わたしにキスをした弟
「そろそろ連絡を取ったほうがいいと思うよ」
「日和からメールが来た」
彼は携帯を差し出した。
そこには日和からのメールで、出店を巡りたいので花火開始後三十分後に待ち合わせをして、わたしのクラスメイトに合流しようと言うものだった。送信時間は今から五十分ほど前。ちょうど樹が携帯を触っていた時だ。小梅ちゃんの家についてから送ってきたんだろう。
「日和らしい」
わたしは苦笑いを浮かべると、天を仰ぐ。
「待ち合わせ時刻までここにいる? 花火は見たくないんだっけ?」
樹はわたしの問いかけに頷いた。
もともと強引に連れてこられたようなものだ。せめてわたしと一緒の時だけは彼の気持ちを優先させてあげようと決めたのだ。
「なら、ここにいようか。どこにもいかないから、手、放してもいいよ」
だが、わたしの言葉に反発するように、彼は手に入れる力を強めた。
「花火が嫌なわけじゃない。ただ、千波を他の奴に見せたくない」
「何で?」
さすがに二度も繰り返されると、思わずその理由を聞いていた。
その理由としてぱっと思いつくのは浴衣だ。
わたしは似合っていないとは思わないが、樹の目にはそうは映らなかったのだろう。
「あまりに似合ってないから? 馬子にも衣装だよね。着替えてきたほうがいいかな」
わたしは若干ショックを受けながらも、その気持ちをごまかすために自由なほうの手で、頭をかく。
「違う。可愛すぎて、誰にも見せたくない」
思いがけない言葉に、わたしの頬が熱くなる。
今までブスと言われたことがあったが、可愛いなんて言われたことは一度もなかった。
化粧をしているわけでもないし、その姿はいつもと変わらない。
「そんなことないよ。浴衣は可愛いけど、わたしはいつも通りだもん」
「千波は俺にとってはそんな浴衣とは比べ物にならないくらい、一番可愛いよ」
樹はわたしの耳元に唇を寄せ、そうささやいた。
その言葉に驚き樹を見ると彼の瞳に戸惑うわたしの顔が映し出されていた。
わたしは何を感じ取ったのか分からない。ただ、わたしの喉がごくりと鳴る。
わたしが自分の行動をごまかそうとしたとき、樹の影がわたしに近寄ってきた。
彼はそのまま唇を重ねてきた。
樹の背後で花火が天に昇っていくのが見えたが、急な出来事で、わたしは何も言えず、目を閉じることさえできなかった。
樹の顔がわたしから離れる。
緊張からか、夏の暑さのためか、わたしの喉がさっと干上がっていく。
だが、その喉が潤う前に、わたしの唇は再び塞がれた。
樹がもう一度唇を重ねてきたのだ。
突然の出来事だったのにも関わらず、わたしは心のどこかで準備ができていたのか、二度目の彼の唇が触れる前に、目を閉じていた。
避けようと思えばいくらでもできた。
でも、わたしはそうしなかったのだ。できなかったのだと思う。
彼の唇がゆっくり離れ、わたしの心臓が百メートルを全力疾走したかのように、早い鼓動を刻みだす。
わたしは目を閉じ、受け入れていたのにも関わらず、呆気にとられて樹を見ていた。
彼はわたしの額に手を載せ、顔を背けた。その頬は今までみたどんなときよりも赤く染まっていたのだ。
「そろそろ行こう。遅れると、日和がうるさいしな」
樹はそう言うと、目を細めた。
まるで幼いとき、両親が再婚する前のような表情で。
高鳴っていた心臓が熱を持ち、今までとは違う、体全体が震えるような鼓動を始めた。
わたしは唇に手を寄せると、首を縦に振る。
ふとそこで我に返り、辺りを見渡す。
辺りはわたしたちが到着したときのように、ひっそりと静まり返って人の気配は全くない。
見られていなかったみたいでよかった。
そう思う一方で、頭のどこかでそんなことはどこでもいいと訴えていた。
樹の左手が再びわたしの右手をつかんで歩き出す。
まるで全身が心臓へと化したかのように、体全体が大きく鼓動し、歩くたびに、その高鳴りが大きくなっていき、樹に手のひらを通してその鼓動が伝わっていないかをただ気にしてた。
日和との待ち合わせ場所は花火大会の会場から少し離れたコンビニの駐車場に決まった。わたしたちが公園を出て、信号待ちをしていると日和からメールが届いたのだ。同じ目的での利用者がいるのか、他のも浴衣姿のグループがある。
わたしたちが到着したときにはすでに日和たちが来ていて、手を振ってわたしたちを出迎える。
日和の視線がわたしたちの手に届き、そこで樹がわたしの手を離した。
日和は何も言わずに満面の笑みを浮かべていた。
「お姉さん、樹君、久しぶりだね」
水色のさわやかな浴衣に身を包んだ小梅ちゃんがわたし達に頭を下げる。
彼女はわたしたちが手をつないでいたのは全く気にしていないのか、いつもどおりの態度で接する。
「久しぶりだね。高校はどう?」
「勉強についていくのが大変ですよ。いつも日和ちゃんに助けてもらっています」
わたしは胸の高鳴りに気づかれないように言葉を交わすが、そんな動揺するわたしとは違い、樹はいつもと変わらない様子で小梅ちゃんと話をしていた。
そのあと、利香たちとも合流した。
利香も亜子も私服で、浴衣を着てきたわたし達を見て目を見張る。
「千波、可愛い」
「ありがとう」
「その子が日和ちゃん? 噂通り綺麗な子だね」
日和は亜子の言葉に苦笑いを浮かべている。
日和も亜子も人見知りはしないため、あっという間に打ち解け、他愛ない話をしていた。
その後、半田君たちと合流する。半田君がこちらを見ると、樹は軽く頭を下げていた。
半田君がこっちに来ようとしたが、そのとき再び花火が空に舞う。
周囲の視線が空に集中しているとき、樹がわたしの手を引いた。
わたしは彼の行動に驚きながらも、はぐれないように彼の手をしっかりと握る。
「あとで合流しようね」
わたしが日和たちのそばを離れる前にそんな言葉が届く。
驚き振り返ると利香と日和がこちらを見て手を振っていた。
彼は少し離れたところで足を止めた。
そこは人気が少なく、さっきより花火が見やすい。
「少しだけここで見よう」
わたしは樹の言葉に頷いた。
わたしはほとんど樹と一緒に過ごした。彼を見るたびに、どんな艶やかな花火よりもキスの感触が幾度となく脳裏によみがえり、わたしの頬を常に火照らせていた。
日和と一緒に小梅ちゃんを家に帰ってから家に帰ることになった。
日和は自分一人で小梅ちゃんを送ると言っていたが、そこはさすがにわたしが折れなかった。
妹を一人にするなんて絶対にできないためだ。
家に帰ると、わたしは手早く両親に帰宅の挨拶をして自分の部屋に入った。
ドアに背中を付けると、短く息を吐く。そして、唇をなぞると、天を仰いだ。
「キスしたんだよね」
冗談で振りをされたときとは全く違う。
あの時の樹の表情と、胸の高鳴りが改めて蘇り、わたしの心拍数を高めていった。
翌日、目を覚ますと体を起こした。
昨日は樹が部屋に戻ったのを見計らい、寝支度を整えたが、今日もそうするわけにはいかないだろう。勇気を出してリビングに行く。そこには母親の姿だけがあった。
樹は朝食を食べ終わったのか、彼の食器はない。
わたしは拍子抜けして、部屋に戻ると、溜息を吐いた。
キスは恋人同士であれば、普通にすることだ。
わたしと樹は兄弟でもちろん恋人ではない。もちろん、血はつながっていないが。
樹のことだ。キスをしてみたかっただけ、わたしの反応を見てからかいたかっただけと言われる可能性だってある。そう言い聞かせながらも、樹はわたしを好きなんじゃないかという、周りの人に聞かれたら笑われそうな考えが脳裏を過ぎり、頭を抱え込んだ。
昼食だと母親に言われ、今日だけでしわが倍以上になったのではないかという頭を抱え部屋の外に出る。その時、樹とばったり顔を合わせる。
わたしは昨日のキスのことを思いだし、顔がほてる。
樹はわたしを冷めた目付きで一瞥すると、わたしの脇を通り過ぎた。
照れやからかいの感情を感じ取ったのなら、それはそれだと割り切れただろう。だが、樹はいつもの何事もなかったような表情を浮かべている。彼にとってはあの程度はどうってことないということなんだろうか。
今まで樹に彼女がいたり、彼女がいないのに遊んでいるということもきいたことがない。女に慣れているわけでもないと思う。
わたしには樹の考えが全く分からなかった。そして、考えるのがバカらしいという結論に達したのだ。




