌?」
「嫌じゃないけど、おかしいよ。こんなの」
「おかしい、か。俺もずっとそう思っていた。家族なのに抱きしめたくて、キスしたくて、他の誰にも触らせたくなかった。だから、今度こそ千波のことを忘れようとしたのに」
「忘れって」
「俺は千波のことがずっと好きだったんだよ」
わたしは意味が分からず、体を動かして樹を見ようとした。
だが、わたしの首に顔をうずめた彼の顔は全く見えない。
「何、それ」
「そのままの意味だよ」
「だってわたしのことをブスっていったり、嫌いって言ったり散々言ってきたじゃない。嫌がらせでキスまでしたり」
「どこの世界に嫌がらせでキスする人間がいるんだよ。というか、それは否定しただろう」
「その後の流れをみるとそうとしか思えなかった」
わたしの言葉に樹は笑う。
「好きだからキスしたんだよ。ずっと千波にもっと触れたくてたまらなかった。俺だけのものにしたいと思っていた。今だってもっと千波に触れたいと思っている」
彼のわたしを抱きしめる手が強くなった。
「キスして、ずるずるとこうなっていって、自分でも順序を間違っていたのは分かっていた。でも、いざとなると言葉が出てこなくなったんだ。断られたら、一生立ち直れない気がした。千波が俺のことを好きになってくれるわけないと思っていたから。そうこうしているうちにいろいろあって、言い出せないままになってしまった。半田先輩に告白されているのを知った時、千波を忘れるいいチャンスだと思ったんだ。どうしょうもない男に引っ掛かったら、忘れるものも忘れられなくなるから」
わたしを抱きしめる樹の手に、自分の手を重ね、目を閉じた。
夏以降の樹との出来事を脳裏に思い描いた。
あのわたしを姉だと知らしめた言葉に、そんな意味があるとは考えもしなかった。
「わたしだって同じだよ。樹に好きだと言ったら、もっと傷つきそうな気がして言えなかった」
彼はわたしを抱きしめていた手を解いた。
わたしも彼に触れていた手を離した。
わたしは体を動かし、彼を見据える。
樹の顔はいつになく真っ赤に染まっていた。
わたしの顔も同じように赤く染まっているだろう。
「わたしのことを好きでいてくれたなら、言ってくれればよかったのに」
「でも、中学生や、高校に入ってすぐに告白していたら、どうした? 千波が俺を好きになったのは、高校に入ってからだよね」
「中学生って、樹は小学生のときからわたしが好きだったの?」
「好きだったよ」
少しの沈黙の後、樹がそう答えた。
小学生のときを思い出しても、樹がわたしを好きだと感じる要素は何もなかったはずなのに。
「断ったかも。でも、断らなかったかもしれない」
「千波は断ることもできず、俺を避けた気がするよ」
そんなことないと言いたかったが、そうしてしまっていたかもしれない。
そもそもそんなこと考えたことがなかったのだ。
樹がわたしの頭を撫でる。
「どっちかが気持ちを伝えたら、こんなことにならなかったのかな」
「そうかもしれないな」
「何でかもなのよ」
「だって千波が俺を好きになったのは最近だよな。その前に伝えていたら、めちゃくちゃ避けられそうな気がするよ」
確かに樹を好きになる前だったら、そうだったかもしれない。
彼の仮定の話をすんなり受け入れられるのは、それだけ彼はわたしをよくみているということなのだろうか。
樹がわたしの頭を撫でる。
「千波を好きになってずっと後悔していた。姉なんか好きになってどうなるんだろうって。他の子を好きになろうと思ったこともあった。でも、家に帰ったらいつも千波がいて、幸せなのに、楽しいのに苦しかった。届かないと分かっていたから、せめて同じ高校にも行こうと決めたんだ。徹底的に千波に彼氏ができるのを邪魔してやろうと思った」
「それってものすごく性格悪くない?」
確かに春先の彼はそういう感じだったかもしれない。
わたしは眉根を寄せて、樹を見る。
「悪いよ。姉さんに対しては独占欲がものすごく強くなる。ずっと俺の気持ちに気づかない千波は、それくらいの罰は受けていいかなって思ったんだよ」
わたしもさっき似たようなことを考えていたと思い出し、思わず吹き出した。
わたしたちはある意味、似たもの同士なのかもしれない。
「わたしもさっきそう思ったんだ。わたしをこれだけ苦しめた樹がもっと苦しめばいいって。だから好きって言ったの」
樹はわたしを見て苦笑いを浮かべた。
「俺と千波はずっとこんな感じだな。ちぐはぐで、告白した理由も理由だし」
「それは樹だって悪いんだよ」
「分かっているよ。でも、千波が俺を好きになるとか考えたこともなかった」
「それはお互い様だと思う」
わたしはそう伝えた。
「わたしが樹を好きになったのは最近だけど、どんなに時間がかかっても、わたしは樹を好きだと自覚していたと思うよ。だって、ずっと樹の幸せな顔を見たいと思っていたんだもん。樹が幸せだったら、わたしも嬉しくなるの。今だって、すごく嬉しい」
「それなら嬉しいよ」
彼はあどけない笑みを浮かべると、わたしの左手に右手を絡めてくる。そして左手を頬にあてた。
重なる影を感じながら、目を閉じた。
彼の唇が微かに触れたとき、リビングの扉が開く音がした。
わたしの唇に触れていた感触が消えたのと、ほぼ同時に振り返った。
そこには日和の姿があったのだ。
「これはその」
わたしの顔から血の気が引く。樹を見る余裕はなかったが、恐らく彼もわたしと同じような態度を取っていただろう。
日和はわたしと樹を交互に見ると、右手を米神に当てた。
「何か、いろいろと発展しているみたいだけど、あまりリビングでいちゃつかないほうがいいよ。お父さんとお母さんが見たら腰抜かすと思う」
彼女は驚くでもなく、淡々と告げる。
こっちが逆に焦ってしまう程に。
「日和は驚かないの?」
「こんなところでキスしていたら、さすがにビビるよ。それもさっきまで樹がプレゼントを受け取ってくれなかったらどうしようと気にしていたお姉ちゃんがさ」
「そういう意味じゃなくて、わたしと樹がそういうことをしていたことに」
日和は首筋に手を当てた。
「だって、お姉ちゃんも樹もお互いのことが好きだったんでしょう。年数は樹のほうが半端なく長いけど。ならいいんじゃないの? 合意の上なら、わたしがとやかく言うべきじゃないと思うもの」
彼女に言われ、顔が赤くなる。
横目で樹を見ると、彼も目のやりどころに困っているのか視線をきょろきょろさせながら、頬を赤く染めていた。
「最近仲が悪そうだったのは痴話げんかだったのか」
「痴話げんかってそんなんじゃないよ。わたし、樹がわたしのことを好きだなんて知らなかったの」
「全然気づいていなかったの?」
「全く」
日和は苦笑いを浮かべながら、自分の頬をかいた。
「利香さんからそれっぽい話は聞いていたけど、素だったんだね。おめでとうと言っておくよ。特に樹にね」
「何で俺なんだよ」
「幼稚園のころからお姉ちゃん一筋だったんでしょう。十年以上も片思いをし続けるってすごいよね。それもこの鈍いお姉ちゃんに対して」
「幼稚園から?」
驚きの声をあげたのはわたしだ。
せいぜい小学生くらいからだと思っていたためだ。
日和は勝ち誇った笑みを浮かべると、腕組みをする。
「日和」
強い口調で樹は言うが、日和の得意げな表情の前には藻屑と化す。
そんなやり取りをみながら、わたしは意味が分からない。
「じゃあ、樹が再婚時にわたしは姉じゃないといったのは、嫌っていたからじゃなかったの?」
「嫌ってかあ」
日和は樹を見て苦笑いを浮かべた。
「お姉ちゃんのことが大好きでたまらなかったからだよ。家族になったら、結婚できなくなると思っていたみたいだよ。お嫁さんにしたい相手をお姉ちゃんなんて呼びたくなかったもんね。あの頃からお姉ちゃんのことが好きでたまらなかったみたい。本当は再婚も反対したかったけど、お父さん思いだから言い出せなかったんだよね」
付き合いの深さの差なのか、日和の勘の鋭さなのか、彼女はわたしの知らなかった情報を続々と並べてくる。
その言葉に樹が肩を落とし、徐々に小さくなっていく。
「これ以上邪魔はしないけど、適当なところで部屋に退避したほうがいいよ」
彼女はそう言うと、扉を閉める。
階段のあがる音が響いた。
わたしは横目で樹を見ると、顔を染めた彼と目が合う。
「本当なの?」
「本当だけど、こんなタイミングでばらさなくてもよかったのに」
「でも、嫌われていたんじゃなくて良かった」
「だから、ずっと好きだったと言っただろう?」
彼はそっとわたしの額にキスをする。
ここではなにもされないと思っていたわたしの心臓が跳ねる。
「樹」
「もっとこうしていたいけど、さすがに両親が帰ってくるとまずいから、これを片づけて、部屋に行くか」
樹は散らばったコーヒーの粉を指さした。
わたしはさっきキスする瞬間を日和に見られたことを思い出し、その言葉に頷いた。




