わたしの理解不能な弟1
チャイムがゆっくりとした音楽をかなで出す。みんながこれからの放課後に恋焦がれる時間。
だが、わたしの心はいつものように重い。
鞄を閉じため息を吐いたとき、教室の開きっぱなしの扉から茶髪で長身の男性が顔を覗かせる。少し茶色の髪の毛は花畑の中に一つだけ毛並の違う花のようでよく目立つ。もっとも彼のその髪の毛は生まれつきのもので、染めているわけでもない。
そんな彼に気づいた女子生徒が二人、彼のもとに駆け寄っていく。
彼は彼女たちと言葉を交わしながら、視線を泳がし、わたしのところで止まる。
彼は目を細めた。
通った鼻筋に、澄んだ瞳。肌荒れとは無縁なほどのきめ細やかな肌。
きっとわたしが彼のことをこうして遠目で見るだけなら間違って恋心でも抱いてしまいそうな、完璧を絵にかいたような笑みだった。
わたしの机に影がかかり、ショートに釣り目の子が目を細める。同じクラスの船橋亜子だ。彼女は艶のある髪の毛に触れると、目を輝かせてわたしの顔を覗き込む。
「今日もお迎えだね」
「勝手に帰れと言っているのに」
そのとき、机の上にペンが一本残っていたのに気づき、鞄の端から差し込んだ。
「でも、毎日こうやってお迎えされるのって少し嬉しかったりしないの?」
そう言ったのは腰ほどまでにあるロングヘアを後方で一つに縛った、クラスメイトの板橋利香だ。目鼻立ちのはっきりとしたほりの深い顔立ちだが、一見地味な印象を与えるその髪型は彼女の華やかさを抑えるのに一役買っていた。
先ほどの亜子は高校に入ってから親しくなったクラスメイトであまりわたしと樹のことは詳しく知らない。ただ、利香は小学校から同じで、わたしと樹の関係もある程度はしっている。だから同じからかいであろうともその心情は大きく違うことを知っていた。
「冗談? やめてよ」
わたしは頬を膨らませ、必死に利香に対して抵抗する。
利香はやれやれという言葉が聞こえてきそうなほど、大げさに肩をすくめた。
こんなことは珍しいことではなかった。そう今年の四月に彼がこの高校に入学してから一か月。毎日のように続いていた。
わたしは覚悟を決めると鞄を手に取る。
「だいたい樹は弟なんだから」
再び、わたしの言葉に彼女達はやれやれと肩をすくめる。
「でも、義理じゃない」
そこまでがいわばお決まりの会話だ。
「でも、わたしにとっては弟なんだよ」
わたしは言っても無駄だと思い、そう宣言をして別れの挨拶をする。そして、教室の外にある人の集まりまで行く。
「樹」
彼の名前を呼ぶと彼は近くの女の子に別れを告げていた。
わたしはそんな彼の様子を見守ることなく教室を離れる。背後から足音が聞こえて、名前を呼ばれ振り向くと樹の姿があった。
彼の顔には影がかかり、悪戯っぽく笑う彼をやけに邪悪に見せていた。そして、わたしの横をすり抜けていく。
彼の様子に内心むっとしながら、わたしも階段を下りていく。
「お姉さんにいじめられたら教えてねって。優しいね。先輩方は」
彼は振り返ることなく憎まれ口を聞く。
「優しくない先輩でごめんなさいね」
彼に話すときはあくまで淡々と、冷静を装う。
遠目で見ると完璧を絵にかいたような彼をわたしはあまり好きではない。
わたしが彼を嫌っているのは別に恩着せがましくわたしの教室に来るからじゃない。
わたしの足が一階のフロアに下りる。わき目も降らずに自分の靴箱まで行く。靴を履き終わる頃には彼はもう昇降口にいた。
わたしと目が合うと、卑屈な笑みを浮かべ歩き出す。
通りすがりの生徒が熱にうなされたような目で樹の姿を目で追っている。
わたしと彼は血のつながりなんてない。だから顔も似ても似つかない。樹はいるだけで人の目を引くが、わたしはそうでもなく辺りに埋没してしまう。友人からは可愛いと幾度となく言われたことはあるが、所詮それどまりで本当の美しさの前にはあっさりと埋没してしまう。
利香もかなりの美人で人目を引くが、それ以上なのは、目の前のまだ少年といっても過言ではない義理の弟だ。
紅顔の美少年。幼いときの彼ほどその言葉がしっくりくる人間はいない。彼と初めて会ったのは小学校に入る前で、黄色の胴体の半分ほどある斜め掛けの鞄をおおげさにからっている姿は女の子と見紛うほど可愛かった。
わたしと樹はわたしの母親と樹の父親が再婚して、小学校一年の時に家族になった。その二人には大まかな共通点がある。それは二人の年齢が同じということと、二人とも伴侶の浮気で離婚をしている点だ。
彼の母親は彼が幼稚園に入る前に他の男と浮気して離婚になったらしい。大抵子供の親権は母親が持つらしいが、あっさりと彼の父親が親権を得たことがすべてだったのだろう。
わたしの父親はこともあろうか、日和を妊娠中のときに、他の女と浮気をして出て行ったらしい。
日和と樹が同じ幼稚園に通った事で、両親は知り合った。気心の知れた仲とは二人のことを言うのだろうというくらい、二人はよく一緒に過ごしていたのを目にしていた。そのため、子供同士が仲良くなるのに時間はかからなかった。
それでも、二人の間に結婚話が出てきたのは驚きで、初めて聞いたときは戸惑いしかなかった。ただ、わたしも日和も父親の顔を知らず、他に女の人を作り、再婚までしていると知っていたのが悪いようには働かなかったようだ。わたし達は二人で話し合い、母親の再婚を受け入れることにしたのだ。
彼は肩越しに振り返ると、得意げに微笑む。一瞬、弟であることを忘れそうなほど、魅力的な笑顔だ。
その話を聞いて、ほどなくして彼が弟になったのだ。
「迎えに来られて嬉しかった?」
「いいえ。迷惑でした」
ボイスレコーダーに録音したようないつも繰り返される言葉にため息を吐く。
彼の足が止まり、鉄製の門を開けると中に入っていく。この大きな家は樹の父親の持家で、再婚して住むようになった。だが、もう十年住んでくるといつの間にか愛着がわいてくるのは不思議なものだった。
彼は鍵を開けるとわたしを先に家の中に入れる。そして、扉の閉まる音が聞こえた。
靴を脱ぐと、樹がぽつりとつぶやくのが聞こえた。
「本当、相変わらず可愛くねえ女」
そんな言葉を如実に示すかのように、今を楽しむかのような邪悪な笑み。
「可愛くない女と一緒に登下校をしようとする樹も相当のものだと思うけどね」
彼が扉から離れ靴を脱ごうとしたときに、閉ざされた玄関が開く。
そこからロングヘアの少女が顔を覗かせ、大きな目を見開いていた。
彼女はわたしたちに声をかけると靴を脱ぐ。
「今日は早かったね」
「バスが運よく遅れて、一本早いのに乗れたの」
妹の日和は目を細めると、家の中に降り立った。階段に足を延ばしかけた彼女を、樹が呼び止める。二人は樹が隣に並ぶのを待ち歩き出す。
他愛ない日常を日和に語っていきかせているのだ。
そんな樹にはさっきまでの邪悪な表情は欠片もない。穏やかなまるでわたしのクラスメイトにでも見せびらかしているような笑みだったのだ。妹と同じ幼稚園生として彼を知っていたとき、彼はわたしにもそんな笑顔で接してくれていた。だから、再婚して彼が弟になれば、そんな笑みを浮かべてくれると信じて疑わなかったのだ。
両親の結婚の前に顔合わせをしたとき、いつものように樹はわたしの傍に寄ってきた。
笑顔で挨拶をしようとしたとき、彼はにっこりと笑い、わたしを新しい部屋に連れて行ってくれた。新しい部屋に驚き、部屋を一瞥して、樹を見た。
「これからお姉ちゃんと仲よくしてね」
だが、彼はいつもの愛らしい表情を崩し、皮肉めいた笑みを浮かべているのに気づいたのだ。
「お前なんて姉とは思ってないよ。ブス」
そう言われ、わたしは凍りついた。
時間が止まり、何もいえず彼を凝視していた記憶は今でも鮮明に残っている。
「樹君、お姉ちゃん?」
そう母親に連れられ、二階に来た日和と母親を見て、樹は再び愛らしい笑みを浮かべる。
「日和ちゃんの部屋はこっちだよ」
そういうと、樹はわたしの部屋を出て行った。
最初は母親になって変わったわたしの母親のことを憎んでいるのではないかとも思った。だが、彼は日和にもわたしの母親にも穏やかな人間性を崩すことはなかった。彼のそんな態度はあくまでわたし限定だったのだ。