わたしに好きになられた弟
放課後、亜子に別れを告げ、入れ違いに亜子のところに岡部君がやってきた。
わたしと利香は一足先に教室を出ることにした。
階段のところで樹に遭遇する。
「じゃあね」
そう言い、立ち去ろうとした利香を樹が呼び止める。
利香は意外そうな顔をして振り返った。
「先輩も一緒に帰りませんか?」
利香はわたしと樹を交互に見ると、にやりと笑う。
何か嫌な予感がする。
「せっかくだから、そうしようかな」
「余計なこと、言わないでよね」
わたしは昇降口で靴を履くために樹と別れた時、利香にそう念を押す。
「分かっているよ」
彼女はそう笑っていたが、わたしの期待は即座に裏切られることになった。
「千波って可愛いと思わない?」
学校の外に出ると、利香はそう樹に問いかける。
「ちょっと利香」
わたしは慌てて辺りを見渡すが、幸い周囲には誰もいなかった。
「思いますよ」
樹はそうにこやかに告げる。今朝の会話が思い出され、わたしは気恥ずかしさを感じながらどう反応していいか分からずに目を逸らす。
「樹君はどういうところが特に思う?」
「利香、恥ずかしいからやめて」
「全部かな」
樹はしばらく考えると、そう言葉を漏らす。
わたしの顔はものすごく真っ赤になっていたと思う。
それくらい顔が熱い。
それからは取り留めのない会話をし、利香と交差点のところで別れる。私達は家に帰ることになった。
二人きりになって、樹に甘い言葉を囁いてほしいと思っても、彼との会話は味気ない。わたしは物足りなさを感じていた。自分からは言い出せない。樹はわたしとの関係をどうしたいと思っているのだろうかという考えが頭を過ぎる。だが、彼の言った言葉に勇気づけられながらも、聞きたいと思っても内容が内容だけに外でするには憚られた。
どこかで間違い、誰かに聞かれたくないためだと思う。
家に帰ると鍵は閉まっていた。母親は買い物に出かけたのか、誰も家にはいないようだ。
樹が鍵を取り出し、家の中に入る。
今が聞くチャンスだろうか。その考えとともに勝手に口が開いていた。
「樹」
彼は振り返る。
だが、人気のある場所だと人に聞かれるのを気にしていたくせに、樹と二人きりになれば、彼から何を言われるのかで怯え、慄いていた。
今まで樹に対して腹が立つことはあっても、こんな気持ちになったことは一度もなかった。
「やっぱりいいや」
「変なの」
そう笑うと、彼は階段を上っていく。
樹がわたしを好きかもしれないという確証のない現実と、わたしの中にある彼との甘い時間を続けたいという気持ちが、その問いかける勇気を奪ってしまっていた。
翌日、学校に着くと、まだ亜子の姿はない。もう既に利香も学校に来ていて、彼女と目を合わせるとどちらかともなく首を横に振っていた。
お互い、昨日告白を決意した亜子の動向が気になるようだ。
朝のホームルームの開始前五分前に、亜子と岡部君が一緒に登校する。
その様子を見て、利香が振り返り、わたしも肩をすくめた。
どうやら彼女の勇気を込めた告白はうまく行ったのだろう。
わたし達が彼女から報告を聞くのは、話をしっかり聞けて、長時間教室を開けられる昼休みになった。彼女とは一学期の途中から一緒に昼食を取るようになった。そのために、今日だけは教室から中庭に移動して昼食を食べることにしたのだ。
亜子はそこに到着すると、頬を赤らめ微笑んだ。
「昨日、告白したらいいって言われたの。昨日は舞い上がってメール送れなくてごめんね」
「気にしなくていいよ。うまくいって良かったね」
「ありがとう。みんなのお蔭だよ」
亜子は目を輝かせながら、頷く。
「もし一緒に昼を食べるなら遠慮なく言ってね」
利香の言葉を、亜子は慌てて否定する。
「そこまではないよ。向こうも周りに宣言するのは、って言っているから、それとなく一緒にいるくらいかな。来年、受験生だから今年の内にいろいろ遊びに行きたいな」
春先から彼女の気持ちを知っていたためか、喜ぶ彼女を見ていると自分のことのように嬉しくなっていた。
放課後、樹と待ち合わせをしている靴箱まで行く。すると、ちょうど階段のところで、恵美に出くわしたのだ。彼女はわたしと目が合うと、目を細めていた。
「今帰りですか?」
わたしは彼女の言葉にうなずく。
彼女に対する警戒心はあるが、それをできるだけ表に出さないようにする。
「先輩と藤宮君ってすごく仲が良いですよね。他の異性が入る隙がないくらい」
「そうかな」
わたしは彼女に対しては苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「先輩は彼氏作らないんですか? わたしの同じクラスの子が先輩のこといいなって言っていましたよ」
「今はそういうのはいいかなって思っている」
「そうなんですね。わたしは先輩みたいに強くないから、彼氏ほしいな。でも、なかなか難しいですけどね」
一瞬樹のことかと思ったが、彼女は樹のことには一切触れなかった。
彼女が本気でわたしを慕っていると思えないのは、あの一学期の件があるからだろう。
「千波」
振り向くと、樹の姿がある。
「じゃ、先輩。また今度」
彼女は愛らしい笑みを浮かべると立ち去って行った。
「さっきの」
「知っているの?」
「顔は何度か見たことあるけど、名前までは」
「そっか。昨日友達になったの」
友達といっても、何かが違うことは分かっていたのだと思う。
ただ、そう言っておかないと面倒事に巻き込まれそうな気がしたというのが、素直な理由だ。
樹はあまり興味のなさそうな顔を浮かべていた。急に、何かを思い出したかのような、小さな声を漏らす。
「そういえば船橋先輩、彼氏ができたんだってね」
「情報早いね」
「本人からメールが届いた。今度、千波も併せて四人でデートしようってさ」
「デート?」
どう考えも組み合わせはわたしと樹だ。恋人のようなそうでないような曖昧で、素直にうんとは頷けない。
「考えておくって返事をしたよ」
そういうと、樹は優しい笑みを浮かべていた。
家に入ると、まだ家に誰も帰っていなかった。わたしと樹は自分の部屋に向かう。だが、部屋に入ろうとドアに手を伸ばしたわたしの手を樹がつかむ。
「樹?」
彼はわたしの口を押えた。
まだ日和は帰ってきていないが、こんなところをみられたら、どう言い訳していいか分からない。
そう理性を働かせながらも、彼の目を見た途端、わたしの思考回路がマヒしてしまっていた。
わたしの背中がドアと衝突する。顔をあげると、樹の顔が迫っていて、わたしは目を閉じた。
彼の唇がわたしに触れ、すぐに離れる。だが、わたしが目を開けようとしたタイミングを打ち消すかのように、再び唇を重ねてきた。そのあと、わたしの身体に自分の体をもたれかけてきた。
その一連の流れで、全身が心臓と化したかのように、鼓動をし始め体が熱を帯びる。
「姉さん、顔が真っ赤なんだけど」
「そんなの当たり前じゃない」
悪戯っぽく笑った樹に、わたしは強い口調で精いっぱいの反論をする。
今のわたしは、岡部君の話をしていた亜子と同じような顔をしているだろう。
わたしは弟と言い張っていた彼に恋をしている。
樹はわたしを好きだとは言わない。
わたしも同じ理由かは分からないが、決して言わない。
言えないのだ。
わたしが気持ちを伝えれば、その関係は大きく変わるのだろうか。
恋人になれればきっと今までの何倍も楽しい日々が待っている。
だが、ノーだと断られれば、この気持ちはどこに行けばいいのか、その答えが分からなかった。
それから幾度となく、恵美がわたしの前に顔を出すようになる。わたしは警戒心を潜ませながらも、少しずつ彼女との距離が近付いていくのを感じていた。




