プロローグ
夜の帳が降りた都会。街灯や店の電飾が街を照らし出す。春とはいえども、夜の風は冷たく、道行く者達は皆縮こまったように家路を急ぐ。しかし、砂漠の夜といえども世界の裏側は灼熱の太陽が降り注ぐように、熱狂に包まれた場所があった。
表通りから離れて高架線を潜り抜けた先にある裏路地。剥き出しの鉄骨と廃墟になったビルに見下ろされるように、フットサルのコートがあった。四方に設置されたライトに照らされ、何処の馬の骨とも分からぬ者達が今日も今日とてボールを追いかける。
それらを、ネット外から見物する者もいた。ピッチ上で展開される華麗なプレーに、観客は口笛を吹いたり、手を叩いて賞賛したり、絶叫する。誰かの携帯音楽プレーヤーから、うねるようなヒップ・ホップが流れて、ピッチ上の躍動と溶けて一つに混ざり合う。皆、この一瞬が全てとばかりに、熱く楽しんでいた。
その界隈に、まさに今、誰かが加わろうとしていた。ざくざく、と砂を踏みしめる足音。ネット外にいた集まりの内一人がその者に気付いて、声を上げた。
「きたぞ、"赤バン"だ!」
周りにいた者は皆、一様に振り返る。そしてまた、轟くような歓声をあげた。ネット辺近くに歩み寄り、ようやくその者はライトに照らされた――――トレードマークである流線模様の赤いバンダナを頭に巻き、結び目からは束ねられた金色の長い髪房が垂れていた。背丈は中学生くらいで、華奢な体躯。上下ともに黒を基調としたジャージで、シンプルな出で立ちである。バンダナに隠れて鼻から先は影を落として見えないが、鼻から顎までは端正に整った顔立ちで、澄んだ色白だった。
赤バンと呼ばれる者は、入り口に立っていた赤いモヒカンの男に話しかけた。
「エイジ、入れてくれる?」
「あんたが勝つ方に掛けたんだから、絶対勝ちなさいよ紗矢」
筋肉隆々の体格からは想像のできない歪な高い声で、エイジと呼ばれた男は笑いかけた。紗矢、と呼ばれる赤バンは白い歯を見せた。
「"ボク"が負けると?」
「まぁ、それもそうね」
エイジは肩をすくめてみせ、場所を空けるようにずれると網網の戸を開けた。錆び付いた金属音が闇夜に響き渡り、赤バンがピッチの中に足を踏み入れた。
ピッチでプレーしていた男達は足を止めて、赤バンの方を見た。四、五人いた中のリーダー格と思しき者がにやりと笑った。
「おうおう、あんたが"赤バン"か? 噂以上のおチビちゃんじゃねぇか」
ヒューヒューと後の四人が囃し立てる。ネット外の者達もここぞとばかりに歓声を上げた。しかし、赤バンは何も取り乱すことなく、静かに歩み寄る。百八十センチは軽く越そうかというリーダー格の男を見上げると、バンダナ越しに睨んだ。
「約束通り、勝負は受けた」
「へっ、臨む所だ」
リーダー格の男は足元のボールを蹴って、赤バンに渡した。
「ハンデをやる。そっちから先行でいいぜ」
周囲のボルテージが上昇した。観衆はネットにしがみつき、軋んで揺れた。後ろにいた数人の男達が脇に逸れる。狭苦しいピッチには赤バンとリーダー格の男――――センターサークルを挟んで二人は睨み合った。彼らの背後には互いに小型のゴールが置かれてある。
「三点先取した方が勝ちだよ、いいね?」
エイジの声が響き渡った。赤バンは右足にボールを乗せたまま静かに佇み、リーダー格の男は腕を鳴らして舌なめずりをした。
エイジのホイッスルを合図に、割れんばかりの怒号に似た歓声があがった。二人の距離が縮まる。赤バンが足の裏で滑らかにボールを動かしながら、でも頭は前を向いたまま男の様子をうかがっていた。
「けっ、ガラ空きだァ!」
男は一瞬にして距離を詰めた。長い脚がボールを収めていた赤バンの右足へと向かう。靴の裏が見えていて、ボールをカットするような勢いではない。もし命中すればファールをとられ、カードが出されてもおかしくはないだろう。だが、このピッチにはルールも審判も存在しない。
「痛い目見やがれ、クソガキ!」
しかし、次の瞬間、男の右足は虚空を捉えていた。
「き、消えた?!」
訳が分からない、というような顔をして後ろを振り返った。しかし、幽霊ではないのだから無論消えたのではない。
男の足の間が大きく開いた隙を見逃さず、ボールをつま先でつつくように蹴って通し、かわしたのだ。その証拠に、ゴールへと一直線に向かう赤バンの後ろ姿があった。獲物のボールはするすると無人のゴールネットへ沈む。
「――――ガラ空き、だね」
涼しい声。こだまする歓声。熱い夜は刻一刻と更けゆく――――。