わたしを姉と呼ぶ弟
放課後になると、寝癖はほぼもとに戻っていた。
「じゃあね。体調悪いなら早く帰ったほうがいいよ」
わたしは心配してくれた利香に会釈をして、彼女を見送った。
樹にメールを送ろうとするが、文章を打つ気がせず、イスに座る。
あれから気分は悪かったが、なんとか倒れずにはすんだ。
放課後まで何とかして残っていないといけないという気持ちが、わたしの気力を支えていたのかもしれない。
このままではいけないと、再び携帯を手に取った時、ちょうど樹からメールが届いた。
少し遅くなるらしく、先に帰っていてもいいというものだった。
わたしも用事があるので、用事が終わったら連絡してほしいとメールを送っておいた。
彼女と待ち合わせをしている図書館棟の入り口まで行く。
だが、彼女の姿はどこにもない。
図書館棟という名前の通り、校舎と渡り廊下で行き来はできる。二階と、わたしのいまいる一階。そして、図書館棟の中にも機材を置いている部屋もあるのだ。もっと正確に場所と時間を聞いておくべきだったと思ったとき、図書館棟の裏にある花壇から足音が聞こえる。
わたしはその花壇のほうに歩いていき、校舎から花壇を覗きこんだ。
そして、そこに立っている生徒を見て、ドキリとする。
そこにいたのは恵美と樹だったのだ。正確には樹はわたしに背を向けていて、恵美と樹が向かい合う形で立っていたのだ。
「できれば手短にすませてほしいんだけど」
樹は困ったような笑みを浮かべると、髪の毛をかきあげる。
「もう少し待ってほしいの」
「何で?」
その答えを模索するかのように、辺りを見渡した恵美の視線がわたしとぶつかる。そして、彼女は一瞬だけ口元を歪め、一学期に見せたような、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
わたしは朝の笑みを思い出し、左胸に手を当て後退した。
恵美の視線がわたしから離れ、樹を見る。その表情には勝ち誇った表情は微塵もない。
「わたし、藤宮君のことが好きなんです」
彼女はそうあっさりと告げる。その言葉にわたしの心拍数が速くなる。一学期にわたしと樹の関係を聞かれた時から、こうなることは予想していたのだと思う。だが、樹と関係が近くなったことが、わたしに再びショックを与えていた。
樹は全く表情を変えなかった。そして、目線を足元に落とす。
「俺は」
「まさかお姉さんのことが好きだなんて言わないですよね」
樹の言葉を打ち消すように、恵美が微笑む。
樹は驚いたように少女を見る。
「お姉さんだもん。恋愛対象にはならないでしょう」
「俺と千波は血がつながっていないから、厳密には姉じゃないよ」
彼の言葉はわたしの希望が入っていたためか苦しげに感じられたのだ。
「知っていますよ。でも、この前、先輩のお姉さんが言っていたんですよ。樹さんはただの弟で、恋愛対象にはならないと」
恵美は玩具をみつけた子供のように愉快そうに笑う。
この前なんて定義はあいまいだ。わたしからすると、花火の前後で樹への気持ちは大きく変わった。
わたしは樹が好きだ。
だが、頭の中では何度も繰り返すのに、わたしの言葉は喉を通った途端、無に帰す。
人の告白を盗み聞きして妨害するのをよしとしなかったのか、否定することで樹への気持ちを伝えるのを恐れていたのか。それとも朝のことがわたしの口をふさいでしまっていたのか。わたしによい感情を持っていない恵美の前だからこそ、言えなかったのか。
可能性のあることは思いつくが、なぜかははっきりと分からない。
ただ、わたしは金縛りにあったかのようにその場に突っ立っていた。
「ね、藤宮先輩」
その言葉に、びくりと体を震わせた。
恵美はわたしを見るとにやりと微笑んだ。
樹は唖然とした顔でわたしを見ている。
わたしは彼女にはめられたのだ。
わたしと樹の関係が目に見えて変わったのを感じ取り、先手を打ってきたのだろう。わたしは樹を弟だと言った。それは真実だ。わたしたちはお互いの気持ちを一度も確認し合っていないのだ。
「ゆっくり考えてね。わたしは焦らないし、気持ちが変わるのを待つよ。お姉さんもわたしたちのことを応援してくれるんだって」
彼女はそれだけを言い残すと、わたしに頭を下げる。彼女は踵を返し、立ち去っていく。
砂を踏む音が耳を掠めた。
顔をあげると、樹がまるでクラスメイトに向けているような他人行儀な笑みを浮かべていたのだ。
「帰ろうか。姉さん」
わたしはその言葉に唇を噛んだ。
わたしと樹はそのまま学校を出る。
樹は一言も口を開かなかった。
「樹、あのね」
数えきれないほど、言葉を飲み込んだ後やっとの思いで言葉を絞り出す。
「何も言わないでいいよ。俺たちは姉弟だもん」
だが、その振り絞った勇気も樹の言葉に一掃される。
彼はわたしを拒絶したのだと感じ取ったためだ。
家に帰ると、樹はそのまま直行して、わたしは玄関に取り残される。
わたしは玄関に座り込んだ。
彼女がわたしと樹とのキスを見ていたとして、樹とのことが知られればどうなるのだろう。
わたしだけならいい。樹まで変な目で見られるに決まっているのは絶対に嫌だった。
だから、わたしは彼女の言ったように邪魔だけはしないようにと心に誓った。
恵美との会話を聞いてしまった日から、樹とわたしは以前と変わらずに登下校はしている。
だが、彼はわたしにはどこか壁を作っているような気がした。
あえていうなら、あの半田君から嫉妬すると言われた後のことが延々と続いている感じだ。
恵美の狙いはもともとわたしと樹の関係を壊すことだったのだろう。あれから彼女はわたしの傍に顔を見せなくなった。
たまたまかもしれないし、他に理由があるかもしれない。だが、わたしはそうだと半ば断定してしまっていたのだ。
樹と並んで歩いていてもその気持ちが見えず、まるで新しく知り合った知人と一緒に歩いているような感覚に陥ってしまっていた。
それからしばらくして樹が一年の女の子を振ったという噂が流れてきたが、わたしにはそれが恵美のことなのか、真偽のほどさえも分からなかった。




