わたしの昼食を奪う弟
チャイムが鳴り終わり、ため息交じりに立ち上がる。
「本当、ごめんね」
前の席の利香が肩越しに振り返り、目があった。
「いいよ。いってらっしゃい」
わたしは鞄を持ち、教室を出た。いつもわたしは利香と昼食を取る。だが、思わぬ邪魔が入ったのだ。それはもちろん樹だ。
わたしは樹に嫌われているが、そんな彼もたまに優しさをにじませることもある。
もっともそのやさしさは結果的に勘違いだったわけだが……。
家をでるとき、母親の託してくれた二人分のおべんとうを樹が受け取るのを見て、今日がその日なのだとぼんやりと考えていたのだ。だが、彼はそれを学校についても手放さなかったのだ。
弁当を要求するわたしに彼は涼しい顔で、「昼休みは裏庭で待つ」と言い放ったのだ。
母親が作ってくれたお弁当があるのに昼食を買うわけにもいかず、自ずと樹と一緒に食べるのが半ば強制的に決定したのだ。
階段をおりたとき、階下から声が聞こえる。
「樹君って本当にかっこいいよね。今日、話しかけたら笑顔で返してくれたんだ」
「いいな。わたしも話をしたいけど、なかなか難しい」
まるでアイドル扱いだと失笑する。
見た目はともかく、中身はかなり変わっているのに。
難しいといった少女が言葉を続ける。
「樹君っていつもお姉さんと登下校しているけど、シスコンなのかな」
わたしは思わず足を止め、そんな二人の会話に耳を傾ける。
樹の教室は一階なので、たまにこうした会話を耳にすることもある。
見た目麗しく、運動も勉強もでき、温厚で通っている彼は、一年にもかかわらず学校でも有名で、それに付属するように、血のつながらない姉がいるということも広まっていた。
「あれってお姉さんのほうがブラコンで仕方なく構っているだけに見えない?」
「そう見えるかも。香菜って鋭いね」
「いつも樹君を見ているから分かるんだよ。お姉さんが邪魔で近づけないよ。本当、樹君は優しいよね」
得意げな彼女の言葉に促され、一瞬、蜘蛛のように自分が樹にくっついているのを想像し、気持ち悪くなってきてしまった。
だが、樹を好きな女の子の間では、血のつながない姉にしつこくつきまとう弟の存在を認められないのか、わたしが樹にぞっこんだと言われていることも知っている。それを直に聞くと複雑ではあるが……。
彼を好きというフィルターは特殊なのか、彼女の激しい勘違いの賜物なのか、わたしはいつの間にかブラコンに仕立て上げられるようにさえなっている。
彼女たちにしてみたら、彼はそんな年甲斐もなく弟に構ってもらおうとする姉を気遣う優しい弟といったところだろう。
実際はわたしのことを姉と思っているのかと怪しいレベルだ。便利な暇つぶしの相手とでも思っているような気はする。
本当、何を考えているのか分からない。
足音が遠ざかっていくのを確認し、再び階段を下りる。
昇降口で靴を履きかえると、校舎の裏庭まで行く。そこにベンチにボーっと座っている樹の姿を見つけたのだ。
彼をちら見している人はいるが積極的に話しかけようとしている人はいなかった。
わたしはそんな視線を無視して、樹のところまで近寄る。棘のある視線が体中に突き刺さる。
「お弁当を返して」
わたしは彼の前に手を出す。
「どうせここで食べるんだからいいんじゃない?」
「どこの世界に姉とごはんを食べる弟がいるのよ」
「俺は姉さんと食べたいと思っているよ」
彼はそういうと微笑んだ。
学校では姉さんと呼ぶのに、家に帰ると千波だのお前だの態度がらっと変わる。
わたしはその彼の二面性にため息を吐き、彼の隣に座る。
「そうね。あんたは普通じゃないよね。わざわざ登下校も一緒にしたがるくらいだもん」
「褒めてくれて嬉しいよ」
彼は意味不明な言葉を綴ると、爽やかに笑う。
「褒めてません」
一応否定をしておくが、彼は聴く耳を持たない。
樹と日和は同じ学年だが、中学時代は一緒に行くこともあればそうでもなかった。わたしが中三のときはなんだかんだで二人と一緒に行く機会は多かった気がする。そんな彼が登下校を一緒にしたがるとは思わなかった。
高校入学後に一緒に昼食を食べるのはこれで三度目だ。毎日の登下校に比べると可愛いものだとは思う。
彼の申し出に応じるわたしも相当なものだ。だが、彼に完全なノーを突きつけられないのは、今の生意気な彼に何気なく昔の面影を思い出しているのかもしれないと思った。彼があのまま大人になっていたらどれだけ素直な子になっていたんだろう。普通に友達のように彼と話せたのかもしれないと、ありえない未来を脳裏に思い描くこともあるためだ。
「いつも板橋先輩と食べているんだよね。一緒に連れて来たらよかったのに」
「誘ったけど、断られたの」
「まあ、たまにはいいんじゃない」
「あなたが言う言葉でもないけどね」
樹と同じ言葉は利香に言われた。
彼女は水入らずで、食べてこいの一点張りだったのだ。
彼女は友人が多いため、わたしがいなかったとしても受け入れてくれる友人も少なくないだろう。亜子とも利香つながりで知り合ったのだ。
わたしは彼の隣に座るとお弁当箱を受け取った。リボンをかたちどった藍色の紐をとき、白いプラステックの容器を取り出した。
蓋をあけると、わたしの好きなおかずがてんこ盛りになっている。
「正直な顔」
彼は思わず顔をにやけさせたわたしを見ると、ぷっと噴出した。
「別に嫌々食べるよりいいでしょう」
「いいんじゃない?」
どこか馬鹿にしたような冷めた声に反発を覚えながら、箸を入れる。
そのとき、わたしの隣にウーロン茶の紙パックがぽんと置かれる。それはわたしがいつも昼に飲むお茶だ。
「これ」
「姉さんの」
「ありがとう。お金は払うね」
「いいよ。それくらい」
わたしはおにぎりを一つ食べ終わると、それに手を伸ばす。
さっきまでわたしの心を覆っていた樹に対する敵意があっという間に崩れ去り、これではいけないと自制する始末だ。
いじわるな彼はたまにこうした、優しさを覗かせる。
わたしはストローをパッケージに差し込んだ。
少し日に焼けた肌にうっすらとクマが出来ているのに気付いた。
嫌味を言うし、わたしの事を嫌いなのは分かっている。でも、彼はたまに優しくしてくれる。それに勉強ができるといっても、それに見合う努力もしている。一緒に暮しているので、彼の部屋の電気が消えるのが一番遅い事も知っている。そうしたことが積み重なり、十年近く敵意を浴びせられても、そこまで樹を嫌いにはなれない。
その時、ひそひそと人の話し声が聞こえた。顔をあげると、何人かがわたしと樹の顔を見比べていた。
姉弟で一緒にご飯をたべるのはありえないとでも言われているのだろう。わたしが道化となって。
今の状況を改めて理解し、急に恥ずかしくなってきた。
「やっぱり教室に戻るよ」
立ち上がったわたしの手をご丁寧につかむ。視線が鋭くなったので、何人かには見えていたのだと思う。
「そんなに俺と一緒に食べるのが嫌なら毎日お弁当を奪ってあげるよ」
わたしは強制的にその場に座らされることになる。
満足そうににこりと微笑んだ彼を見て、やっぱり悪魔だと思った。
家に帰ってもすぐに会えるわたしとご飯を食べて何が嬉しいのか良く分からない。
「樹は友達はちゃんとできたの?」
「出来たよ」
彼はブレザーの上着から、携帯を取り出し、わたしに見せる。
「見ていいの?」
「別にいいんじゃない?」
樹は興味のなさそうな顔をする。
彼の言葉に甘えアドレス帳を表示すると、ずらっと男女問わずに名前が並んでいる。その中にはわたしのクラスメイトの女の子の名前まであった。
彼の周りの人は樹の意味不明な行動を気にしていないのか、それともあんな風に超解釈するかのどちらかだろう。
顔がいいとあんな感じで自由に解釈してくれるのだろう。
見慣れたわたしでさえ綺麗な顔だと思うくらいだ。
けれど、その内面は謎めいていて、彼が何を考えているのか分からない。携帯を見られて平気というのも変わっている気がする。
わたしは携帯を樹に返す。
同じ学校と行っても見知った名前も少なく、ただ眺めることしかできなかったのだ。
ただ、彼には友人が多いのだろうということだけは分かった。