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わたしを抱きしめた弟

 玄関の鍵は閉まっていて、家の中には誰もいなかった。

 両親は親戚の家に行っていた。

 樹は分からないが、どこかに出かけているようだ。

 リビングに入ると、暖房が切れていたためか、外ほどとまでは言わないまでもずいぶん寒い。

 わたしは喉を潤すためと、冷えた体を温めるためにコーヒーを作ることにした。

 コーヒーメーカーを軽くゆすぎ、コーヒーの粉を手にしたとき、リビングの扉が唐突に開く。


 そこにはコートにグレーのマフラーをした樹の姿があった。

 彼はあからさまに怪訝そうな表情を浮かべた

 わたしの胸が痛む。


「日和は?」

「買い物。もうすぐ帰ってくると思うよ」

「分かった」


 彼はリビングを出ていこうと背を向けた。

 だが、樹はぴたりと動きを止めた。


「プレゼント、ありがとう」


 朗読をするような淡々とした声色に、彼が誰からそれを聞いたのかわかった気がした。

 日和からメールで何か言われたんだろう。


「うん」


 ありがとうと言われた手前、受け取ってはくれるだろう。

 だが、彼が喜んでくれないものをあげても仕方ない。

 わたしはプレゼントを買ったことを後悔していた。

 自分の気持ちになんて気づかなければよかった。


 悲しみが固まりとなりわたしの目からあふれ出た。

 わたしの手にしていたコーヒーの袋がてから滑り落ち、台所に散らばったのだ。


「姉さん?」


 樹が驚いたように振り返る。彼はわたしがコーヒーの袋を落としたのに気付いたようだ。


「片づけるから部屋に戻っていたら? あとで作っておくよ」

「いいから」


 八つ当たりととらえられてもおかしくないほど強い口調で言い放つと、その場で屈みこんだ。

 手でコーヒーの粉を集めようとするが、まとまらず不規則な塊を形成する。


 何でこんなになってしまったのだろう。


 自分で兄弟になりたがっていたはずなのに、彼から弟としての態度を取られると苦しさだけが増す。

 なぜわたしはこうも利己的なのだろうか。

 少し前なら、きっと喜んでいたはずなのに、この半年でわたしと樹の関係は大きく変わってしまった。


 そもそもなぜわたしは兄弟になりたいと思ったのだろう。


 わたしの体に影がかかる。

 顔をあげると掃除機を手にした樹が立っていたのだ。


 わたしは手を離すと、後退する。

 彼は掃除機の電源を入れると、丁寧に吸い取っていく。


 弟がほしかったわけではなかった。

 わたしには妹がいたし、日和と一緒にいるのは楽しかった。

 だから、兄弟をほしいと思ったことは一度もなかった。


 だが、ふっと過去のワンシーンが頭を過ぎった。

 樹のお父さんは忙しい人だ。樹の傍にいたくても、なかなか一緒にいられなかった。

 樹もそんな父親のことを理解して、わがままを言わなかった。


 子供の時、わたしのお母さんが働いていても、わたしには日和がいて、家に一人になることはなかった。だが、樹はこの広い家に一人きりですごしていたのだ。


 だが、そんな樹も寂しさをわずかににじませることがあったのだ。寂しい気持ちを抑え、耐えている彼を見て、一緒にいたいと思った。だから彼と家族になって、喜んでいた。彼も今までのように寂しい思いをしなくていいのだ、と。

 その言葉を表すように、日和といるときの樹はすごく楽しそうだったのだ。


 わたしの彼と兄弟になりたいという始まりは、ただ樹の幸せそうな顔が見たかったからだ。

 そもそもわたしが樹と兄弟になりたいと思ったのも、家族愛とは違う気持ちだったのかもしれない。


 気づかなければよかった。

 気づかなければ、樹を弟だと思い、これから先も普通に生きていけたのかもしれないのに。

 こんなのはただ苦しいだけだ。


「部屋に戻るね」


 わたしは目頭が熱くなるのを感じ、そのまま樹のわきを駆け抜ける。

 そして、ソファに置いていた荷物を手に取ろうとする。

 だが、わたしの指先がバッグを弾いた。バッグは紙袋を巻き込みながら、中身をまき散らしていた。

 鍵を取りだしてから、バッグのチャックを閉めていなかったのだ。


「大丈夫?」


 樹は掃除機の電源を着ると、わたしのところまで駆け寄ってくる。


「大丈夫だから」


 中身を拾い集めるわたしの前に荷物が差し出された。

 わたしが広げたバッグの中身と、もう一つ。

 あのマフラーの入った紙袋もあった。


「これも」


 わたしはそれを受け取ろうとした手をひっこめた。

 それを見たらまた部屋に戻って泣いてしまいそうだったからだ。


「少し早いけど、誕生日プレゼント。樹にあげる」

「ああ。ありがとう」


 彼は定型文のようにそう答えた。


 感情ののってない言葉に、わたしの胃の奥がずたずたに切り裂かれ、呼吸するのも苦しくなってきた。

 樹の誕生日のことを考えていた時間が否定されたような気がしたのだ。

 わたしは衝動的に再び泣き始めた。

 樹はきっと迷惑なことになったと思っているだろう。

 だが、意外なことに静寂を破ったのは樹の声だった。


「さっき、半田先輩と一緒にいるのを見たけど、何か言われた?」

「半田くんは関係ないよ」


 しゃくりながら、何とかそう言葉を発する。

 彼に何か言われても、わたしが泣くことはなんてない。

 わたしの心をここまでかき乱すのは、樹だけなのだ。

 それがどんなに他愛ないものでも、無関心を示されると、心の中が締め付けられるように苦しくなる。


「だったらどうして」

「たいしたことじゃないよ。わたしのことなんて気にしなくていいよ」


 心無い気持ちがスラスラと言葉として外に飛び出してきた。

 本当は気にしてほしいと心の中で叫んでいたのにも関わらず。


「俺、今は姉さんには好きな相手と幸せになってほしいと思っている。だから、泣いていたら気になるし、何かあったら相談に乗るよ。半田先輩に嫌なことを言われたなら、俺が代わりに文句を言うから。姉さんは人がいいから、言えないだろうし」


 樹はわたしの肩に触れる。だが、泣き止まないわたしを放っておけなかったのか、そっと抱き寄せた。

 きっとそれはわたしが病み上がりの樹を抱きしめたのと同じだ。

 そんなことにドキドキしながらも、胸が締め付けられる。

 なんでこんなに苦しいのだろう。


「半田君は本当に関係ないよ。告白をされたのは本当だけど、すぐに断ったの。好きな人がいる、と」


 少の沈黙の後、淡々とした声が耳をかすめた。


「それって俺の知っている相手? 俺にできることなら協力するよ」


 彼の顔は見えない。だが、その間の抜けた言葉に、空笑いしか出てこない。

 そこには自分である可能性を全く考慮に入れていないのだろう。

 あれだけわたしの心をかき乱したのにも関わらず。

 樹の言葉によって半ばやけになったわたしの心は、自暴自棄になりもっと苦しむことを望んでいた。

 わたしの苦しみを樹に押し付けて、彼も同じように苦しんでほしかった。


「よく知っていると思うよ」

「木崎とか?」

「樹はわたしに傷ついてほしくないと言ったけど、わたしを一番傷つけているのは樹なんだよ」

「そっか。まあ、いろいろしてしまったから、思い当たることはあるよ。今更どうしょうもできないけど、何かできることがあれば償うよ」


 樹の手がわたしの体から解かれたが、わたしは樹の背中に手を回す。

 わたしは彼を抱きしめていた。


「姉さん?」

「だったらわたしを振って。大嫌いだと」

「振るって。何でそんなこと」

「わたしが好きなのは樹なんだよ」


 驚きの声が届いた。

 わたしは彼の胸に顔をうずめた。

 樹は今、困り果てているだろう。恋愛感情を持ってもいない姉に好かれていると知ったのだ。


 だが、わたしの期待する言葉はいくら待っても聞こえてこなかった。

 彼にとってよほど気持ち悪いことだったんだろう。

 義理とはいえ、幼いころから一緒にいた姉に好かれるなんて、ありえないだろう。


「ごめん。今日限り忘れるから、もう気にしないで」


 わたしは精一杯取り繕いの言葉を紡ぎだし、樹から手を離す。

 そのまま部屋を飛び出す予定だったが、次の瞬間、わたしは樹の腕の中にいた。

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