わたしの少しだけ昔に戻った弟
わたしは目を覚ますと制服に着替え、リビングに行くことにした。リビングで樹に遭遇した。
昨日は昨日だと考えて、自分の席に着こうとすると、優しい声が届いた。
「おはよう。昨日は悪かったな」
わたしは思わぬ言葉が届いたことから反応に困る。だが、すぐに気持ちを立て直して、頷いた。
「気にしないで、体調は良くなった?」
樹は頬を赤らめて頷いた。
「よかった」
「今から学校に行くんだよね。準備してくるよ」
「今日休んだら?」
驚きの返事を交わしたのは母親だった。
「わたしもそう思うよ」
「大丈夫。もう良くなったから」
彼はそう言うとご飯を食べ終わり、準備をしに部屋に戻った。
樹が少し前の彼に戻ってくれたみたいだ。利香たちには悪いが、昨日の約束を選ばなくて良かったかもしれない。
わたしがご飯を食べ終わり、玄関に行こうとすると母親に呼び止められる。
「体調が悪そうだったら早退するように伝えておいてね」
「分かった」
木崎君にも念のため頼んでおいたほうがいいだろうか。
、樹がちょうど階段を降りてきた。
彼は照れたように会釈をした。
「本当に休まなくて大丈夫?」
「姉さんも一緒に休んで看病してくれるなら、休んでもいいよ」
「何言っているのよ。そんなのお母さんが許さないって」
わたしは慌ててそう口にする。
樹の右手の人差し指がわたしの額を押した。
「冗談」
本当なら怒ってもいいのに、少し前のような樹の行動に、思わず心がほっとしていた。
「どうかしたの?」
「何でもないよ」
わたしと樹はリビングから顔を覗かせた母親から逃げるようにして家を出た。
わたしたちは家の外に出ると、互いに顔を見合わせ苦笑いを浮かべた。
「本当に樹は相変わらずなんだから」
「どういたしまして」
彼はにっと笑った。
こうして彼と和やかな時間を過ごすのは、ものすごく久しぶりのような気がした。
学校が見えてきたとき、樹が思い出したように言葉を発した。
「今日、帰り迎えに行くから」
「いつも通り昇降口でいいよ。病み上がりなんだよ」
「平気だよ。昨日、姉さんが看病してくれて元気になった」
いままでの樹の言葉に心を和ませる一方で、自戒した。
わたしの願う今までと同じにはいかないだろう。
樹には彼女といってもおかしくないほど、親しい相手がいた。
そのことを忘れないようにと何度も心に言い聞かせた。
教室に入り、自分の席に行くと利香がにっと明るい笑みを浮かべる。
「今日は仲良さそうだったね」
「少しね。ホッとしたかな。病み上がりで弱気になっているだけかもしれないけどね」
「千波は最近、樹君が機嫌が良くなかった理由に気づいてないんだろうね」
利香は困ったように笑う。
「利香は知っているの?」
「樹君ってかなり分かりやすいもの」
「日和もそんなことを言っていたけど、わたしにはさっぱり分からないよ。佐々木さんとうまく言ってないとか?」
わたしは遠慮がちに問いかける。
「何で佐々木さん?」
「樹と付き合っているんだよね」
利香はあっけにとられたようにわたしを見る。
「ずっとそう思っていたの?」
「先週辺りからはずっと。樹もその気だったみたいだもん」
「変に意固地だね。多分、付き合ってはないと思うよ。樹君もそう言っていたもの」
「そうなの? よく二人で遊びに行っていたみたいだけど」
「樹君には樹君の思うところがあるんじゃないの?」
「だったら、なぜ機嫌が悪いんだろう」
佐々木さんが振り向いてくれなくてというのはあり得ないだろう。
彼女から樹に告白をしていたのだ。
「千波はもう少しわが身を振り返ったほうがいいと思うよ」
「わたしが樹を怒らせたの?」
彼が冷たくなった前後に思い当たることがちらほらあるのが辛いところだ。
「半分あたりで半分はずれかな。ま、今朝いつもどおりだったなら、気にしないでいいと思うよ」
「そうだね」
わたしは利香の言葉に理解を示しながらも首を傾げた。
とりあえず気にしなくていいということなんだろう。
そのとき、教室の扉が開き、半田君が入ってきた。
わたしは小さな声をあげるが、すぐに彼は教室を出て行った。
「半田君に昨日のことを謝ってくるね」
「いってらっしゃい」
わたしは利香に見送られ、教室の外に出た。
わたしは廊下を急ぎ足で歩く半田君を呼び止めた。
「今、時間ある?」
彼はわたしを見ると、意外そうな顔をした。
「どうかした?」
「昨日、ごめんね」
「いいよ。弟さん、熱があったんだよな」
わたしは頷く。彼にも夜メールを送っていたが、直接謝りたかったのだ。
「体調はどう?」
「もう良くなって学校には出てきたよ」
「そっか。よかった」
わたしも頷く。
「本当に藤宮って分かりやすいな」
半田君が寂しそうに笑う。
「何が?」
「ここ最近で一番幸せそうな笑顔をしている」
わたしは思わず頬に手を当てた。
「弟さんと仲直りできたんだな」
「喧嘩していたのかもよくわからないけどね。一応、できた」
「藤宮のそんな顔を見れてよかったよ。花火大会のときと二度目かな。やっぱり弟さんには敵わないな」
そう言い、寂しそうに笑う半田君の言葉に胸をわしづかみにされたような気がした。
「弟だもん」
再び、半田君は寂しそうに笑った。
「一つだけわがまま言っていい?」
「どうしたの?」
「まだ時間があるから、少し歩かない?」
わたしは彼の提案に頷き、彼のあとを追う。
彼は階段をおり、家庭科室のそばを抜け、一階の渡り廊下のところで足を止めた。
わたしの髪を乱していく冷たい風が人を遠ざけ、話をするには絶好の場所に変えていた。今生徒の登下校が多い時間でも人気がほとんどない。
「ごめん。ただ、人に聞かれたい話じゃなくてさ」
「いいよ。何?」
「本当は言わないでおこうと決めたんだ。でも、俺もいい加減踏ん切りをつけたかった。自分勝手なのは分かっているけど」
わたしは意味が分からずに彼を見る。
彼は苦しげな表情で言葉を絞り出す。
「ずっと好きだったんだ」
わたしは思いがけない言葉に、虚をつかれたように彼を見ていた。
だが、答えは瞬時に決まっていた。
「わたし」
「返事は分かっているよ。ノーだろう?」
あまりに的確な返答に、彼に失礼な気がしてすぐにはいとはいえなかった。
「ごめんね」
「俺も引きずるのが嫌だったから、言いたかっただけなんだよ。これですっきりするよ。本当はいわないでおこうと決めていたんだ。花火大会のとき、藤宮が誰を好きなのか気づいたから」
よみがえるのは樹とキスをした甘い記憶。そして、恵美に言われた脅迫のような言葉だ。
「仲直りできたみたいで良かったよ。好きなんだよな」
わたしは彼の言葉に目を見張り、頷いた。
他の人ならともかく勇気を出して告白してくれた相手に嘘を吐いてはいけないと思ったためだ。
「そのことは誰にも言わないでほしい」
「分かっているよ。弟さん、人気あるからね。でも、付き合いだしたときは教えてほしい。もちろん、誰にも言わないから」
彼はそういうと、明るい笑みを浮かべていた。
きっとそんな日は永遠に来ないと分かってても、頷いた。
本当に彼は良い人なのだろう。
樹がわたしの心の中に入り込んでこなければ、わたしは彼を好きになる可能性があったのだろうか。
過去に戻れないことは分かっていても、樹を好きにならなかったわたしを想像できなくても、今のやるせない現状はそう思わずにはいられなかった。




