わたしの冗談を言う弟
わたしは視界に移ったものに目を奪われ、足を止めた。
もう季節は梅雨明けが近付いていた。一学期の行事として、期末テストもあるが、それは敢えて考えない。
「この雑貨、可愛いよね」
「マグカップなんて家に腐るほどあるだろう」
「分かってない。このデザインがいいんだよ」
樹は面倒そうにそうですかと言葉を交わす。
動物園に一緒に行ってから、樹が買い物に良く付き合ってくれるようになった。もっとも乗り気で買い物についてきてくれるわけではないので、たまに不満を滲ませるが、それでもなんだかんだいってついてきてくれてはいる。むしろ誘わなかった時のほうが不機嫌そうだ。
家と学校の距離が近いため、今まで学校が終わるとすぐ家に帰っていた。
だが、どこかに寄りたいといえば今みたいに普通についてきてくれ、少しだけ下校時間が多様性のあるものになっていた。
利香にそのことを言えば、「仲良くなったね」と言ってくれた。
もともと樹と仲よくなりたい気持ちはあったため嫌な気はしない。
視線を感じ、顔をあげると樹がわたしを見ていた。
「どうかした?」
「何でもない」
そう言葉をきった樹がおもむろにため息を吐く。
「お前さ、期末テスト大丈夫なわけ? これだと俺が来年受験してもいい大学に入れるかもね」
「そんなことないはず」
ないと断言したかったが、心なしか声が小さくなっていく。
そこまで言われると悲しくはなってくる。
「二年生の勉強を先取りして、バカな姉さんに勉強を教えるのも悪くないな」
わたしは頬を膨らませて樹の言葉に抵抗した。
「悔しいなら俺よりいい成績を取ったらいいよ」
「いい成績ってわたしと樹じゃ学年違うもの」
「同じ模試を受けても姉さんには負けない気がするよ」
そんなことないといえないのがきついところだ。彼は受けるなら相当猛勉強するだろう。
今だってかなりの勉強量をこなしているのだ。
黙っているわたしに樹が追い打ちをかける。
「このままじゃ、大学落ちそうだし、一浪したら同じ学年か。姉さんと同じ大学に行くのも楽しそう」
「わたしと樹じゃ行く大学も違うと思うよ」
「俺のほうが一年年下だから、選べる立場にはあるよね」
「家に帰ればいつでも会えるじゃない。わざわざ同じ大学に行かなくてもさ」
「そうだけど、そうもできるってこと」
本当に樹が何を考えているのか分からない。
「大学は大事なんだから、そういうので選ばないほうがいいよ。就職とかその後の人生にも影響あるかもしれないし」
「それは姉さんも同じだよね」
姉らしい言葉をかけたつもりが、もっともな返しに何も言えない。
高校一年あまりを中学の延長戦上な生活を送ってきたわたしには、耳の痛い話だ。
「姉さんが寂しくないなら、それでもいいけど。いつでも会いに行ってあげるから」
「寂しくなんかないもの。同じ家なのに会いにいくも何もないでしょう」
わたしは思わずそう大声で反応する。
樹はそんなわたしを見てくすりと笑う。
周りからの視線も心なしか増えた気がした。
わたしは視線を足元に落とす。
「最近、姉さんをからかうのが楽しいんだよね」
「意地悪」
そう爽やかな笑顔を浮かべて口にした樹に対して、頬を膨らませ、必死に抵抗する。
樹と目が合い、わたしと彼はどちらかともなく笑い出してしまっていた。
わたしはふと視線を感じ、辺りを見渡す。
「どうかした?」
「なんでもない」
誰かに睨まれているような鋭い視線を感じたが、辺りを見渡してもわたしたちを睨んでいる人はいなかったように思う。変な目で見ている人はいたけれど。
首を傾げながらも、家に帰ることにした。
皆が好きな話題で盛り上がる昼休み、鋭い言葉がわたしの耳を抉る。
「あの人が樹君のお姉さんなの? 想像していたより普通だね」
「見られているね」
亜子は後方を見て、苦笑いを浮かべる。
「本当、困るよね」
わたしは自分の前髪に触れると、顔を机に伏せた。
昨日の視線と関係があるかは分からないが、今朝、利香から気になる噂を聞いたのだ。
樹が女の子に告白され、断った、と。その時、その女の子が誰か好きな人がいるのかと聞いてきたらしい。
樹はこともあろうに、好きな相手はいないが、わたしが嫉妬するから誰とも付き合わないという以前噂を流していた少女たちがある意味喜びそうなことをさらっと言ったようだ。
それを冗談と大半は捉えたようだが、一部の生徒が本気にし、こうしてわたしを見世物にしているというのが現状のようだ。
放課後、樹に文句を言おうとは思っても、ふつふつと不満が募る。
「最近、すっかり樹君と仲良くなったよね」
それでも気持ちを取り直し、お弁当のおにぎりを口に運んだ時、予期せぬ言葉がわたしの耳に届いた。
発言者は亜子だ。
「まあ、仲はいいよ」
樹にいらつきがあるが、その言葉を否定する気はしなかったのだ。
それとこれとは別問題なのだ。
「そのうち二人が付き合っちゃったりしてね」
わたしはちょうど口の中に入れたおにぎりの影響でむせ返る。
「亜子」
呆れ顔の利香が、わたしの背中をさすってくれた。
わたしは何とかおにぎりを飲み込んだ。
外にいる生徒たちにでも聞かれようものなら、一悶着ありそうだ。
今まで樹との関係をからかわれることがあっても、たいていわたしと樹が釣り合わないと言われるばかりで、そこまでストレートに言われたことはなかった。
そもそもそんなこと考えたこともなかった。
「わたしと樹は兄弟なんだよ。付き合うわけないって」
「でも、血も繋がってないし、あれだけカッコいいんだもん。惚れても許されるって」
「誰に許されるのよ」
わたしは苦笑いを浮かべる。
「両親じゃないの?」
と利香がまじめな顔をして言う。
もっともな返しだが、そもそもわたしも樹もお互いを好きでもないため、前提条件が間違っている。
「わたしはお姉さんになりたかっただけで、樹に恋愛感情は持ってないよ」
「そんなことを言っていたら、誰かに取られちゃうよ。そのときには後悔しても遅いよ」
亜子がわたしに右手の人差し指を向ける。
樹に彼女ができる。ありえない話じゃない。
動物園に行った時も、普段からも何度も思う。
それだけ彼は人の注目を浴びるし、彼の心変わりでそれが現実のものとなるだろう。
それでも、彼が彼女を作らないんじゃないか。
そう思ってしまう、わたしはブラコンかもしれない。
それだと樹の暴論が一理あることになってしまう。
「飲み物でも買ってくるよ」
わたしは気持ちを立て直すためと、亜子の攻撃から逃れるために席を立つ。
教室の扉のところに行くにつれ、わたしを見ていた生徒が明らかにさっと目に見て取れるように散っていく。
樹の言葉に不満があっても、わたしに直接何かをいってくる人はいなさそうだ。
ホッした気持ちの隙間を、複雑な気持ちが埋めていく。
昨年までの平穏な日常を恋しく思いながらも、教室を出る。
だが、階段を下りた時、下からショートカットの釣り目の女の子が階段を上がってくる。
彼女はわたしを見ると、二重の目を見開き、小さく声を漏らした。
わたしの知らない子だが、樹絡みの子なのだろう。
彼女はピンクの唇に触れると、口元を歪め、勝ち気な笑みを浮かべた。
「話があるんですけど、いいですか?」
わたしは嫌な予感を感じ、すぐにはいいと言えなかった。
「すぐに終わりますから」
彼女はわたしの返事を聞かずに、勝手に歩き出す。
何でこうなんだろう。
学校があれているわけでもないし、樹の冗談一つで暴力が振るわれたりはしないだろう。
そう思いながらも、わたしに対して良い感情を持っていない人たちについていくのは抵抗があった。
きっと大丈夫だと、自分に言い聞かせながら、仕方なく、彼女の後についていくことになった。




